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聖書のメッセージ
「聞き分ける」羊
教会では、イエスさまを羊飼いに、そしてその生き方に共感するわたしたちを羊にたとえる習慣があります(そういう宗教画も多いですね)。
それは聖書の中で、「わたしは良い羊飼い」とご自身が言っておられることもありますが、
羊や羊飼いが当時の人々にとって特別感はなく、むしろ身近でわかりやすい喩(たと)えを考えたらそうなった、ということかもしれません。
都市に住むと、羊や山羊と対面するには動物園に行かなくてはなりませんが、
わたしたちにとって電車や地下鉄を利用するのが当たり前のように、当時は羊や山羊が生活の一部だった、ということなのでしょう。
ずいぶん前ですが、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。
門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって来ました。
思わず身構えましたが、その山羊たちはわたしを歓迎したのではなく、侵入者をチェックしに来たのです。
威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。
のちに聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。
ところが羊ときたら、心身共に非常に脆弱、すぐにパニックに陥る。
知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、
ただ自分の身を外敵から守るため、自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切らしいのです。
山羊も羊も個体差はあるでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。
丸腰のままオオカミに喉を噛みつかれたら、抵抗しようがないほど無力な人類だし、
切羽詰まれば目先のことしか考えられないこともしばしばです。
人類全体がどうなるかを気にするよりは、今、自分のお腹が満たされ、寒くなく快適に過ごせていることで「まあ、いいか」と思えてしまう。
でもその一方で、羊たちの特性とは異なる点として、わたしたちは「イエスさまの声を聞き分ける」ものでありたいと思うのです。
それは、音声としてのイエスさまを認識するということではなく、
何も考えずに従属的な行動をとるということでもありません。
それは、イエスさまの語る内容に納得し、同情ではなく共感する。
その生き方に心が揺さぶられ、自分もそのように生きたいと心の中で反芻し、
そして自らの責任において生き方を選び取っていくことではないかと。
それが「聞き分ける」内実なのではないかと思うのです。
イエスさまからの声、それは聞こえにくく、意図がわからないこともあるでしょう。
時には、聞きたくない内容である可能性もあります。
でももし、イエスさまからの声だとわたしたちが思えるときは、
「聞き分ける」自らを信じ、目的地に向かって進む決断ができる羊になりたいと思います。
狭い門から入る
司祭 ロイス 上田亜樹子
「せまい戸口(←「門」とも訳される同じ言葉)から入るように努めなさい」<ルカ 13章24節>
偏差値高めの私立、一流大学、有名企業入社などを目指す人はたくさんいるので、
そんな「狭い門」に入れるよう自分を磨きなさい、といった意味で使われることが一般的かもしれませんが、
聖書のこの言葉は「人に誇れる人生を手に入れるため努力せよ」という意味ではなく、
「救いを得るにはどうしたらいいか」という流れの中で登場しています。
ある程度生活が安定し何とかやっていける、という階級の人々に対し、
イエスさまは少し厳しいところがありますが、安定がいけないと言っておられるのではなく、
保身志向というか、手に入れた物を失わないためには目も耳もふさぐ、自分を守るためには他人はどうなってもかまわない、
といったような姿勢に対しての指摘をされているのだと思います。
不安定な生活を余儀なくされる時、あるいは不安定な心を抱えて苦しい時は、
きちんと定収入があり穏やかな生活を送っている人々の人生が、夢のように美しく見えることがあります。
