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聖書のメッセージ

神への応答

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.1


  聖書のこの箇所は、「二人の息子のたとえ」というタイトルがついているが、本田哲郎神父訳では「たてまえだけで実行の伴わない指導者たち」となっている。原文にそのようなタイトルがついているわけではないが、「娼婦や徴税人」たる最下層の人々と、彼らを抑圧する権威があると信じ込み、そのような振る舞いをしても一向に恥じない指導者たちとを対比するたとえ話であることは、明らかである。彼らは、自分たちこそ選ばれし者、この世の人生を終えたら必ず天の国に迎え入れられるので、今さら自らの行状を糺す必要もないと考えているようでもある。

 先日、ある勉強会で原始キリスト教とローマ帝国の関係について社会学的なアプローチをする本を読んだが、その中で「ただ乗り」の人々が教勢に与える影響が言及されていた。つまり初代教会時代にも、キリストの教えに共感し、神の愛や恩恵には当然のようにあずかるが、共同体に対しては何の貢献もせず、責任を取らない人々がいたようで、それを著者は「ただ乗り」と名付けている。

 教会建物や教役者維持に加え、電気光熱費や消耗品の支払いは必須だし、礼拝ひとつ行うにも、さまざまな役割を担う必要がある。静かにお祈りだけしていたいと願う人に対し、時に一種の疲労感が漂うのは、わずかな貢献をしていると自負する人々もまた、神の前には全くの「ただ乗り」である現実を忘れているからではないか。

 イエスさまが教えてくださったのは「あなたが幸せに生きること以外、何も望まない」「代償や報いは求めていない」「社会的な貢献の度合いではなく、いのちそのものが大切」という神。無条件の愛、限界のない豊かな世界を共有しようとする神に、わたしたちはお返しをするどころか、単にそれに「ただ乗り」しているに過ぎない。そういう意味では、「ただ乗り」を人々に提供する限り、教会は教会であり得るということなのかもしれない。経済的にも労力的にも決して余裕はなくても、走り続けられるよう祈るしかない。それがわたしたちの神への応答なのではないか。

目が「腐らない」ために

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.24


 現代社会では、到底受け入れられそうもない「ぶどう園」の話です。天国では、1時間しか労働に従事しなかった人も、まる一日汗水流して働いた人も、1日分の賃金1デナリオン(5千円程度)を受け取ります。もしパートの仕事をいくつも掛け持ちして、必死に生きている人がこれを聞いたら、最初から夕方頃にぶどう園に行く計画を立てるかもしれません。夜はしっかり寝て、朝から一日中別の仕事、そして夕暮れ近くになってぶどう園へ駆け込み、最後の1時間だけ働く。そしてフルタイムで働いた人と同じ金額の賃金を受け取る、それが賢い生き方ということになるのでしょう。

 しかしながら、このぶどう園の話は、「神さまと出会って平安が与えられる」という1デナリオンの話であることは明らかです。神さまの悠久の時間に比べ、わたしたちの生涯はほんの一瞬に過ぎませんが、一生をかけて神さまと一緒に歩いてきた人も、散々放蕩の限りを尽くし生涯の最後に駆け込みで神さまと出会った人も、全く同じように永遠の命が与えられ、もれなく天の国に迎え入れてくださる神について語っています。ところが、1日中重労働と酷暑を耐えて働いた人は、同じ扱いでは不満だと言います。「妬むのか」(16節)という語は、「あなたの目は腐っているのか」という意味のギリシア語が使われています。つまり、わたしたちの永遠の命や魂の平安は、神さまから恵みとして無条件に与えられたのに、それを自分の努力の結果だと思い込む誘惑や間違いについて語っているのではないでしょうか。

 昔々、病院のチャプレンをしていた時に、一人のホームレスの高齢男性が入院してきました。海辺の公園で何十年と野宿をしてきたので、入院してからも、医師や看護師がベッドに近づくだけで、身体を硬直させて怖がりました。それは、公園に住む彼に近づいてくる人々は、彼に危害を加える存在だったからです。しかし時間が経つとだんだんと表情が和らぎ、人生の夕暮れ時になって人との関わりを平安のうちに受け入れられるようになり、そのあとすぐに洗礼を受けて旅立っていかれました。この方は、社会の片隅に隠れるようにして生きてこられ、「一日中」ぶどう園で働くことはできませんでしたが、まさに日没1時間前に間に合って、思いやりある人々と出会い、平和な心と共に神さまの元へと旅立った。そんな神さまの業を、人々に伝える役割を果たしたと思うのです。

ゆるしについて その2

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.17


 先週に引き続き、再び「ゆるし」の話が続きます。今日の聖書は少し長いので、皆さんの“気になるポイント”は異なるかもしれませんが、まず冒頭の「7の70倍(回)まで赦しなさい」というイエスさまの言葉に圧倒されます。赦せない内容によっては、たった1回さえ断腸の思いなのに、490回?とは気の遠くなる数字です。

 そもそも「赦す」という行動は、人としての成熟度を必要とすることがらで、水に流したり忘れた気分になるということでもない、また相手の行動を容認するのとも違う、そして「こうすれば赦したことになる」という模範解答もない、そんな難易度が高いことがらであることは確かでしょう。

 さて今日の福音書です。主君によって膨大な借金の返済を「帳消し」にしてもらった家来が、今度は自分が金を貸している知人に出会うと、貸した金をすぐ返せと要求します。返済できないから待ってくれと懇願する知人を、家来は聞く耳持たず牢獄に入れてしまう。するとこれを知った主君は怒り、赦したはずの家来を牢獄に入れるというストーリーです。

 「赦し」の話を、金の貸し借りに絡めるのは、なんとも違和感がありますが、生涯かかっても返せないような膨大な借金(1万タラントン=1兆円)から解放された人が、その恵みの豊かさに触れようともせず、頑張れば返せる程度の貸金(百デナリ=50万円)に固執する、その愚かさを描いているのかもしれません。最終的に家来を牢獄に入れた主君は、「赦す」と言った前言を翻したのではなく、無慈悲な家来の行動に対して「牢獄」に入れるという措置をした展開なのでしょう。

