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聖書のメッセージ

「聞き分ける」羊

司祭 ロイス 上田亜樹子

教会では、イエスさまを羊飼いに、そしてその生き方に共感するわたしたちを羊にたとえる習慣があります(そういう宗教画も多いですね)。

それは聖書の中で、「わたしは良い羊飼い」とご自身が言っておられることもありますが、

羊や羊飼いが当時の人々にとって特別感はなく、むしろ身近でわかりやすい喩(たと)えを考えたらそうなった、ということかもしれません。

都市に住むと、羊や山羊と対面するには動物園に行かなくてはなりませんが、

わたしたちにとって電車や地下鉄を利用するのが当たり前のように、当時は羊や山羊が生活の一部だった、ということなのでしょう。


ずいぶん前ですが、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。

門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって来ました。

思わず身構えましたが、その山羊たちはわたしを歓迎したのではなく、侵入者をチェックしに来たのです。

威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。

のちに聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。

ところが羊ときたら、心身共に非常に脆弱、すぐにパニックに陥る。

知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、

ただ自分の身を外敵から守るため、自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切らしいのです。

山羊も羊も個体差はあるでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。




丸腰のままオオカミに喉を噛みつかれたら、抵抗しようがないほど無力な人類だし、

切羽詰まれば目先のことしか考えられないこともしばしばです。

人類全体がどうなるかを気にするよりは、今、自分のお腹が満たされ、寒くなく快適に過ごせていることで「まあ、いいか」と思えてしまう。

でもその一方で、羊たちの特性とは異なる点として、わたしたちは「イエスさまの声を聞き分ける」ものでありたいと思うのです。

それは、音声としてのイエスさまを認識するということではなく、

何も考えずに従属的な行動をとるということでもありません。

それは、イエスさまの語る内容に納得し、同情ではなく共感する。

その生き方に心が揺さぶられ、自分もそのように生きたいと心の中で反芻し、

そして自らの責任において生き方を選び取っていくことではないかと。

それが「聞き分ける」内実なのではないかと思うのです。




イエスさまからの声、それは聞こえにくく、意図がわからないこともあるでしょう。

時には、聞きたくない内容である可能性もあります。

でももし、イエスさまからの声だとわたしたちが思えるときは、

「聞き分ける」自らを信じ、目的地に向かって進む決断ができる羊になりたいと思います。

狭い門から入る

 司祭 ロイス 上田亜樹子

「せまい戸口(←「門」とも訳される同じ言葉)から入るように努めなさい」<ルカ 13章24節>

 

偏差値高めの私立、一流大学、有名企業入社などを目指す人はたくさんいるので、

そんな「狭い門」に入れるよう自分を磨きなさい、といった意味で使われることが一般的かもしれませんが、

聖書のこの言葉は「人に誇れる人生を手に入れるため努力せよ」という意味ではなく、

「救いを得るにはどうしたらいいか」という流れの中で登場しています。

 

ある程度生活が安定し何とかやっていける、という階級の人々に対し、

イエスさまは少し厳しいところがありますが、安定がいけないと言っておられるのではなく、

保身志向というか、手に入れた物を失わないためには目も耳もふさぐ、自分を守るためには他人はどうなってもかまわない、

といったような姿勢に対しての指摘をされているのだと思います。

 

不安定な生活を余儀なくされる時、あるいは不安定な心を抱えて苦しい時は、

きちんと定収入があり穏やかな生活を送っている人々の人生が、夢のように美しく見えることがあります。

そして、そんな生活を手に入れれば、自分も自動的に幸福になれるような気がして、

みんなが求める広い門、つまり大勢の人が入っていくような安定した広い門に自分も向かおうとする。

しかし、そんな広い門の中にいざ入ってみると、心の中に葛藤が生まれます。

これが本当に、神さまが私に備えて下さった人生なのだろうか、これが果たして幸せということなのだろうか、と。

 

大斎節の40日間は、イエスさまの十字架刑がジリジリと迫るのを感じつつ、

その物語をひとつひとつ噛み締める期節でもあります。

わたしたちに「救い」、つまり人生の意義を見い出して安心して生きること、

他の人と比較する必要のない「わたしの存在」そのものが尊いと知ること、

わたしたちを大切に思う神さまの存在を確信すること、愛の力強さを信じること、

それらをわたしたちの心にもたらすために、わたしたちのために十字架にかかる決断をしていくイエスさまの姿を追います。

 