そして、そんな生活を手に入れれば、自分も自動的に幸福になれるような気がして、
みんなが求める広い門、つまり大勢の人が入っていくような安定した広い門に自分も向かおうとする。
しかし、そんな広い門の中にいざ入ってみると、心の中に葛藤が生まれます。
これが本当に、神さまが私に備えて下さった人生なのだろうか、これが果たして幸せということなのだろうか、と。
大斎節の40日間は、イエスさまの十字架刑がジリジリと迫るのを感じつつ、
その物語をひとつひとつ噛み締める期節でもあります。
わたしたちに「救い」、つまり人生の意義を見い出して安心して生きること、
他の人と比較する必要のない「わたしの存在」そのものが尊いと知ること、
わたしたちを大切に思う神さまの存在を確信すること、愛の力強さを信じること、
それらをわたしたちの心にもたらすために、わたしたちのために十字架にかかる決断をしていくイエスさまの姿を追います。
「みんなが行くから」という理由で広い門に流されていき、その中に入って保身やあきらめを決め込むのではなく、
「狭い門」を見つけて、そこから安心して入りなさい、とイエスさまはすすめます。
なぜならば「狭い門」は、あなただけのために神さまがわざわざ作られた門であって、あなた以外は誰も入れないからです。
人と比較したり、争ったりする必要がまったくない門だからです。
しかし「狭い門」は、人の賞賛を得られないかもしれず、周りから理解されにくく、価値も認められないかもしれません。
でも、自分の門を見つけ出し、その門を入ることが叶うなら、わたしたちは最上の幸せを見出すに違いないのです。
イエスさまがすすめておられるのは、そんな「門」なのではないでしょうか。
カナの「奇跡」
今日の福音書(ヨハネ2:1-11)は、
当時の慣わしでは、
でも、
さて、
一方、
神への信頼という原点へ
今一度、
「悔い改め」という解放
ロイス 上田 亜樹子
たしか私が高校生だったころ、行っていた教会の礼拝後、
「食い改め」などの笑えない冗談を言う人もおり、
このような私の行状はそもそも、
でも、
消化しにくい悲しみや痛みが残ってしまった時は、
悔い改めは、怒りや苛立ち、
強いられてではなく、
押し迫った「とき」
ロイス 上田 亜樹子
気持ちに余裕のある時は、
聖書が描く時代、
人々に寄り添い、
そんな中、
また、
それは、
わたしたちは、自分の限界に辟易(
神をあらわす善い存在
ロイス 上田 亜樹子
今日の聖書の箇所(創世記2章)には、「
社会的な現実の中では、
こどもとイエスさま
管理牧師 司祭
ロイス 上田 亜樹子
聖書の記録によると、イエスさまが人々の間で活動したのは、たった3年間でした。
その短い生涯に、貧しい人や病気の人の悲しみに寄り添っただけではなく、
女性やこどもたちを軽んじたりもせず、
何か用事がある時も、誰かに指示して伝えるのではなく、イエスさま自ら話しかけました。
「こどもにも人権がある」という意識があたりまえではなかった時代に、
あたたかな視線を注ぎ、ひとりの人間としてのこどもに、尊厳(そんげん)をもって接したことが記されています。
今よりずっと危険だったにもかかわらず、出産は「女/こども」の範疇(はんちゅう)にとどまる「穢れ(けがれ)」という理解だったので、
男の子が生まれない限り、あまり外からの関与はなかったと思います。
しかも無事こどもが生まれても、病気になったり怪我(けが)をしたり、幼いうちに亡くなるのは珍しくなく、
さらに小さくて力もない「おとな」なので、うるさくて手がかかり、労働力にはならず、
途中でいなくなるかもしれない存在。
だから成長するまでは、まともに話しかけたり相手にするような対象ではない、というのが常識的な理解でした。
お弟子さんたちも、そんな慣習の範囲で行動しようとしたのでしょう、
聖書の他の箇所では、近寄ってくるこどもたちを、お仕事の邪魔になってはいけないと追い払い、イエスさまにたしなめられています。
イエスさまのこどもに対する処遇(しょぐう)と対極(たいきょく)を成す様子が、
お弟子さん内での「誰が一番えらいのか」論争です。
お弟子さんたちも、こういう話題を熱心に話しているところを知られるのは、恥ずかしいと知っていたのでしょう。
何を議論していたのか聞かれると皆、黙ってしまいます。