 家族も家財もすべて売り払って借金を返せと迫ること、そして期日までに返済できない人を牢獄に引き渡すことは、当時の法律では「合法」だったようです。そういう意味では、家来は犯罪をおかしていません。しかし負債から解放された途端に、自分の負い目は初めからなかったかのように振る舞い、すぐに利害追求に取り掛かる。そんな生き様は「牢獄に閉じ込められた」人のようだと言っている気がするのです。

 神さまに愛されているのだから恵みの偉大さに目を留め何でも許容せよ、と聖書が勧めているのではなく、本当の神の寛大さに触れたわたしたちは、その恵みを直視し受け止めるとき、更なる的成熟へと招かれていく、と言っているのではないでしょうか。

ゆるしについて

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.10

 約束を忘れてしまった、他人の持ち物を壊した、そんなときに「ごめんなさい」とわたしたちは言いますが、それは「赦してもらおう」「きっと赦してもらえる」と思うから、口に出すことができるのだと思います。その一方で、相手が赦してくれるか本当にどうかわからないときの「ごめんなさい」は気が重く、断られる覚悟をしないとなかなか言えるものではないでしょう。取り返しのつかないこと、人生を変えてしまうような傷を負わせたときは、「相手に対して赦しを乞う」という考え自体が厚かましいと感じ、「赦してほしい」などとても言えないということに。そんなとき多くの人は、物事の本質を直視するより、法的制裁や相手が矛先を収めてくれる道を探し、それによって自分の出方を測るのかもしれません。

 たとえ法律によって「犯罪」と断定されなくても、賠償を要求されなくても、わたしたちはまず「神さまにとっては何が起きたのか」を中心に考える必要があるでしょう。何故このようなことになったのか、自分の何が間違っていたのか、そして取り返しのつかない事実から自分は何を学べばいいのか、祈って祈って向き合う、ということなのだと思います。

 今日の聖書は、自分が赦しがたいことをしてしまった場合ではなく、赦しを乞うべき人に対して、どのように願うべきなのかを語っています。それは、過失を犯した人をわたしたちが対岸の火事として眺めるのではなく、火の粉が飛んでこない対策にあくせくするのではなく、自分に同じようなことが起きる可能性をも含んだ話なのだと思います。それは、愛をもって率直に忠告しても、結果的にその人が聞き流すようであれば、あとは神の働きに委ねてみましょうということです。それは外見からは「諦めた」ようにも見えますが、関わりを拒絶するのではなく、その人が回心した時にはいつでも話を聞く心の用意がある状態です

 わたしたちは、ひとりでは「祈る」ことさえ難しいときがあります。でも、神さまを信じる者が二人三人と集まったときにやっと祈ることができるように、「罪」を犯した人に対しても、自分の力ではなく、神さまの働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈るとき、神さまの願いが実現していく、と語られているのではないでしょうか。

よびかけに応える

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.3

んなことは認めない」イエスさまから、これから起きる出来事の内容を告げられたお弟子さんたちは、こう思ったに違いありません。イエスさまについていけば洋々たる未来が広がっており、礼拝に連なる人の数も増え、教えの正しさが伝わり、いつかはローマ帝国でさえひざまずく、そんな未来を描いていたのでしょう。しかし事態は、思いがけない展開へと滑っていきます。「十字架にかけられて殺され、三日目に甦る」イエスさまが打ち明けた内容は、到底受け入れられるものではありませんでした。これから起きることだと言われても一体何を言っているのだろう、と頭の中が真っ白だったことでしょう。

  同列にはできないとしても、予想とあまりに違うことが起きると、わたしたちの頭の中は真っ白になります。重篤な病気の宣告だったり、家族に関するとんでもない予定変更だったり、絶対にこうなると信じていたことが白紙に戻されたりする事態です。受け止め切れないほどの不安や喪失感は、大きな怒りとして表現されることも多いですが、時には、本質とは全く違うことを問題にして、現実に直面するのを避けようとする、そんな自身の弱さや小ささと出会ってしまうこともあります。

     現代では、弱さや小ささは退治しなければならない対象ですが、イエスさまはむしろ、「弱さや小ささと共に歩こう」と呼びかけます。十字架刑というご自分に課せられた苦痛よりも、残されていくお弟子さんや民衆を心配されていますが、それは、病人を癒し、魂の渇きを満たす、力ある輝かしいイエスさまだけを見つめてきた人々が心配だからです。イエスさまが示された神は、弱さや小ささを退治してこいと命令する神ではなく、もろさ、弱さを持ったままで、「背負った」まま共に歩こう、と呼びかける神です。お弟子さんや民衆だけではなく、わたしたちもまた、そのように招かれています。良い子のわたしとして神の前に立つのではなく、自分では認めたくないような弱さにも目を覆うことなく真っ直ぐ進むこと、それが神さまへの本当の信頼なのかもしれません。

岩盤まで寄り添う神

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.27


 ニワトリが鳴けば「あなたのことなど知らない」と言い放ち、急にイエスさまが出現するとビックリして湖に飛び込む。そうかと思うと、「小屋を3つ建てましょう」などと場違いなことも口走る。イエスさまの最も身近にいたのに、思慮深いとは言えないその言動を、聖書にたくさん記されてしまっているこの人を、イエス様は「あなたはペトロ(岩という意味)」と命名します。

 シモンというのがこの人の元々の名前ですが、イエスさまの「あなたは岩だ」との言葉により、シモン=ペトロと呼ばれるようになりました。それにしても、なぜこの人が「岩」なのでしょうか。行動や言葉からは想像し難いですが、「実はこの人は、岩のような堅固な信仰を持っているのだ」と、イエスさまが見抜いていたということでしょうか。