「みんなが行くから」という理由で広い門に流されていき、その中に入って保身やあきらめを決め込むのではなく、

「狭い門」を見つけて、そこから安心して入りなさい、とイエスさまはすすめます。

なぜならば「狭い門」は、あなただけのために神さまがわざわざ作られた門であって、あなた以外は誰も入れないからです。

人と比較したり、争ったりする必要がまったくない門だからです。

しかし「狭い門」は、人の賞賛を得られないかもしれず、周りから理解されにくく、価値も認められないかもしれません。

でも、自分の門を見つけ出し、その門を入ることが叶うなら、わたしたちは最上の幸せを見出すに違いないのです。

イエスさまがすすめておられるのは、そんな「門」なのではないでしょうか。 

カナの「奇跡」     

司祭 ロイス 上田亜樹子

今日の福音書(ヨハネ2:1-11)は、カナという村で結婚式があり、そこにマリヤさんもイエスさまも招かれていた、というところから話が始まります。
当時の慣わしでは、結婚式は1週間にも及ぶものでした。人々は遠くからやってきて数日間滞在し、その間に食べたり呑んだりします。
でも、何人来て何日間滞在するのかは、誰にもわかりません。たくさんのお食事を十分に用意しても、途中で足りなくなってしまうという事態は充分ありうることです。でもそれは恥ずかしいことでした。そんな中で「ワインがもう無い」という事件がおきます。 マリアさんはまず、イエスさまに相談します。これはつまり、マリアさんは台所事情に関わっており、あれこれお手伝いをしていたということなのでしょう。なんだかありそうな情景ですが、結婚式に行っても女性は台所に立ち、男性は座って「お客」をする、というような役割分担があったのかもしれません。

話を前へ進めます。やりとりの後、イエスさまは、その家にあった100リットル入りほどの石の水がめ6つに、水を満たすように言います。そして宴会の世話役に、水だった液体の味見をしてもらうと、あまりに美味しいワインだったので驚き、事情を知らない世話役は、主催者である花婿を絶賛した、というところで話は終わります。 
さて、この話をどう読むかです。「水をワインに変えるすごい神さま」「奇跡で花婿の窮地を救う親切なイエスさま」というふうにも受けとめられるかもしれませんが、2000年前のこの出来事が、現代のわたしたちにどう関係してくるのだろう、あるいは何が今のわたしたちにとって「良いしらせ」なのだろうと考えると、「すごい」で止まるのは違和感があります。
すごいと思われるために奇跡を起こしてみせるイエスさまも、すごいのだから信じなさいと圧をかけるような神さまも、聖書が伝えるイメージとはかけ離れていて、生きる元気を与えられるメッセージではない、と思うのです。 
井戸から汲んできた水がすぐにワインに変わったという展開は、客観的に見て無理な話、納得できない話です。でも、たとえばこれが水やワインの話ではなく、人間だったらどうなのでしょうか。例えば、社会の中で隅の方に押しやられている人がいて、あの人の中身は水ばっかりで何の役にも立たない、と思われていたとします。水瓶に満たされた当初は、本当に水だったのですが、イエスさまの働きが介在すると、今、本当に必要としているワインだったことに気がつく。そして、なぜ今まで気がつかずに放置していたのだろうと皆が不思議に思う、というようなことなのではないかと。 

一方、自分自身にも当てはまるかもしれません。自分の中がいかに空っぽなのか気がついてしまった時、情けなさの波に呑み込まれていると、神さまの目には情けないことではなかったことに気がつかされていく。自分で、自分をないがしろにしてきた部分こそが、実は神さまの目には宝だったことに気がついていく。そんな「奇跡」の物語なのではないかと思うのです。 時が満ちたときに、わたしたちの資質や、変えられない過去でさえ、水からワインへと変えてくださる神さまに、先は見えなくても、説明はつかなくても、その時まで信頼して歩め、という「良い知らせ」なのではないでしょうか。わたしたちを愛してやまない神さまのそんな呼びかけに、耳を傾け応えようとするわたしたちでありたいと思います。

神への信頼という原点へ

  旧約聖書の一番始めに位置する「創世記」は、書かれた年代が一番古いわけではありません。しかも聖公会の教会では、創世記が記すストーリーを文字どおり「こうやって人類が誕生した」とは考えていないのですが、それでもなお、「人が生きるは何のためだろうか」という問いに応える神話として、含蓄は深いものがあります。

    今日の特祷では「(神は)驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造」り、「さらに驚くべきみ業によりイエス・キリストによって、その似姿を回復してくださ」ったとありますが、この2つが並列していると、以下のように読む人がいるかもしれません。

 目に見えない神さまを、そっくりそのまま目に見えるかたちにした被造物がわたしたち人間であり、最初から「完全無欠で完璧な存在」として造られた。しかしその後、人類は途中で道から外れ、神が意図した「完全さ」から離れていった。元の「神のみかたち」に戻すため、イエス・キリストがこの世に送られ、十字架刑によってわたしたちは、神に似た存在へと復帰した。

 新約聖書の中にも似た表現があるので、「傷のない神の似姿に復帰した状態が、わたしたちの本来の姿」という認識を強めてしまうかもしれませんが、本当にそうなのだろうかと疑問に思います。創世記の「甚だ良かった」という表現は、果たして「傷のなさ」や「完全さ」を意味するものなのでしょうか。神さまが望んでおられるのは、無傷を保ち、失敗を避け、汚点を作らない、ということなのでしょうか。