損を避け、効率的で、しかも人より一歩も二歩も先んじることが「優秀なおとな」という妄想に取り憑(つ)かれるのは、現代ばかりではなかったようです。
物事を効率的にすすめるには、組織やヒエラルキーが便利ですし、そこに私利私欲が加わると、目先の益が先に目に入ります。
そういう人々にとっては、「こども」に象徴される様々な便利でない存在は、ペースを乱す障壁以外の何ものでもなくなります。
するとイエスさまは、ひとりのこどもを抱き上げて、
「わたしの名によって、このこどもを受け入れる者は、神さまを受け入れる者だ」と言います。
でも「受け入れる」内容は、ペットのように可愛がることではなく、
要求を無条件に聞き入れることでもなく、親切な行為を多発することでもないでしょう。
それは、小さなこどもの中に坐する神さまを見ること。
どんなに力なく見える人の中にも、すでにその存在と共に生きて、その人の中で働かれている神の存在に、尊厳をもって対峙すること。
そんな心の準備ができた時に、わたしたちは神さまと出会うことができる、と言っておられるように思うのです。
わたしたちが神さまに出会うために、こどもたちが目の前に用意されているわけではありませんが、
でもその人々は、わたしたちの計り知れない神のミッションを担う人々。
その方からこぼれる一つの恵みとして、わたしたちが今日、「神さまと出会う」ように助けてくださっているのだと思います。
わたしたちも驚きと尊厳を持って、日々こどもたちの中で働かれている神さまと出会いたいと思います。

み言葉を行う人
ロイス 上田 亜樹子
人の心の根底には、ほんとうは正しい行動を選びとりたい、
一方、
今日の福音書の物語は、
五つのパンと二匹の魚
管理牧師 司祭
ロイス 上田 亜樹子
イエスさまについて来た5千を越える人々が、5つのパンと2匹の魚をみんなで分けて食べたら満腹になり、
余ったパンと魚を集めたら、「12のカゴにいっぱいになった」というこの不思議な物語は、4つの福音書すべてに登場します。
「たった5つのパンと2匹の魚だけで、5千人もの人を満腹させた、すごいイエスさまを信じましょう」と言っているような圧も感じますが、
でも福音書全体から伝わってくるイエスさまの人柄からすると、
特別な力を誇示したり、奇跡を行って皆を唸らせたりすることを目的に、何かをしてみせる人物とは思えないのです。
さらに言うと、「深いあわれみ」をもって関わり、彼らのどうすることもできない悲しみや痛みを受け止めたイエスさまなのに、
数時間後には再び飢えることを知りながら、この人々のおなかを一時的に満たすことで、結局何をしようとされたのか、
そしてそれがどのように現代に生きるわたしたちにとっての「良い知らせ=福音」となりうるのか、よくわからない気持ちになったりもします。
皆さまにとっても、読むたびにいろいろなメッセージをいただく箇所だと思いますが、今回は、私は数字が気になりました。
まず「5つのパンと2匹の魚」に登場する「5」と「2」ですが、いずれも「不完全さ」や「何かが足りない状態」のシンボルなのだそうです。
ことに「5」は、人間の肉体の持つ限界、またいつか終わるいのちも暗示させます。
さらに、「キリストの傷」という意味もあるとのことです。
また「2」は、「争い」や「大地」を表す数字。
いまだに戦乱に苦しむ国々はありますが、他国の支配に翻弄され、部族間の戦闘に巻き込まれる苦しみが、当時もあったことを思い起こさせます。
一方「12」というと、旧約聖書のイスラエル12部族を思い起こすように、
「完全に満たされた」状態や、「完成」「自然世界の完成」を表すとのこと。
こんな数字の目をもって、今日の福音書をもう一度おさらいすると、こんなふうに見えてきました。
まずイエスさまについて来た「5」千人の人々がいます。
(人数の表現ですが、ギリシア語ではその場に女性がいても、全体を男性に代表させて「男性が何人」という言い方をします)
この人々は、いろいろな目的で来ていたことでしょう。
生きる意味を失った人もいたし、家族の病気を治してほしいと願っている人もいたことでしょう、
また単に興味本位の人もいたかもしれません。
いずれにしても、手放しでは喜べない現実を抱えたまま、
自分の弱さや情けなさ、そして悲しみや痛みを持ったまま、
イエスさまの元に集まってきた人々です。
