2023.10.1
聖書のこの箇所は、「二人の息子のたとえ」
先日、
教会建物や教役者維持に加え、
イエスさまが教えてくださったのは「
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管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.3
「そんなことは認めない」イエスさまから、
同列にはできないとしても、予想とあまりに違うことが起きると、
現代では、弱さや小ささは退治しなければならない対象ですが、
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.13
今日の福音書は、神さまに信頼し切れず、しかしイエスさまが言われるから、こわごわと足を踏み出す、ところが本当に支えてくださるのかどうか不安になり、水の中に沈没しかける、という中途半端なお弟子さんの「信仰」のようすが描かれています。でもこれは、他人事ではないかもしれません。
わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くし、あとは一体どうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。
教会の働きの根本にあるのは、まずはひとりひとりの「信仰」と呼ばれる、神さまへの信頼の深さですし、できれば教会に連なるクリスチャンは、信仰を深め、神さまに信頼して生きていきたいと願っています。今日の話のお弟子さんたちのように、「溺れるかもしれない」「イエスさまはどういう状況か、本当にわかって言っているのか」「本当にわたしを愛してくださっているのか」という疑念と不安をぬぐえず、神さまの力を疑いながら船の外へと、一歩を踏み出す生き方はどうなのでしょうか。しかも「イエスさまがそう言ったから」と、自分のせいではないと言い聞かせながら、前に進もうとするお弟子さんの姿は、わたしたちへの警鐘かもしれないと思います。何も考えないで人の言うとおりに行動することや、周りの圧力に屈することへの警鐘でもあるでしょう。嵐の中、不安になるのは当然です。不安による思考停止もしばしば起きるでしょう。でもわたしたちは、神さまへの盲信ではなく本当の信頼を深める時、冷静に判断できるようになるのではないでしょうか。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まず神さまに信頼することから出発しましょう。
父なる神さまは、
しかし何故そんなややこしいような「イエスさまの説明」
今日の福音書ではモーセとエリヤが現れ、
「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①
日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、
②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、
③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、
この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.4
十字架で亡くなり、そして復活したのち昇天する際に、
わたしは、ちょっと考えてからこう答えた次第です。「
まるで禅問答ですが、わたしはこの人が、「寂しさから守られる」
ところで、キリスト教に入信しても、この世的なご利益は、
もし心のどこかが、「こんな私は愛される価値はない、
明日から命と成長を表す「緑」の季節に入ります。
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.2.12
日本では「言葉化する」ことをあまり良しとしない風習があるせいか、逆に言葉にしない表現に対して、許容度が高いように思います。
怒鳴ったり、物を乱暴に扱うなどの表現までに至らずとも、不快な顔をしたり、返事をしなかったり、明らかに表情では苛立ちを隠していないのに、何を不快に感じたのかは言葉化せず、「言わなくてもわかるでしょ」といったような一種の「会話」が通用する社会なのかもしれません。
もしこれが、双方向のやりとりで、お互いに表現し合うような場合であれば、「会話」として成立するのかもしれませんが、大概の場合はどちらかが察して相手の主張を呑み、やりとりをする前に終了してしまうことがほとんどでしょう。
というのは、そういった「会話」を始めた側が、自分の立場がより優位であると踏み、言葉以外のやりとりを始めてしまう(そして「理解できないのが悪い」)ので、「間違った」行動だとは認識されにくく、罰則規定に当てはめるのも難しい。
しかも「言わなくてもわかってほしい」という甘えが混じっていることも多いので、なかなか厄介です。
ユダヤ人社会の律法に照らし合わせても「間違い」とは認識されず、罰も課されないような事柄は、神さまの愛に反してはいても、見過ごしにされてきました。
密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりする人に対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」と、イエスさまがおっしゃっている話なのではないかと思います。
当時の律法が「間違い」と定めたことについては、現在の日本国憲法以上の拘束力を持ちましたが、律法で禁止されていないことをしても、大丈夫だと思う人に対する「ダメ」なのでしょう。
つまり、ズルをしても、愛が欠落した行為をしても、力関係を悪用して相手に圧力をかけても、「自分は律法には違反していないから安全」と思っている人々に対して語られた言葉です。
しかもイエスさまは、具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、それがたとえ口から出ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるということではないでしょうか。
どきりとするのは、言わなければバレないと、どこかで思っているわたしたち、あるいは意識にさえのぼっていない腹黒い言動について、わたしたちは「裁きを受ける」と言われている点です。
しかしここで誤解してはならないのは、「裁きを受け」ないためには何一つ間違うな、とイエスさまから言われているわけではない、ということです。
わたしたちのさまざまな過失をほじくり出し、重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが、イエスさまの意図ではない、ということは忘れてはならないと思います。
こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、その行動の積み上げが、いつしか本人の心と身体と魂の健康をむしばみ、神さま不要の人生や、愛に基づかない判断、そして最終的には自分自身を絶対化する傾向へと引きずられる。
それらに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっているのに違いないのです。
今日の特祷(顕現後第6主日)で「人々と国々を健全なものとしてください」と祈ります。
神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。
それを妨げる様々な妨害は至る所に存在する事実は否定できませんが、それらは神さまから来たものではないし、また神さまが望んでおられることでもない。
むしろ、一見魅力的に見える危ない罠に、わたしたちが自ら近づいていくこと、そして最終的にはその罠にからめとられていくことに、心配してくださっているイエスさまの言葉です。
それに対するわたしたちの責任は、イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めることではないでしょうか。