 この後、皆が安心して教会に集い礼拝を捧げることができる日が来る前に、まずキリスト教徒への「迫害」が数百年続きます。今のように情報網が発達しているわけではなかったので、イエスさまの名を口にすると徹底して同じ処罰を受けるわけではなかったものの、命の危険は常にありました。こんな中では、表面や見た目だけを整えた「信仰」や「教会」では、簡単に「陰府の国」に引き倒されたことでしょう。万人に理解しやすい福音、そして中身は問わずにまず何でも受け入れる、という姿勢は大切ですが、それは他者に目を向けたときのこと。教会のしくみや制度ばかりではなく、自身の信仰や神さまに対する信頼まで、「そのままで問題ない」と放置を決め込むと、それは砂浜の上に立てた信仰、空中に浮かぶ信頼のよう。お天気が良い時は大丈夫でしょうが、嵐が来れば、あっという間に消えるかもしれません。

 砂の表面にではなく、心の岩盤に到達する信仰へと導いてくださる神さまは、岩盤とはほど遠いシモン=ペトロに寄り添い、人々を「岩盤」へと導く器として、敢えてこの人を用いられました。わたしたちも、自分の普段の行状から「自分の信仰は薄い」と決め込んでガッカリし諦めるのではなく、シモン=ペトロをも用いられ、わたしたちの頑な岩盤にまで寄り添ってくださる神さまの愛の深さに信頼したいと思います。

信仰は「宗教」を超える

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.20


 福音書には、さまざまな「部外者」が登場しますが、それはユダヤ教の言う「正統な律法」を守って生活することができない人々への区分でもあり、いわゆる外国人だけではなく、病人や障害を負う人も、そして今日登場するカナン人も、律法に照らし合わせると「部外者」です。

 カナン民族の元を辿れば「ノアの方舟」のノアに辿り着くように、「乳と蜜が流れる」と称される土地に、カナン人もイスラエル人も、実際は共存していたようですが、カナン人が持ち込んだとされるバアル神やアシュラなど豊穣をもたらす宗教を、ユダヤ民族は強く警戒しました。宗教への混入を避けるため、カナン人と付き合わないだけではなく、時を経てそれは「正当な差別」となり、何かあっても助け合うということはような関係にはなりませんでした。

 このような歴史的背景のあるカナンの女性が、かまわず助けを求めてきたのですから、イエスさまがちょっと困惑するもの無理はありません。どう応えたものかと迷っているうちに、お弟子さんたちは「この女を追い払ってください」と追い討ちをかけます。

 しかしわたしたちにとって最も気になるのは、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」というイエスさまの答えでしょう。これが「イスラエルにしか遣わされていない」という意味なら、地球上の大多数の人間は、困ったときも「あなたには遣わされていない」と言われてしまうのでしょう。

 しかしイエスさまは、この女性をカナン人だからという理由では排除しませんでした。また、この女性の宗教を変えさせようともしませんでした。彼女のひたむきで真っ直ぐな願いを認知し、尊厳ある人間としての求めを聞いた。それは、カナン人だろうと、両民族がどういう歴史を辿っていようと、「他者の痛みに共感して応える」、それこそがイエスさまの「信仰」だったのではないかと思うのです。

 わたしたちも常識の範囲を超えた何かと出会うとき、「えっ?!」とまずは絶句するかもしれません。でも心を落ち着けて、イエスさまはどうなさりたいだろうかと思うとき、こちらの宗教を押し付けるのではなく、わたしたちの信じる神はどうなさりたいか考え、まずそこから出発する、それがわたしたちの「信仰」ではないでしょうか。

不安に駆られるという誘惑

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.13

今日の福音書は、神さまに信頼し切れず、しかしイエスさまが言われるから、こわごわと足を踏み出す、ところが本当に支えてくださるのかどうか不安になり、水の中に沈没しかける、という中途半端なお弟子さんの「信仰」のようすが描かれています。でもこれは、他人事ではないかもしれません。

わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くし、あとは一体どうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。

教会の働きの根本にあるのは、まずはひとりひとりの「信仰」と呼ばれる、神さまへの信頼の深さですし、できれば教会に連なるクリスチャンは、信仰を深め、神さまに信頼して生きていきたいと願っています。今日の話のお弟子さんたちのように、「溺れるかもしれない」「イエスさまはどういう状況か、本当にわかって言っているのか」「本当にわたしを愛してくださっているのか」という疑念と不安をぬぐえず、神さまの力を疑いながら船の外へと、一歩を踏み出す生き方はどうなのでしょうか。しかも「イエスさまがそう言ったから」と、自分のせいではないと言い聞かせながら、前に進もうとするお弟子さんの姿は、わたしたちへの警鐘かもしれないと思います。何も考えないで人の言うとおりに行動することや、周りの圧力に屈することへの警鐘でもあるでしょう。嵐の中、不安になるのは当然です。不安による思考停止もしばしば起きるでしょう。でもわたしたちは、神さまへの盲信ではなく本当の信頼を深める時、冷静に判断できるようになるのではないでしょうか。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まず神さまに信頼することから出発しましょう。

イエスさまの「神性」 

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.6

父なる神さまは、そうそう手が届かない崇高な存在だと感じる一方で、イエスさまはいつもわたしたちの身近にいてくださる存在。人間社会の葛藤や喜怒哀楽を理解し、重荷を分かち合ってくださる、そんなイメージがあります。「神」というよりは、信頼できる友だちのようで、何でもお話しできるイエスさまですが、「人」としてだけでは説明できない一面もあります。そこを何とかしようとして、たとえば一人の人間の身体の「頭」部分が「神性」であり、「首以下の身体」が「人性」であるというような説明をしたり、「そうなると、体の10%が神で、90%が人か?!」「イエスさまの中の神性と人性が対立する可能性は?!」などという大論争を経たのちに、現在では「イエスさまは完全な人間であり、同時に完全な神である。その意志は1つで揺るぎない」ということになっています。

しかし何故そんなややこしいような「イエスさまの説明」が必要なのか、わたしたちを見守ってくださる存在として、素朴に受けとめればよいではないか、という声もあるでしょう。でも、イエスさまを人間の枠だけに閉じ込めてしまうと、今度は「神」(神性)との分離が起きてしまうのではないかと思うのです。神が人間のかたちをとって地上に降り立った。でもそれは、神の化身が降り立ったのではなく、神本人であった、というところが肝なのかもしれません。