 わたしたちがこの世界で、うまく生きていくためには、失敗を避けることは必須でしょう。しかも人にわからない範囲なら、心の中で何を考えていても自由だし、誰にもバレないと思っています。だから、人に知られるような汚点を持つことや、失敗を指摘されることを非常に恐れている、というのが正直な心中かもしれません。こんな現実の私たちが、イエスさまの十字架によって回復されなければならないのは何なのか。それは間違いをしでかさない強靭な精神力や完璧さではなく、神への混じり気のない信頼なのではないかと思うのです。

何をしていても、あるいは何もできなくても、神さまが全てを統治し、無駄なことは何一つないのだと心の底から信じること。それが信仰の核心であり、そして神へのそんな信頼は、わたしたちを本当の意味で自由にしてくれるはずです。

今一度、神さまへの信頼があなたを自由にしているかどうか、心に手を当てて問うてみましょう。

「悔い改め」という解放  

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子

たしか私が高校生だったころ、行っていた教会の礼拝後、紫の季節には「悔い改め」について学ぶディスカッションという時間があったことを覚えています。

「食い改め」などの笑えない冗談を言う人もおり、最初から気分はナナメでした。しかしいくら「悔い改め」についての抽象的な話を聞いても、なぜ人類に「悔い改め」が必要なのかはピンと来ず、「信仰があるなら悔い改めなければ」などの発言は、非常にウソっぽく聞こえたものです。

その時の落とし所は何だったのか記憶にありませんが、「悔い改めと結びつくことは、自分には思い当たらないな」などと思っただけではなく、そのように発言したことを、冷や汗とともに思い出します。

このような私の行状はそもそも、悔い改めの果実としての心と魂の解放や自由を知らないから、平気で口に出せたのかもしれません。解決できない問題はいろいろあるし、嫌な人は遠ざければいいと思っていただけではなく、「罪のゆるし」や「悔い改め」について語られるときの、何か表面的な威圧感に過剰に反応して、今ひとつ踏み込んで意味を考えることがなかったのだと思います。
もったいないと言えばもったいないですが、そもそも悔い改めは、他者に要求するようなものでもないと今は思うのです。

今日の福音書(ルカ3:1〜6)は、ヨハネが人々に悔い改めを宣べ伝える話です。バプテスマのヨハネと呼ばれるこの人は、自分の役割を「イエスさまがこの世に来ることを、荒野にいるみんなにも知らせる声」というふうに表現していますが、バプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていた活動だったようです。
でも、イエスさまがやってくるのだから、お会いする前に洗礼を受けて清廉潔白になっておきましょう、という話ではなく、イエスさまが来られるから、「悔い改めても大丈夫」という話ではないかと思うのです。

消化しにくい悲しみや痛みが残ってしまった時は、時間を経て怒りや苛立ちに変わっていくことがあります。それらはエネルギーがありますから、いつか相手にぶつけて思い知らせてやろうと考え、心の中にその怒りを保つことで、自分の中に強さが留まっているように感じたりもします。でも実際は逆で、ネガティブなエネルギーにしがみつくことでかえって不自由になり、怒りを手放せないのではなく、手放さないという選択を正当化する気持ちへと変わっていきます。手放してしまったら何もなくなるという「おそれ」があるかもしれませんが、怒りがその人をどんなに不自由にしているか、その時はわからないものなのかもしれません。

悔い改めは、怒りからの解放だけではありません。後悔や罪悪感、ああすれば良かったこうすればと思うだけで実際は何も変えられない束縛全体からの解放です。
悔い改めは、怒りや苛立ち、後悔や罪悪感から、あるいは思い出すのも苦しい諦めからも、解き放たれ自由になりなさいと勧めます。それは逃避ではなく、はっきりと問題に向き合うプロセスであり、向き合うために必要な力を用いるため、備えられた方法なのではないかと思います。

強いられてではなく、自分の意思によって、人生に必ずしも必要ではないものをかなぐり捨てて、一番大切なことを大切にする、そんな勇気を持ちたいと思います。

押し迫った「とき」

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子 

気持ちに余裕のある時は、社会人としての良識のある行動をとりたいと、誰しも努力できるものだと思いますが、窮地(きゅうち)に追い込まれたときにはその余裕がなくなります。とっさにやってしまうのは、非難や被害が自分に及ぶことを避けること。「損をしない」「傷つかない」道を選んでしまうこと。

そんなふうになるのは人の常かもしれません。

 教会の暦で一年間の終わりを迎える今日の福音書(ヨハネ 18:31-37)は、なんと十字架前夜の物語。
まさにイエスさまが窮地に置かれています。一年の終わりに、なぜこんなつらい物語を読むことになっているのか、最初はピンと来ませんでした。 
聖書が描く時代、それはユダヤの人々がローマ帝国の支配と搾取による苦しみと困難の只中にあった時代です。

