管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.10.10
マタイによる福音書22:1-14
そこでまた王は、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。』」(マタイ22:4)
「二人の息子」「ぶどう園と農夫」、そして「婚礼の祝宴」のたとえ、三つのたとえが並べられています。これらはエルサレムの神殿でイエスが人々に話をされていたとき、そこに立ち入ってきた祭司長たちや民の長老たち、すなわち当時のユダヤの指導者たちを意識しながら、公の場所で語られたことです。またこれらを聞いた祭司長たちは、彼らのことが言われていると気付いた(21:45)とも記されています。
どのたとえも、父が、主人が、そして王が呼び掛けるところから始まっています。その呼びかけはいずれも、恵みや収穫の喜びを分かち合うことを願って発せられているように思います。
王は、王子の婚礼の喜びを分かち合うために、選ばれ招待されていた名士たちを迎えて宴会をはじめようとします。招待客のところにしもべを遣わして、宴席の始まりを告げますが、招待客たちは動きません。そこで王は再度、牛や肥えた家畜を屠って、最上の宴席が整ったのでと促します。しかし彼らはついに、その招待をないがしろにしてそれぞれの事情や関心を優先し、また拒否しました。
そこで、王によって用意されたこの宴席には、招待されていた客、あらかじめ招かれていた王の民である人々やのその指導者たちではなく、四つ辻や通りで見かけた人は誰でも着くことができることとなりました。善人も悪人も、もちろん国籍や資格・身分にも関わりなく誰もがこの祝宴、すなわち天の国に招かれ、最上の恵みを分かち合うことがゆるされたのです。神の招きは世界のすべての人々に開かれることとなったのです。
ただし、この席に連なるためには、相応しい礼服を身にまとう必要があります。あらかじめ招かれていた者が失っていたもの、すなわち主宰者への敬意と畏れ、招かれたことの栄誉を知り、神の喜びを喜びをもって素直に受け止めようとする心が、備えられていなければなりませんでした。(F)