今日の福音書ではモーセとエリヤが現れ、イエスさまと三人で話している様子が語られます。でも話の内容は、将来やって来る天国や神の支配についてではなく、「エルサレムで遂げようとしておられる(惨めな)最期」についてでした。讃えられ崇められ、皆が好まれる「栄光」ではなく、誤解され見捨てられ軽蔑される出来事が待っていても、それでも喜んでいのちを差し出す「栄光」を、自ら引き受けられた。それがイエスさまの「神性」だと言っているのだと思うのです。計り知れない大きな愛をもって、わたしたちのかたくなさの闇の中に降りてきてくださるために。

神の国と出会うには 

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.30

 からし種は実際、胡麻粒より小さく薄いのだそうですが、土に植えられて芽を出すとやがて枝を張り、鳥が止まるような木に成長する生命力が秘められている、また、パン種(酵母)を粉に混ぜ込み発酵すると、最初の粉の量からは想像もできないほどの大きさに膨らむ。ここまでは、神の国の外からは見えない秘められた力について語っていると思います。

 ところが44節以下になると、神の国そのものではなく、神の国をどこに捜すのか、という話になってくるのでしょう。畑に宝が露出して置かれているわけではないが、見た目は真価を感じられないような荒れ果てた土地の中に神の国はあると宣言します。土を掘り、石をどけ、作物を作るのに相応しい土壌を作る過程で、必ず「宝」と出会うと伝えています。

 効率ということが最優先の社会に住んでいるわたしたちは、結果が期待できること以外に時間を費やしてしまうと、なんだか失敗した気持ちになりやる気も失せます。荒れ果てた畑の中に宝などあるはずがないと、見向きもしないかもしれません。そこに宝があるという保証もないのに、荒れ果てた畑を耕すのは、かなりの覚悟が必要でしょう。しかしイエスさまは、荒れ果てた土地も労を惜しまず耕しなさい、とだけ言っておられるのでしょうか。

 自分が「畑」なのか「耕す人」なのか、どちらに身を置くかにもよるのかもしれませんが、たとえわたしたちが、「自分は、荒れ果て捨てられた畑のようだ」と感じていても、イエスさまはわたしたちの中にある宝を必ず見つけ出してくださる。外見には決して惑わされず、どういう状態であっても宝を見つけ出していのちを回復しよう、と言っておられると思うのです。

 貧しい人、困難の中にある人、悲しみや苦しみの中にある人々こそ、神が心を寄せられ、共にいると繰り返し言われるイエスさまは、自分自身でさえまだ出会っていない宝をもすでに知っておられ、いのちを回復しようとしてくださる。そのことを信じて、今日も生きたいと思います。

じっと待つ神

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.23


 先週の「たね」に続いて、今週は「麦」の話ですが、ここに出てくる「麦」と「毒麦」とは、そういう別々の植物があるわけではなく、ふつうに畑にタネを撒いても、ある株には細菌のようなものが入り込み、成長中に増殖し、収穫後、知らずに食べると腹痛や下痢、嘔吐などをひきおこしてしまう麦のことを「毒麦」とよんでいたようです。生育途中は外見での区別がつきませんが、穂浪が熟してくると、一見して毒麦かそうでないか簡単に識別できたので、先に毒麦だけ刈り取り、間違って食べないように火にくべて焼き、それから改めて麦の収穫にとりかかる。そんな段取りが、当たり前だったイエスさまの時代の刈入れの様子を、天の国にたとえられたのだと思います。

 これがなぜ天の国のたとえなのか、良い知らせなのか、釈然としないかもしれませんが、良い麦だけが生育されている理想郷が「天の国」だとは言っていないのです。

 天の国とは、神さまが諦めずにタネを撒き続けてくださる場所。しかし同時に「敵意」を持つ存在も入り込み、毒麦をも知らないうちに撒き散らしていく。そして神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけたり失ったりしないしないために、時が来るまで両者を混在させておく。しかし、やがて最終的な時がきたら、すべてを明らかにしてくださる、そういう話ではないかと思うのです。

 「私自身が毒麦かもしれない」そんな不安も頭をよぎるかもしれませんが、私たち自身の中に良い麦と毒麦が混在しているということも、きっとあるでしょう。また、世界に存在するどうにも解決できていないさまざまの悲しみと苦しみ〜戦争、飢餓、人権侵害、不条理〜なども、毒麦のしわざなのかもしれません。だから仕方がないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながら、じっと耐えて、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿に目を留めたいと思います。

惜しみなく与えられる

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.16


皆様も何度も聞いたことのある「種まき」の話です。良い地に撒かれた種は、百倍もの実を結ぶけれども、落ちどころのわるい不運な種子は、鳥に食べられたり、石地ゆえに根が張れなかったり、太陽が当たらなかったりして、やがてその命が消えてしまう、という切ない話に聞こえます。種子にしてみれば、自分は一方的に「撒かれて」しまう側なので、状況をいかんとも変えられない、なんとか不幸な人生でないようにと祈るばかり、という気持ちになってしまうかもしれません。でも、わたしたち人間をタネに置き換えて、撒かれてしまった運命は変えられない、と言っているわけではない気がします。一方、わたしたちは生まれた時に「良い地面」か「わるい地面」か、すでに決まってしまっており、せっかく神さまがタネを蒔いてくださっても、地面の状況は変えられない。「わるい」地面にとっては、その状態を変えることは不可能で、タネをどうすることもできない、という話でもない気がします。

神さまは、石地だろうと藪の中であろうと、惜しげもなくタネを撒き続けてくださっている、それはきっと本当でしょう。しかし、撒かれたタネを無駄にするのは、だめな人だと決めつけてはおられないと思うのです。実際、わたしたちの心の中には石地があり、照りつける太陽もあり、藪もあります。それどころか、タネよりもっと大事なことがあると確信したり、「いらないものを押し付けられた」と感じたり、ちょっと齧ってポイと捨てるようなこともしているかもしれません