人々に寄り添い、また生き方をもって神の愛を示したイエスさまを、共に歩んできたはずの人々が十字架刑へと後押しするうねりが生じます。それを利用した指導者層が、死刑にするようにと一気に帝国側(ピラト)に詰め寄ります。それを受けたピラトは「十字架刑は妥当かどうか」と、客観的な判断をするために、尽力している風にも見えますが、でも本心は他人事。イエスさまの命に関心はなく、とにかく自分に火の粉が降りかからないよう「尽力」しているのがわかります。

そんな中、ピラトによる尋問の中でイエスさまは、「無駄」とも思えるくらい誠実に、物事の核心だけを淡々と答えています。自分の役割は「王になること」ではなく、真理について証をするために生きること。なぜなら、真理に属する人々はイエスさまの言葉を聞こうとするからであると。 わたしたちは毎日いろいろなことにつまずいていますが、この世に生まれてきたということは、この世を支配しておられる真理の神から、送り出された者であるということでもあると思います。

また、真理を見失い、真理から目をそむけてしまうこともしばしばですが、神のご意思によって、この世で真理に向かって今日を生きる命を預かっている者でもあります。そういう意味でわたしたちは本来、「真理に属する人」なのに、あたかも一部の選ばれた人だけが「真理に属する者」のように感じてしまい、情けない自分はとてもじゃないが、「真理に属する者」などではないと勝手に決めつけてしまいがちです。 一年間の終わりを振り返るとき、出来なかったことや失敗したこと、また怠けたことばかりが思い出されるかもしれませんが、同時に、今生きている命は、自分自身の努力で得たものではなく、一方的に与えられ、預かっているものであること。その「真理」を再認識することを薦めているように思うのです。

それは、真理を求め続けることをあきらめないでと呼びかけるイエスさまの声でもあるのかもしれません。

わたしたちは、自分の限界に辟易(へきえき)することはあっても、その声に耳を傾けることを諦(あきら)めないで、またひとつ深呼吸をして、新しい年を迎える準備をしたいと思います。

神をあらわす善い存在

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子

 人の元々の本性は善であるという考え方は「性善説」と呼ばれ、どのような善い本質が人間に備わっているか具体的に説明する学説ですが、紀元前300年代の中国でも、「そんなのは理想論に過ぎない」という批判があったようです。しかし、人の弱さや悪い部分から目をそむけて理想を語る、ということではなく、元々善い心を持って生まれたのが人間なのだから、たとえどんな王であっても、人民を守り正しい政治を行うことが可能なはずであると伝えることが、儒教の性善説の目的だったと言われています。

キリスト教も性善説の考えと少し似たところがあるかもしれません。もっとも、王や支配者などについてはあまり関心がないので、むしろ「こんな人生、生きていて何の意味があるのだろう」と苦しむ人々に視点が向いています。「辛い人生は神からの罰だ」という常識が横行していた時代に、「人間は元々善い存在として、神が作られた」ことを基盤とし、上等な人と下等な人がこの世に存在するのではなく、すべての人が等しく神の姿をこの世に表すものだと強調しました。この世で生きている限り、たとえ人生の意味が見えなくても、神があらかじめ準備した大切なミッションを携えたから人は生きるのだと。 

今日の聖書の箇所(創世記2章)には、「人がひとりでいるのは良くない」と、ひとりぼっちにならないために、神が「人」のパートナーを創造する一節が登場します。「人に合う助ける者を造ろう」と呟いた神は「人」を深く眠らせ、「あばら骨の一部を抜き取り」女を造った、という話に続きます。キリスト教の伝統的な解釈では、「助ける者」を「アシスタント」と理解し、「あばら骨の一部」を「あばら骨一本」と解釈して、人の役割分担を性別によって規制してきた歴史がありました。しかしそれは、一般の人々が字を読めなかったから続けてこられたこと。
今や多くの人が自国の言葉を読み書きし、外国語の文献にもアクセスするようになりました。すると、「助ける者」は神を修飾する言葉(神は私の助け、等)として登場することの方がずっと多く、アシスタントという理解はこの箇所だけであること、「あばら骨の一部」は一本ではなく、全体の半分のうちの一方の塊りをさす、ということもわかってきました。つまり、人に優劣があるのは固定的なことであると信じられ、幸か不幸かの根底には「神の罰」という概念があるとしてきた時代でさえ、すべての人の存在は尊いものであり、大切なかけがえのない存在は善きものであると説いているということです。

社会的な現実の中では、この考えを持ち続けることは難しいかもしれません。しかし、たとえそうであってもわたしたちは「神の姿をあらわす存在」として、顔を上げ、前を向き、立ち上がり続けたいと思います。