どこから急に出てきたのか、マルコによる福音書には書かれていませんが、
当時の庶民が食べる「5」つの大麦のパンと、「2」匹の干した魚が、お弟子さんたちによって確認されます。
集まった人々が草の上に座って落ち着くと、イエスさまはパンと魚を手にとり、
「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」配るように言います。まるで聖餐式です。
人々が落ち着いて座るだけでも、かなりの時間がかかったでしょうし、
さらに分配にも時間がかかったことでしょう。
5千人の群衆の端っこにいた人々には、何のために待たされているのか、ほとんど伝わらなかったかもしれません。
中には、「パンと魚を配っている」ことがわかっても、自分のところに回ってくるはずがないと諦めていた人もいたことでしょう。
しかし、驚くべきことに食べ物の奪い合いもケンカも起きず、
すべての人が食べ物を分かち合い、身も心も満たされ、
しかもその恵みは、完全数である「12」のカゴを満たすほどだったと記されています。
わたしたちは、5や2が示す限界を持った存在です。
そして、どのように言い訳をしても、取り繕っても、自分の弱さや不完全さは常について回ります。
でもイエスさまは、そんなわたしたちの5や2を切り捨てるのではなく、
認めてくださり、そしてそれらを祈って、愛で包んでくださる。
するとわたしたちの存在は、自分の努力ではどうにもならなかった限界を超え、
想像もしなかった豊かな恵みでいっぱいに満たされる。
つまり神さまは、不完全さの象徴である「5つのパンと2匹の魚」を用いてでも、
わたしたちに愛を伝えてくださろうとしている、という話ではないかと思うのです。
そんなわたしたちに出来ることは、草の上に落ち着いて座り、必要以上に不安になったり心配したりせずに、
神さまは必ずわたしの心と身体を養ってくださると信じること。
そしてそれは、わたしたちが想像する以上に豊かな恵みであること。
そんなことを伝える物語なのではないでしょうか。
からしだね
ロイス 上田 亜樹子
本日登場するからしだねは、
いのちがけで伝えられた「愛」
ロイス 上田 亜樹子
「ステファノの事件をきっかけにして」云々と、今週の聖書日課は始まりますが、ステファノの事件って何でしたっけ、ということになると、そこから前へ進めない気持ちになるかもしれないので、お手元に聖書がない方のために、まずは解説からスタートします。使徒言行録6:1〜7:60にその物語があります。
ステファノは旧約聖書を引用しながら、神の愛のわざを無視し、人間的な欲と野望に従ってきたユダヤ教内の歴史を批判、(イエスの説く愛の福音に耳を貸さなかっただけではなく)ユダヤ教の律法さえ守らなかったと、指導者と民衆に公言します。すると人々は怒り、一斉に彼に襲いかかり殺してしまった。しかしステファノは今際の際に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ります。
この叫びは「神さま、自分を殺そうとしている人々の罪を赦してあげてください」ということだけではなく、旧約からイエスさまの十字架までずっと、神の愛を悟らず無駄にしてきた「罪」、神の大きなふところを受け止めようともせずに、彼らの思う「伝統」に固執し、その枠に合わないものは排除してきたという「罪」を、これ以上彼らに「存続させないでください」という祈りも含まれていると思います。つまり、神さまが何よりもわたしたち人間に望むことは、お供えものや日々間違いのない生活を守ることではなく、また、人に誇れるような地位や名誉を重んじることではなく、「神に愛されている」という呼びかけを心の底から信じる生き方であり、また、人々の間で愛を実践して生きることをすべての行動の基礎に据えることを、神のみ心として悟れるようお導きください、ということではなかったかと。
今日の日課に話を戻しますが、そんな背景の「ステファノの事件」の後、不思議なことにまるで時を待っていたかのように、あちらこちらの地方で迫害がおき、人々は分断され連絡がとりにくくなります。一方、同時に「福音を語る人々」もあちこちで広がっていきます。しばらくの間、人々は大混乱と先の見えない困惑の中で苦しみ、不安を増大させ、時には何もかも投げ出してしまいたくなる誘惑とも戦い、そして実際に諦めてしまった人もいたことでしょう。でも、その混乱の中で「キリスト者」という概念が生まれてきたと、聖書は記します。それは、イエス・キリストに従う人、愛に生きようとする人、という意味と考えていいでしょう。愛がすべてに優先することに気がつき、それを実践して生きる人々が連帯した時、流れは大きく変化していきます。