そんなわたしたちの行動に、神さまは心を痛めるけれども、だからと言って、わたしたちを嫌いになったり、タネ撒きを諦めたりはしない、何があっても撒き続ける!そのような神さまの決意の物語なのではないかと思うのです。

疲れている人々よ、

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.9

 心身ともに疲弊しているとき、わたしたちはまず「寝たい」と思うことでしょう。やるべきことは目の前に山積みでも、明日のことを心配せず、何もかも忘れて力を抜き、爆睡することができたらどんなにいいだろうかと。

 今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。

 今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。

 イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。

人を恐れるな パート2

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.2

 イエスさまはここで「わたしは〜剣をもたらすために来た」と言われます。少しギョッとする表現ですが、人の心や身体を傷つけ、威嚇するため剣を用いる、と言われているのではないでしょう。何故なら、いかなる暴力も世の中や人を変える力を持たないことを、イエスさまは行動で示してこられたし、権力や暴力の行使には徹底して反対してこられたからです。

 あくまでも本からの聞き齧りに過ぎませんが、当時のユダヤ人文化の伝統として、「家族」という単位が、強烈に人々の生活を支配していたようですそこには様々な理由がありますが、「個人」という単位では生活が成り立たない、自然環境の厳しさ、ということがまず挙げられるでしょう。水を得るのにも、パン一切れを手に入れるのにも、お金で解決できる部分は少なく、人々の善意に頼る必要がありました。万が一、人々の反感を買い、村から排除されてしまうと、生きていくこともできなかった。その上長い間、軍事力を基盤とした諸国の支配下に置かれていたので、ユダヤ民族としてのアイデンティティや文化を守り継承する必要がありました。その結果、「個よりも民族/家族重視」という認識を強調せざるを得ず、全体の利益のためには、個を押さえつけるための脅しも使われたことでしょう。そして、支配する側は、伝統という名の元に過剰な管理や利用をしてきたのでしょう。

ところがイエスさまは、「自分の家族の者たちが敵となる」とも言われます。これは当時の人々にとっては、命を賭けても避けたいワーストシナリオ、「禁句」にイエスさまが触れたことになります。言葉を変えれば、「家族や近隣にいい顔をするために、安全を手に入れるために、他のことに目をつぶるのですか?」とお聞きになっているように思うのです。

そしてこれが2千年前の遠い出来事ではなく、「他人にどう思われるか」強烈に気にする社会に住むわたしたちにも向けられた問いなのではないでしょうか。仲間同志の安泰が最優先、自分はどう考えるかなんて面倒、周りの流れに同調している方が楽、という道を選ぼうとする時、イエスさまは「それは本当にあなたの真意なのですか、望むことですか」と正面切って、お聞きになります。いくら表面を取り繕っても、わたしたちの心の深みをご存知の神は、「わたしに信頼し真っ直ぐに進みなさい」、そう招いておられます。

人を恐れるな

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.25

 「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①感謝や喜びを生活の中に見いだせず不満ばかりが心にある人、②自分はいつも損をしていると嘆く人、③人にどう思われているか常に気にしている人、それが不幸な人の3つの特徴だ、ということなのだそうです。

 日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目に留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。

②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。

③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。

 この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。

「収穫」の意味

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.18

 毎週日曜日に行われる礼拝や、またその他のプログラムに関して、「忙しいのに、わざわざ時間を割くほどの魅力はない」という感想を聞くことがあります。そんな時に、これまで当たり前だと思い込んできたことや、習慣的に行ってきた事柄を、教会として改めて洗い出すのは必要でしょう。その一方、イエスさまとお弟子さんたちは、あの時代、どのように人々のニードに接しておられたのか、別の視点から聖書を読み返すことも役に立つかもしれません。

 今日の福音書は、イエスさまが弟子たちを呼び集め、「弱り果て、打ちひしがれている」人々の間に派遣される話です。その時におっしゃったのは「天の国は近づいた」と告げること。具体的には、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病にかかっている人を清くし、悪霊を追い払う、それがイエスさまの指示の内容です。

 亡くなった人を生き返らせるようになど、そんなことはあり得ないし、むしろ「怪しい宗教」とみなされる。イエスさまは無理なことを言われているか、あるいは一部の特別な才能を持った人だけに言われているに違いない、私ではない。そんなふうに感じるかもしれません。 
 でも、これではどうでしょうか。「あなたが、神の国は確かにあると信じているなら、それを告げなさい。するとあなたは、弱り果て打ちひしがれた人に寄り添い、生きる目的を失って死んだようになった人をもう一度立ち上がらせ、『重い皮膚病』にかかっている人も神に愛される資格があることを宣言し、損得勘定や他人の評価に取り憑かれて身動きできなくなっている人々を自由にする。」

 冒頭で出てくる「収穫」を、イエスさまに従う「信者の数」という理解もあるかもしれませんが、それはイエスさまの意図とは違う気がします。「収穫」とは、社会の隅に押しやられ「自分には生きる価値はない」「神がいるならこんな人生を送ることをよしとされるはずはない」という想いにかられている多くの人が、それぞれの「病」のような状況から解放され、自分の足で立ちあがり、与えられた人生を生き切ることです。その先のストーリーとして、キリスト教のメンバーになるのか、仏教に目覚めるのか、あるいは宗教に関係しない生涯を送るのかは、神のみぞ知る。わたしたちに任されているのは、本心で神の国を告げること、それに尽きるのではないでしょうか。

マタイをよぶ

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.11

 さて今日は、イエスさまの弟子となったマタイという人のお話です。ローマ帝国に税金を納めるために、人々から税金(通行税、人頭税など)を集める仕事をしていましたが、現代の「公務員」とは少しニュアンスが異なったようです。まず、「税を集める権利」をお金で買うことにより、徴税人になることができたので、元手を回収する必要がありました。次に、徴税人というステータスは確保しても、給料は出ないので、一定の税金額に上乗せをして徴収し、差額を生活費に当てていました。中には圧政を強いるローマ帝国の権力を利用し、かなりの私腹を肥やす徴税人もいたので、人々からは距離を置かれ、経済的には安定しているけれど、共同体の構成員としては認められず、神の恵みから漏れた嫌われ人、つまり「罪人」という烙印を押されていたわけです。

  このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事まで共にしています。すると、当時の社会で「神の恵みから漏れた」他の人々も、噂を聞いて次から次へと集まってきます。

 それを見た正統派ファリサイ人は違和感を感じ、「どうしてこんな人たちが来ているのか。ましてや一緒に食事をするなど正気の沙汰か」と、弟子たちに詰め寄ります。それがイエスさまにも聞こえたのでしょう。「私が喜ぶのは慈しみ、神を知ることであって、いけにえではない」(ホセア書6:6)と、イエスさまは旧約聖書を引用して答えます。

 でもこの話は、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、というところで留まってはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を「現代風に訳すと、ヤクザさんが大量に礼拝に来た感じ」とたとえた人がいました。もちろん黒服のイカツイおじさんが大量に教会に現れたら、正直なところ、わたしたちも違和感を感じてうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、わざわざそういう方々をも招かれた。それはわたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか目を向けて欲しい、そんな呼びかけにも聞こえます。

いつもあなたがたと共にいる

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.4

 十字架で亡くなり、そして復活したのち昇天する際に、イエスさまが弟子たちに、最後におっしゃった言葉です。これを読んだ10年来の知人が、「私はいつも寂しい。イエスさまが私を見守り、寂しくなくなるなら、洗礼を受けたい。こういう動機は不純でしょうか?」と聞きました。

 わたしは、ちょっと考えてからこう答えた次第です。「洗礼の動機は不純でかまわない。でも、見守っていただいていると感じたくても、あなたの好きなときや、期待どおりのかたちで、実感できるとは限らない。それでも神に信頼したい、という決意表明が、信仰なのではないかと思う。」

 まるで禅問答ですが、わたしはこの人が、「寂しさから守られる」というご利益を与える神なら信じてみる、と言っておられるように感じました。つまり神を、手のひらサイズに納め、自分のコントールの範囲内で、都合よく働くなら認めよう、と言っておられるふうに。

 ところで、キリスト教に入信しても、この世的なご利益は、ほとんどないと思いますが、最大の益の一つは、自分の存在を大切にする根拠を「神さまが大切にされているから」と思えることではないかと思うのです。

もし心のどこかが、「こんな私は愛される価値はない、ちゃんとできない私は駄目」という思いに支配されているときは、いのちがある理由も、自己完結しがちです。しかし、存在の根拠を神様に置く人は、たとえ周りから烙印を押されても、社会が認めなくても、そしてもれなくあなた自身も、「何かができる」からではなく、無条件に愛され大切にされることを知っています。それは期待するような順番ではおきず、わかりにくく、実感できないことも多い。客観的根拠や、物理的証拠なしに「わたしは神から愛されている」と信じるのは、なかなか難しいのだと思います。でもイエスさまは最後の最後に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この言葉をすぐには呑めなくても、神さまが本当に大切にしたいことは何なのか、じっくり見つめていくことは可能です。

明日から命と成長を表す「緑」の季節に入ります。晩秋までかかってゆっくりと、イエスさまの示された愛と命の軌道を辿っていきましょう。

聖霊を受けなさい

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.28

 聖霊なる神を「わかろう」とすること、それは自分の持つ限界や弱さを認めることと関係があるのかもしれません。世の中の不具合や、人生で起きる様々な不条理に立ち向かい、少しでも人生をよくしようと努力する。当たり前かもしれませんが、そんな時、限界を越えるような状況にしばしば直面します。自分には越えて行けない、無理だと感じる壁が目の前に立ち塞がったとき、そこで撤退することも多いかもしれませんが、一方で「自分の力」では到底有り得ないような事柄へと導かれることがあります。「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわば自分では「所有していない」力が何処からかやって来て、物事が思わぬ方へ展開するような場合です。それは、わたしたちの「所有しているが隠れていた能力」が陽の目を見たからではなく、「必要なものはすべて、神さまがそのつど与えてくださる」ことの証であって、わたしたちを通して働く聖霊なる神の邪魔さえしなければ、必要なことはすべて「為されていく」ということなのだと思います。

 イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。

 聖霊なる神を受け入れる人には主の平安があります。思いがけない事態に陥っても、期待や予定から大きく外れても、自分にできる努力はしつつ、パニックに陥ることはありません。聖霊なる神が共にいてくださると信じているからです。
 
 聖霊なる神を受け入れる人は罪から解放されていきます。わたしたちがしばしば陥る「罪」(=的をはずす行動)ですが、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力みます。それは聖霊なる神をないがしろにすること。自分の弱さを認め、間違いを認知するのは辛いことですが、まずは「的を外している」事実を認めること、そして神さまはどうなさりたいだろうか、謙虚に祈り求めること。それは、自身の「罪」から解放されていく、ということだけではなく、周りの人々にも波及し、罪の束縛から自由になっていく、そんなふうにイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか

神の愛に生きる

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.21

 イエスさまは、十字架で亡くなった後によみがえり、そしてお弟子たちの間に現れて、しばらく一緒に過ごします。そして数十日すると、「神の国」に戻って行かれますが、それを記念するのが「昇天日」(今年は5月18日)です。そういうわけで今日は「昇天後主日」。すでにイエスさまは「天」に帰られてしまっているので、聖卓脇の大きなろうそくも片付けられ、来週の日曜日に「聖霊降臨日」を迎えるまでは、不安や寂しさを少し感じる日曜日なのかもしれません。

 ところで、「父よ、時が来ました」という言葉で今日の福音書は始まります。実際の聖書の物語としては、これから十字架にかかるその直前の場面なのですが、それは「絶対に引き返せない地点へと足を踏み出す時が来た」というイエスさまの覚悟であり、また、皆を地上に置き去りにして自分は逝かなければならないという切なさが入り混じった、イエスさまの切なる祈りでもあります。