こどもとイエスさま

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子

聖書の記録によると、イエスさまが人々の間で活動したのは、たった3年間でした。

その短い生涯に、貧しい人や病気の人の悲しみに寄り添っただけではなく、

女性やこどもたちを軽んじたりもせず、

何か用事がある時も、誰かに指示して伝えるのではなく、イエスさま自ら話しかけました。

「こどもにも人権がある」という意識があたりまえではなかった時代に、

あたたかな視線を注ぎ、ひとりの人間としてのこどもに、尊厳(そんげん)をもって接したことが記されています。

 今よりずっと危険だったにもかかわらず、出産は「女/こども」の範疇(はんちゅう)にとどまる「穢れ(けがれ)」という理解だったので、

男の子が生まれない限り、あまり外からの関与はなかったと思います。

しかも無事こどもが生まれても、病気になったり怪我(けが)をしたり、幼いうちに亡くなるのは珍しくなく、

さらに小さくて力もない「おとな」なので、うるさくて手がかかり、労働力にはならず、

途中でいなくなるかもしれない存在。

だから成長するまでは、まともに話しかけたり相手にするような対象ではない、というのが常識的な理解でした。

お弟子さんたちも、そんな慣習の範囲で行動しようとしたのでしょう、

聖書の他の箇所では、近寄ってくるこどもたちを、お仕事の邪魔になってはいけないと追い払い、イエスさまにたしなめられています。

 イエスさまのこどもに対する処遇(しょぐう)と対極(たいきょく)を成す様子が、

お弟子さん内での「誰が一番えらいのか」論争です。

お弟子さんたちも、こういう話題を熱心に話しているところを知られるのは、恥ずかしいと知っていたのでしょう。

何を議論していたのか聞かれると皆、黙ってしまいます。

損を避け、効率的で、しかも人より一歩も二歩も先んじることが「優秀なおとな」という妄想に取り憑(つ)かれるのは、現代ばかりではなかったようです。

物事を効率的にすすめるには、組織やヒエラルキーが便利ですし、そこに私利私欲が加わると、目先の益が先に目に入ります。

そういう人々にとっては、「こども」に象徴される様々な便利でない存在は、ペースを乱す障壁以外の何ものでもなくなります。 

するとイエスさまは、ひとりのこどもを抱き上げて、

「わたしの名によって、このこどもを受け入れる者は、神さまを受け入れる者だ」と言います。

でも「受け入れる」内容は、ペットのように可愛がることではなく、

要求を無条件に聞き入れることでもなく、親切な行為を多発することでもないでしょう。

それは、小さなこどもの中に坐する神さまを見ること。

どんなに力なく見える人の中にも、すでにその存在と共に生きて、その人の中で働かれている神の存在に、尊厳をもって対峙すること。

そんな心の準備ができた時に、わたしたちは神さまと出会うことができる、と言っておられるように思うのです。 

わたしたちが神さまに出会うために、こどもたちが目の前に用意されているわけではありませんが、

でもその人々は、わたしたちの計り知れない神のミッションを担う人々。

その方からこぼれる一つの恵みとして、わたしたちが今日、「神さまと出会う」ように助けてくださっているのだと思います。

わたしたちも驚きと尊厳を持って、日々こどもたちの中で働かれている神さまと出会いたいと思います。

み言葉を行う人

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子

人の心の根底には、ほんとうは正しい行動を選びとりたい、
という望みがあるように思います。それは、人から後ろ指をさされたりしないようにうまくやりたいという、やや短絡的な欲望も混じっているかもしれませんが、不条理に傷つけられたり自分の弱さや限界に気落ちしたりしながらも、とにかくひとりの人間として、この世に生まれてきたからには真っ当な人生を歩みたいという、純粋で根源的な望みを、誰しも持っているように思うのです。

ところが、このような素朴かつ崇高な望みを、常に尊重しているとは言い難い現実があります。それは「青くさい」と片付けられたり、現実的ではないと決め付けられた体験がそうさせるのかもしれません。また、正しさを「比較の問題」とし、他の人の基準によっていくらでも変化するものだとする考え方もあるのでしょう。そして、目の前に立ち塞がる日常的な問題解決の役にはたたないと、「望み」に蓋を被せ、存在しなかったことにしているときもあるでしょう。

一方、
今日の使徒書に登場する「み言葉を行う人」とは、正しい事を完璧に実行する人ではなく、あくまでも正しさを望み見て「諦めない人」のことではないかと思うのです。特祷では、悪魔の誘惑に打ち勝つ恵みを願い求めます。また使徒書では、自分の心をあざむき世の流れに身を任せる危険に対して警鐘が鳴らされますが、神の正しさに寄り添おうとする生き方は、口で言うほど簡単ではなく、答えのない問いにずっと向き合うことになります。