私利私欲を越えて、人々はお互いに助け合います。このようなプロセスを経て伝えられた神さまの愛。わたしたちはどのように、それを実践しましょうか。
イースターのメッセージ
ロイス 上田 亜樹子
こんなことは前代未聞でしょう。
2年続けてイースターの礼拝が行われないとは、
本当にびっくりです。
静まりかえった礼拝堂は、まるでイエスさまがよみがえったあとの空っぽのお墓のようでもありますが、でも、意気
消沈し、ぼう然と立ち止まっているわけにはいきません。
今、わたしたちそれぞれが、しなければならないことがあると思うのです。それは、神さまが「ひとり子を十字架に架けてまで、
伝えようとされた愛と救い」のメッセージが、
わたしたちの心と魂に確かに届き、迷うことなく生きる基となっているかどうか、改めて各自がご自身に問うことです。
なぜなら信仰とは思考停止ではなく、常にその内容を
問い続けられるものであり、
神への信頼とは、依存する相手を人から神に置き換えることではないからです。
イースターを行事のひとつとして「思考停止」してしまうと、何とかしてわたしたちを救おうとされる、神の切実な想いが埋もれてしまう危険があります。
イースターをお祝いするとき、楽しく過ごすことを優先するあまり、ゆで卵やご馳走や飾り付けやイベントが「イースターの準備」になってしまっていたとしたら、本末転倒です。
そこで、まずはイエスさまの十字架の意味をもう一度考えましょう。
一番優先したいのは、生き難い人、悲しみ苦しんでいる人、自分の辛さなど誰にもわかってもらえないと思っている人々に、
神さまのメッセージが届くために、十字架があったということです。
自分が苦しみ悶えなくても済むように、遠く離れたところから正論を主張する神ではなく、
心の奥深くの痛みを一緒に担おうと、地上に降りて来て、
同じ目線に立とうするアクションです。
自分には、苦しみが襲ってこないようにと、
不幸にして苦しんでいる人を「何かを間違えた人々」というレッテルを貼って遠ざけるのではなく、
イエスさま自身が、当時の政治犯に対するのと同じ刑罰を受け、最下層の人々と同じレッテルを貼られ、家族もさんざんな目にあうことになっても、人々の心の闇まで降りて来て、「あなたのことが大切だ」と告げようとされました。
次に大切なのは、他でもないわたしたちの心の闇に届くメッセージでもあったということです。
様々な行き詰まりや困惑は日常茶飯事ですが、いろいろと大人の都合をつけ、毎日がなんとか回っています。
ただし、そのために少し目をつぶっている部分、つまりズルをしたり、本当のことを言わなかったり、
愛のない行動をしたり、欲にかられたりと、ちょっと神さまには顔向けできないような生活の場面は、
大概の場合「無かったこと」にして生きています。
もう少し言うと、弱さや情けなさにまみれている自分は切り落とし、そういう自分は存在しなかったことにして、自慢できることや人より優位に立てる部分のみ、陽のあたる場面に置こうとします。
そんなわたしたちに、イエスさまはこう言われます。
「あなたの全部、まるごとを愛している」
何がおきても、どんなに情けない自分になってしまっても、またたとえ神さまに背を向けたとしても、わたしたちは揺るぎなく、イースターに招かれています。
それは、どこか遠くの清く正しい美しい人にだけ用意された救いのプランではなく、
自分は清くも正しくもないから、そんなこととは縁がない、と思い込んでいる人々にこそ届けたい、
神さまの意志をひしひしと感じます。
イエスさまの十字架は必要だったのか。
いえ、神さまにとっては必要なかったです。
でもわたしたちが、神さまの愛を知るためには必要でした。
イエスさまの復活は不可欠だったのか。
いえ、神さまにとっては復活してもしなくても大丈夫でした。
でもわたしたちが神さまの愛を信じるには不可欠でした。
そうまでしても、わたしたちに幸せに生きてほしい、それがイースターのメッセージの真髄ではないでしょうか。