管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.18
ヨハネによる福音書1:29-41
先週も「バプテスマのヨハネ」が登場しましたので、顕現節に入り2度目の登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようですが、ヨハネがイエスさまのことを、二度も「神の子羊」「私は知らなかった」とくりかえしていることなど、そう簡単には理解しにくい箇所かもしれません。
「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が何か罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊を「いけにえ」として捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という慣習は、現代のわたしたちにはとうてい理解し難いものでしょう。
しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でした。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。