どうしたらいいのか、何が正しいのか、その正解は簡単には得られず、困惑することも、苦しむことも多く、時には投げ出してしまいたくなることさえあるでしょう。そんな時こそ、今日の聖書日課で語られる「悪霊」や「悪魔」の出番です。こんな自分は無価値だと思い込みたくなる誘惑へと背中を押す隙を狙っている存在です。そしてこの誘惑は、外の知らない世界からやって来るのではなく、どっちつかずの自分の中から出て来るのでさらに複雑なのでしょう

今日の福音書の物語は、
聴覚障害のある人のところにイエスさまが近づき、なんとも泥くさい方法で、この人の生き方の軌道修正をします。喋ることも聴くことも出来ないのは不便ですが、ひょっとしたらわたしたちは、このガリラヤ湖畔でイエスさまと出会った人よりさらに、神さまの声が聞こえず、神さまに伝えることができないでいるのかもしれません。いや、むしろ、不都合なのでわざと「聞かず」、そして「話す」資格はないと思い込んでいるかもしれません。そんなわたしたちをも、イエスさまは見捨てず軌道修正をしてくださいます。「エファッタ」(=開かれよ)と呼びかけ続けていてくださいます。 

五つのパンと二匹の魚 

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子

 イエスさまについて来た5千を越える人々が、5つのパンと2匹の魚をみんなで分けて食べたら満腹になり、

余ったパンと魚を集めたら、「12のカゴにいっぱいになった」というこの不思議な物語は、4つの福音書すべてに登場します。

「たった5つのパンと2匹の魚だけで、5千人もの人を満腹させた、すごいイエスさまを信じましょう」と言っているような圧も感じますが、

でも福音書全体から伝わってくるイエスさまの人柄からすると、

特別な力を誇示したり、奇跡を行って皆を唸らせたりすることを目的に、何かをしてみせる人物とは思えないのです。

さらに言うと、「深いあわれみ」をもって関わり、彼らのどうすることもできない悲しみや痛みを受け止めたイエスさまなのに、

数時間後には再び飢えることを知りながら、この人々のおなかを一時的に満たすことで、結局何をしようとされたのか、

そしてそれがどのように現代に生きるわたしたちにとっての「良い知らせ=福音」となりうるのか、よくわからない気持ちになったりもします。 

皆さまにとっても、読むたびにいろいろなメッセージをいただく箇所だと思いますが、今回は、私は数字が気になりました。

まず「5つのパンと2匹の魚」に登場する「5」と「2」ですが、いずれも「不完全さ」や「何かが足りない状態」のシンボルなのだそうです。

ことに「5」は、人間の肉体の持つ限界、またいつか終わるいのちも暗示させます。

さらに、「キリストの傷」という意味もあるとのことです。

また「2」は、「争い」や「大地」を表す数字。

いまだに戦乱に苦しむ国々はありますが、他国の支配に翻弄され、部族間の戦闘に巻き込まれる苦しみが、当時もあったことを思い起こさせます。

一方「12」というと、旧約聖書のイスラエル12部族を思い起こすように、

「完全に満たされた」状態や、「完成」「自然世界の完成」を表すとのこと。

 こんな数字の目をもって、今日の福音書をもう一度おさらいすると、こんなふうに見えてきました。

まずイエスさまについて来た「5」千人の人々がいます。

(人数の表現ですが、ギリシア語ではその場に女性がいても、全体を男性に代表させて「男性が何人」という言い方をします)

この人々は、いろいろな目的で来ていたことでしょう。

生きる意味を失った人もいたし、家族の病気を治してほしいと願っている人もいたことでしょう、

また単に興味本位の人もいたかもしれません。

いずれにしても、手放しでは喜べない現実を抱えたまま、

自分の弱さや情けなさ、そして悲しみや痛みを持ったまま、

イエスさまの元に集まってきた人々です。

 

どこから急に出てきたのか、マルコによる福音書には書かれていませんが、

当時の庶民が食べる「5」つの大麦のパンと、「2」匹の干した魚が、お弟子さんたちによって確認されます。

集まった人々が草の上に座って落ち着くと、イエスさまはパンと魚を手にとり、

「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」配るように言います。まるで聖餐式です。

人々が落ち着いて座るだけでも、かなりの時間がかかったでしょうし、

さらに分配にも時間がかかったことでしょう。

5千人の群衆の端っこにいた人々には、何のために待たされているのか、ほとんど伝わらなかったかもしれません。

中には、「パンと魚を配っている」ことがわかっても、自分のところに回ってくるはずがないと諦めていた人もいたことでしょう。

しかし、驚くべきことに食べ物の奪い合いもケンカも起きず、

すべての人が食べ物を分かち合い、身も心も満たされ、

しかもその恵みは、完全数である「12」のカゴを満たすほどだったと記されています。

 

