管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.19
マタイによる福音書13:24-30,36-43
刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。(マタイ13:30)
イエスは群衆に向かって多くのたとえを語られました。たとえの話は、聞く人々にとって身近で、語られる情景を思い描くことが容易な話でなければなりません。そこでイエスは、誰もが想像しにくい「天の国」をたとえとして人々に伝えます。
「天の国」を、日々の食事に用意されるパン作りのパン種に、身近に植えられているからしの木の小さな種のことに、そして良い種を畑に蒔いた人にたとえて、天の国が語られてゆきます。どれも育ってゆくところが共通しています。変わらないものではなく、私たちが生きる時空の中で、成長し、変化してゆくもののように天の国が表されているのです。言い換えれば、私たちにとって、天の国は変化しないものではなく、成長し変化してゆくかのように感じられるのかもしれません。そして特に、良い種を畑に蒔いたのに毒麦が混ざったという話は、私たちの成長と変化を受け止めて、一人ひとりの存在を大切に見守ってくださる神のまなざしを想い起させているように感じます。この世界を創造された神は、そこに生きる者を、大切に育もうとする麦にたとえて、私たち一人ひとりの成長と、収穫の時、すなわち世界が迎える豊かな実りの時を忍耐して待っておられるというのではないでしょうか。
たとえ話は本来、聞き手の想像力に信頼して、自由に聞かれ受けとめられるものです。そしてそこに語られている意図を知ろうとするとき、語り手と聞き手の関係、また語られる出来事と語り手、聞き手の関わりは無関係ではありません。忍耐と愛をもって語られるイエス、神との出来事は、神の愛の心を受け止め、自らの成長と変化を願う一人ひとりに、神の恵みと励ましを伝えるものとなるのでしょう。心ひらいて私たちを待ち受けてくださる神の姿とともに。(F)