 そんな福音書の最後は、「彼らもひとつとなるためです」という言葉で締めくくられます。これは、イエスさまの十字架が「キリスト者たちが連帯し、結束するのに役に立つ」という話ではなく、一連の出来事が成就し、神さまの愛を人々が本当に知るようになった時が来たら、イエスさまが神さまと一体であるように、人々はもれなく愛を実行して生きるようになる、そういう意味で神さまと人々が一つとなる、という意味ではないかと思うのです。

 イエスさまが地上に生まれ、人々の間で30年余の短い生涯を通じて身をもって伝えられたこと、それは「神さまの愛を知って、愛に生きること。それこそが永遠のいのち」ということではないでしょうか。わたしたちは誰ひとり、完璧な人間ではないけれども、少しでも、一瞬でも、神さまの愛に生きようとするとき、神さまが共にいてくださるのを実感するのではないでしょうか。

わたしにつながっていなさい

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.14

 「つながっていなさい」と言われるとなんだか「束縛」のように感じることがあります。ブドウの木とはイエスさまのことであるとはわかっていても、「あなたは枝だ」と言われると抵抗を感じます。そんな固定的な生き方より、その時の気分で行きたいところにいつでも飛んで行ける方が自由だ、と感じることもあるでしょう。でもイエスさまは、束縛したり支配したりするために「つながっていなさい」と言われるような方ではないことを、わたしたちは知っています。

 ユダヤの人々の常識では、「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、イスラエルの共同体や神さまの国のたとえだったそうです。人々に約束されたすべてのことが、イエスさまの生涯を通じて果たされた、「神の国」が示されたのだと、聖書の著者は言いたいのかもしれません。父なる神は、不必要なものを取り除き「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧にぶどうの木の手入れをする様子ですが、単に収穫量を増やすことが目的ではなく、ぶどうの木もその枝も、本来あるべき姿となるように、つまり神の国が実現されるために作業を絶やさない、そんな神さまの姿が浮かび上がってきます。

 ところがわたしたちは、物事がうまく行っている時は、ひとりで何でもできるような気分に陥るのに、どうしたらよいのかわからない窮地にひとたびはまると、「神さまは一体何をしているのか」と詰め寄ったりします。それは、自分の弱さや情けなさと直面するのを避けるにはよい方法かもしれませんが、わたしたちがそうしている間も、淡々とぶどうの木の手入れをなさる神さまです。

 つまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥の中にいる時、そこに降りてきて一緒に這い回り、共に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。そしてそのことこそが「神の国」の到来なのかもしれないと思うのです。祈りの言葉さえ浮かばない苦しみの中にあるとき、イエスさまはわたしたちに呼びかけ続けてくださいます。「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたとつながっている。どんな時も決してあなたを一人にはしない」と。

心を騒がせないがよい

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.07

「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と続くこのイエスさまの言葉は、ご葬儀の福音書として読まれることでも有名です。復活されたイエスさまと、再び会うことができた弟子たちですが、その一方で刻々とお別れの時が近づいています。これから先、何を心の拠り所として、進んでいくべきなのか。イエスさま無しで、果たして本当にやっていけるのか。目標も見えにくく、そして何より心細かった弟子たちへのイエスさまの言葉です。

人と人とのお別れを経験するわたしたちも、同じ気持ちは経験しているでしょう。たとえさようならを言う時間があっても、今まで居たその人がこの世からいなくなる。それは世界が終ったようでもあり、今まで当たり前だった安定と確かさを失う世界。捉えどころのない不安は、まさに落ち着く場所を失った魂のようです。

しかし、こんなわたしたちに、イエスさまは具体的なイメージを残してくださいました。地上の命が完結した「その後」についてはイエスさま自らが場所を用意しているので心配はないと言われるのです。

「そこは3LDKか?」と、ある信徒に聞かれたことがありますが、それは分かりません。温泉付きかどうかも、豪勢な食事をいただけるのかどうかも、書いてありません。でもわかっていることは、「イエスさまが、他でもないあなたのために、安心して居られる場所を準備くださっている」と言うことです。イエスさまの示される世界についてわたしたちは、「どういう贅沢が待っているか」ではなく、「必ずどんな時も、一緒にいるから心配はいらない」という約束に心躍らせるべきなのではないでしょうか。

 イエスさまの約束を知りながらも、しかしわたしたちは弱く、すぐにこの約束を疑い、あっという間に「心を騒がせ」ます。しかしそれは、一回でも心を騒がせたら駄目、という話ではなく、弱さをご存知のイエスさまは、何度心を騒がせても、またハッと我に帰ることを待っておられると思うのです。このお約束を心の底から信じようと努めるとこそが、わたしたちに出来ることなのではないでしょうか。

人のために祈る

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.4.30

 日曜日の礼拝の中で、旧約聖書から一つ、新約聖書からから2つ、合計3つの聖書が読まれます。最近は、福音書のお話ばかりが続きましたので、たまには使徒書の内容について、少し触れてみたいと思います。今日の使徒書(2つ目に読む新約聖書)には、ステファノという人が登場します。

 弟子たちの中で役割分担が出来た頃のこと。礼拝やお祈りに責任を持ち、イエスさまの教えを人々に伝える弟子たちとは別に、食料の配布など、人々の必要に目を向ける担当者もいた方がよいということになりました。そこで弟子の中から選ばれたうちの一人がステファノだったというわけです️。

 ステファノは不思議な力を持っていて、困った人を助けたり、様々な素晴らしい働きで多くの人に勇気を与えましたが、一方で、そんな彼をねたむ人々が出てきます。彼らは、嫌がらせ目的で論争をふっかけたりしますが、ステファノは豊かな知識と深い洞察力によって論点を明確にし、きちんと応答します。また、偽証を元に裁判にもかけられますが、ステファノはその意図を見抜き、伝統に固執するがゆえに神への信頼が薄れ、結果としてイエスを十字架にかけてしまった、と述べました。もはや弁論でステファノを懲らしめることができなくなった人々は怒りにかられ、議会から彼を引き摺り出して町の外に放り出し、殺害してしまいます。