わたしたちは、5や2が示す限界を持った存在です。

そして、どのように言い訳をしても、取り繕っても、自分の弱さや不完全さは常について回ります。

でもイエスさまは、そんなわたしたちの5や2を切り捨てるのではなく、

認めてくださり、そしてそれらを祈って、愛で包んでくださる。

するとわたしたちの存在は、自分の努力ではどうにもならなかった限界を超え、

想像もしなかった豊かな恵みでいっぱいに満たされる。

つまり神さまは、不完全さの象徴である「5つのパンと2匹の魚」を用いてでも、

わたしたちに愛を伝えてくださろうとしている、という話ではないかと思うのです。

そんなわたしたちに出来ることは、草の上に落ち着いて座り、必要以上に不安になったり心配したりせずに、

神さまは必ずわたしの心と身体を養ってくださると信じること。

そしてそれは、わたしたちが想像する以上に豊かな恵みであること。

そんなことを伝える物語なのではないでしょうか。

からしだね 

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子 

 本日登場するからしだねは、新約聖書に登場します。現在の黒ガラシ(マスタード)の種と関係があると言われ、種の大きさは0.5ミリ程度、息を吹きかけると粉のように飛ぶほど小さいとされています。そんな小さな種であるにもかかわらず、成長すると茎がするすると伸びて5mに達することがあり、黄色の可憐な花が咲いた後に採取される種は、絞ると良質の油がとれ、残った茎と殻は家畜の飼料に使用された、そんな便利な植物だったようです。でも聖書は、マスタードの利便性ではなく、指先でつまめないほどの小さな種が、5mもの藪を形成する生命力に目を留め、それを「神の国」にたとえています。ではいったい「神の国」とは何なのでしょうか。「神の国」は、神さまが清く正しいと認めた「選ばれし者」だけが市民権を得られる国家のようなもの、と考える方もおられるかもしれません。またあるいは、この世の生涯を終えたら、わたしたちを迎え入れてくれる「天国」のようなもの、という感じ方もあることでしょう。何しろ誰も目で見たことがないので、こうだ!と言い切れないところがありますが、私が気になるのは、この吹けば飛ぶような「からし種」が、綺麗な箱に丁重に納められ大事に保管されるという話ではなく、土に植えられて初めて真価と生命力が発揮されるという点です。地面には、動物や虫の死骸や腐った植物、それに人間の排泄物さえ混じっていたかもしれません。また、種が無事に発芽する保証はなく、芽が出ても踏み潰されたり、動物に掘り起こされたりして、その命が断たれる危険にも満ちていたことでしょう。それでも残った種が、土の中で奇跡を起こしていきます。つまり「神の国」は、はるか遠くの清浄な場所に存在するのではなく、捨てられたものや、人々が不要となったもので構成される、まさに泥の中で、目に見える生命へと転身していきます。それはわたしたちが「清く正しくなったら」近づいてくる国ではなく、まさにわたしたちの混沌と無秩序と的はずれに満ちたこの日常のまっただ中に、神さまは諦めることなく種を撒き続けてくださる。わたしたちが踏み潰しても蹴散らしても、種の命をないがしろにしても、何百倍もの豊かな実を結ぶ生命を播き続けてくださる、ということなのではないかと思うのです。言い方を変えれば、わたしたちが目をそむけたいこと、自分ではとても受け止め切れないような痛みや苦しみ、無かったことにしたいような辛い歴史も、神さまはすべて愛をもって受け止め、それらすべてを用いて、わたしたちが想像もしなかったような豊かな実を結ばせてくださるということなのではないでしょうか。それに対してわたしたちが出来ることは、からし種の存在を認め、その成長を邪魔しないことなのではないでしょうか。 

いのちがけで伝えられた「愛」

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子


「ステファノの事件をきっかけにして」云々と、今週の聖書日課は始まりますが、ステファノの事件って何でしたっけ、ということになると、そこから前へ進めない気持ちになるかもしれないので、お手元に聖書がない方のために、まずは解説からスタートします。使徒言行録6:1〜7:60にその物語があります。

ステファノは旧約聖書を引用しながら、神の愛のわざを無視し、人間的な欲と野望に従ってきたユダヤ教内の歴史を批判、(イエスの説く愛の福音に耳を貸さなかっただけではなく)ユダヤ教の律法さえ守らなかったと、指導者と民衆に公言します。すると人々は怒り、一斉に彼に襲いかかり殺してしまった。しかしステファノは今際の際に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ります。

この叫びは「神さま、自分を殺そうとしている人々の罪を赦してあげてください」ということだけではなく、旧約からイエスさまの十字架までずっと、神の愛を悟らず無駄にしてきた「罪」、神の大きなふところを受け止めようともせずに、彼らの思う「伝統」に固執し、その枠に合わないものは排除してきたという「罪」を、これ以上彼らに「存続させないでください」という祈りも含まれていると思います。つまり、神さまが何よりもわたしたち人間に望むことは、お供えものや日々間違いのない生活を守ることではなく、また、人に誇れるような地位や名誉を重んじることではなく、「神に愛されている」という呼びかけを心の底から信じる生き方であり、また、人々の間で愛を実践して生きることをすべての行動の基礎に据えることを、神のみ心として悟れるようお導きください、ということではなかったかと。