 そこまででしたら、普通?の酷い話なのですが、ステファノは石を投げられながら、2つの祈りを残しています。一つは自分のことです。生涯の最後が迫ってきた時、やはり少し怖かったのでしょう「イエスさま、わたしの霊が肉体を離れた時、受け留めてくださいますね」と祈ります。

 もう一つは、今まさに自分を殺そうとしている人々のために祈っています。「彼らがこれ以上罪を重ねませんように」と。

ステファノのすごいところは、罪を正当化し残虐行為を重ねるような人々の中にさえ、神が創られた人間の姿を見ていたということではないかと思うのです。自分を破壊しようとする人々も、元々は神さまが愛され大切にされた存在。彼が最後まで怒りを怒りで返さず、嫉みを妬みで返さなかったのは、「善人ぶっていた」からではなく、神さまへの絶大な信頼をすべての基としていたからではないでしょうか。

エマオへの遠回り

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.4.23 

  いわば「お祭り騒ぎ」のようなイースターのお祝いも、わるくはないのですが、イースター(復活節)は1回限りではなく、しばらく続きます。

  これは、暦の上でそうなっているから、ということだけではなく、神さまがなさろうとした計画全体を理解し、本当の意味で「わかる」ためには、わたしたちの想像を超えた時間や経験が必要なのでしょう。

 聖書には、イエスさまの十字架の意味や復活について、腑に落ちていないお弟子さんたちの姿があちこちに描かれていますが、ずっと一緒にいたこの人々でさえ、イエスさまの「十字架と復活」の意味が本当にわかるまで、少し時間が必要だったということなのかもしれません。

 今日の福音書は不思議な設定です。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と言っていると聞かされますがにわかには信じられず、暗い顔をしたまま、何故かエマオへ向かうお弟子たちです。隠れているのも危険だと判断したのか、それともあまりの恐ろしさにエルサレムを脱出したのか、そこは書いてありません。最初は誰が一緒に歩いているのかさえ、全く気がつかなかったお弟子たちでしたが、そのまま夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「イエスさまとずっと一緒だったこと」を知るのです。これから何か起きるか、とイエスさまから直接、何度も告げられていたにもかかわらず、全然リアリティがなかった。しかも、自分達の描く「神の子」の行く末とかけ離れていたゆえ、これからどのように生きたものか、途方にくれていたのでしょう。しかしイエスさまは、無理解な彼らを見捨てるのでもなく、わざわざエマオまでやってきて、なんとしてでも励まそうとされる。

 それは、わたしたちが「復活は知っている」と思いながら、現実は「暗い顔」をしたまま、魂に喜びがなく、燃えた心もなく、惰性で生活をしているとき、それはエマオへの道を歩いているのと似ているのかもしれません。そして、イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りにさえ寄り添ってくださり、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、頑ななわたしたちの心に、今も静かに、少しずつ染み込んでいるのではないでしょうか。

「もし右の目があなたをつまずかせるなら、 えぐり出して捨ててしまいなさい。」<マタイによる福音書5

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.2.12

日本では「言葉化する」ことをあまり良しとしない風習があるせいか、逆に言葉にしない表現に対して、許容度が高いように思います。

怒鳴ったり、物を乱暴に扱うなどの表現までに至らずとも、不快な顔をしたり、返事をしなかったり、明らかに表情では苛立ちを隠していないのに、何を不快に感じたのかは言葉化せず、「言わなくてもわかるでしょ」といったような一種の「会話」が通用する社会なのかもしれません。

もしこれが、双方向のやりとりで、お互いに表現し合うような場合であれば、「会話」として成立するのかもしれませんが、大概の場合はどちらかが察して相手の主張を呑み、やりとりをする前に終了してしまうことがほとんどでしょう。

というのは、そういった「会話」を始めた側が、自分の立場がより優位であると踏み、言葉以外のやりとりを始めてしまう(そして「理解できないのが悪い」)ので、「間違った」行動だとは認識されにくく、罰則規定に当てはめるのも難しい。

しかも「言わなくてもわかってほしい」という甘えが混じっていることも多いので、なかなか厄介です。

 ユダヤ人社会の律法に照らし合わせても「間違い」とは認識されず、罰も課されないような事柄は、神さまの愛に反してはいても、見過ごしにされてきました。

密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりする人に対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」と、イエスさまがおっしゃっている話なのではないかと思います。

 当時の律法が「間違い」と定めたことについては、現在の日本国憲法以上の拘束力を持ちましたが、律法で禁止されていないことをしても、大丈夫だと思う人に対する「ダメ」なのでしょう。

つまり、ズルをしても、愛が欠落した行為をしても、力関係を悪用して相手に圧力をかけても、「自分は律法には違反していないから安全」と思っている人々に対して語られた言葉です。

 しかもイエスさまは、具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、それがたとえ口から出ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるということではないでしょうか。

どきりとするのは、言わなければバレないと、どこかで思っているわたしたち、あるいは意識にさえのぼっていない腹黒い言動について、わたしたちは「裁きを受ける」と言われている点です。

しかしここで誤解してはならないのは、「裁きを受け」ないためには何一つ間違うな、とイエスさまから言われているわけではない、ということです。

わたしたちのさまざまな過失をほじくり出し、重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが、イエスさまの意図ではない、ということは忘れてはならないと思います。

こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、その行動の積み上げが、いつしか本人の心と身体と魂の健康をむしばみ、神さま不要の人生や、愛に基づかない判断、そして最終的には自分自身を絶対化する傾向へと引きずられる。

それらに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっているのに違いないのです。

今日の特祷(顕現後第6主日)で「人々と国々を健全なものとしてください」と祈ります。

神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。

それを妨げる様々な妨害は至る所に存在する事実は否定できませんが、それらは神さまから来たものではないし、また神さまが望んでおられることでもない。

むしろ、一見魅力的に見える危ない罠に、わたしたちが自ら近づいていくこと、そして最終的にはその罠にからめとられていくことに、心配してくださっているイエスさまの言葉です。

それに対するわたしたちの責任は、イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めることではないでしょうか。


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