今日の日課に話を戻しますが、そんな背景の「ステファノの事件」の後、不思議なことにまるで時を待っていたかのように、あちらこちらの地方で迫害がおき、人々は分断され連絡がとりにくくなります。一方、同時に「福音を語る人々」もあちこちで広がっていきます。しばらくの間、人々は大混乱と先の見えない困惑の中で苦しみ、不安を増大させ、時には何もかも投げ出してしまいたくなる誘惑とも戦い、そして実際に諦めてしまった人もいたことでしょう。でも、その混乱の中で「キリスト者」という概念が生まれてきたと、聖書は記します。それは、イエス・キリストに従う人、愛に生きようとする人、という意味と考えていいでしょう。愛がすべてに優先することに気がつき、それを実践して生きる人々が連帯した時、流れは大きく変化していきます。

私利私欲を越えて、人々はお互いに助け合います。このようなプロセスを経て伝えられた神さまの愛。わたしたちはどのように、それを実践しましょうか。

イースターのメッセージ

管理牧師 司祭 
ロイス 上田 亜樹子


こんなことは前代未聞でしょう。
2年続けてイースターの礼拝が行われないとは、
本当にびっくりです。

静まりかえった礼拝堂は、まるでイエスさまがよみがえったあとの空っぽのお墓のようでもありますが、でも、意気
消沈し、ぼう然と立ち止まっているわけにはいきません。


今、わたしたちそれぞれが、しなければならないことがあると思うのです。それは、神さまが「ひとり子を十字架に架けてまで、
伝えようとされた愛と救い」のメッセージが、

わたしたちの心と魂に確かに届き、迷うことなく生きる基となっているかどうか、改めて各自がご自身に問うことです。

なぜなら信仰とは思考停止ではなく、常にその内容を
問い続けられるものであり、
神への信頼とは、依存する相手を人から神に置き換えることではないからです。


イースターを行事のひとつとして「思考停止」してしまうと、何とかしてわたしたちを救おうとされる、神の切実な想いが埋もれてしまう危険があります。
イースターをお祝いするとき、楽しく過ごすことを優先するあまり、ゆで卵やご馳走や飾り付けやイベントが「イースターの準備」になってしまっていたとしたら、本末転倒です。

そこで、まずはイエスさまの十字架の意味をもう一度考えましょう。
一番優先したいのは、生き難い人、悲しみ苦しんでいる人、自分の辛さなど誰にもわかってもらえないと思っている人々に、
神さまのメッセージが届くために、十字架があったということです。

自分が苦しみ悶えなくても済むように、遠く離れたところから正論を主張する神ではなく、
心の奥深くの痛みを一緒に担おうと、地上に降りて来て、
同じ目線に立とうするアクションです。

自分には、苦しみが襲ってこないようにと、
不幸にして苦しんでいる人を「何かを間違えた人々」というレッテルを貼って遠ざけるのではなく、
イエスさま自身が、当時の政治犯に対するのと同じ刑罰を受け、最下層の人々と同じレッテルを貼られ、家族もさんざんな目にあうことになっても、人々の心の闇まで降りて来て、「あなたのことが大切だ」と告げようとされました。
次に大切なのは、他でもないわたしたちの心の闇に届くメッセージでもあったということです。

様々な行き詰まりや困惑は日常茶飯事ですが、いろいろと大人の都合をつけ、毎日がなんとか回っています。
ただし、そのために少し目をつぶっている部分、つまりズルをしたり、本当のことを言わなかったり、
愛のない行動をしたり、欲にかられたりと、ちょっと神さまには顔向けできないような生活の場面は、
大概の場合「無かったこと」にして生きています。

もう少し言うと、弱さや情けなさにまみれている自分は切り落とし、そういう自分は存在しなかったことにして、自慢できることや人より優位に立てる部分のみ、陽のあたる場面に置こうとします。

そんなわたしたちに、イエスさまはこう言われます。

「あなたの全部、まるごとを愛している」

何がおきても、どんなに情けない自分になってしまっても、またたとえ神さまに背を向けたとしても、わたしたちは揺るぎなく、イースターに招かれています。

それは、どこか遠くの清く正しい美しい人にだけ用意された救いのプランではなく、

自分は清くも正しくもないから、そんなこととは縁がない、と思い込んでいる人々にこそ届けたい、

神さまの意志をひしひしと感じます。

イエスさまの十字架は必要だったのか。

いえ、神さまにとっては必要なかったです。

でもわたしたちが、神さまの愛を知るためには必要でした。

イエスさまの復活は不可欠だったのか。

いえ、神さまにとっては復活してもしなくても大丈夫でした。

でもわたしたちが神さまの愛を信じるには不可欠でした。

そうまでしても、わたしたちに幸せに生きてほしい、それがイースターのメッセージの真髄ではないでしょうか。
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