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聖書のメッセージ

わたしに従いなさい

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.30

マタイによる福音書16:21-28

 
たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。(マタイ16:26)

 

ガリラヤのさらに北方フィリポ・カイサリアの地で、弟子たちにとってイエスが「メシア」「生ける神の子」であることが明らかにされました。それを境に、イエスは弟子たちにご自身の死と復活を、「ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と予告されました。こうして都エルサレムに向かっての旅が始められました。

 

その旅はこれまで歩み、すなわち出会う人々を教え、いやし、小さくされた人々の祝福を示すことと変わりはありませんでしたが、弟子たちは終着点エルサレムで起こるであろうことを思い巡らしながら従ってゆくことになりました。イエスは弟子たちに「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われています。しかし、イエスが予告された受難するメシアとその復活の姿と、弟子たちが思い描いてきた、ユダヤ国家を回復し新しい秩序をもって治める王のようなメシアの姿には大きな隔たりがあり、ついにそれを受け止め受容することはできませんでした。イエスが示したキリスト、メシアの姿はそれほどに新しく、その解放の業がいかに根本的な転換をもたらすものであったかということに弟子たちが思い至るのは、復活された主イエスに再会することになってからのことでした。

 

イエスのエルサレムへの旅、それに従う弟子たちの心の旅は続きます。私たちのいのち・生活のあり方を問い直す旅でもありました。「人は、たとえ世界ぜんぶを味方に引き入れても(例えば富や権力や名誉や健康や安全を手にしても)自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。」「人には、(神が大切に創造してくださった)自分自身に代わる値打ちのものが、何かあるのか」と問われています。これは世の繁栄を示して「このすべてをあなたに」といったサタンの荒れ野での誘惑の言葉(マタイ4:9)を連想させる言葉でもあります。(F

わたしを何者だと言うのか

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.23

マタイによる福音書16:13-20

 

私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。(マタイ16:19)

 

フィリポ・カイサリアはユダヤの最北、ガリラヤ湖の源流近くに位置する町で、その名にカエサルと冠しているとおり、ローマの影響の強い町でした。また岩の多い荒れ地に近く、その地の大規模な洞窟は黄泉の世界へ通じるとも言われていたそうです。深い洞窟にいけにえを投げ入れるような宗教儀式も当時は行われていたようです。

 

そんな場所に赴き、これまで宣教の働き、またその旅空の生活をともにしてきた弟子たちに、イエスはお尋ねになりました。「人々は、人の子(イエス)を何者だと言っているか」と。弟子たちは、メシアの先駆けと言われた「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」、また神から遣わされた「エレミヤ」や他の「預言者」だとも言われていると応答しました。すると、さらにイエスは「それでは、あなたがたは、私を何者だと言うのか」と重ねて問われました。これは巷の人々がどう思っているかということではなく、弟子であるあなたは、あなたがた教会は、イエスを何者だと信じているのかと問われたのです。私たち一人ひとりに応答が求められています。そして、その答えやその後の対応も、その答えの中に示されているように思います。

 

「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言したペテロの答えがそれです。私たちの心は、そして私たち一人ひとり、また私たち教会の歩みは、それをよく理解し、世に示すものとなっているでしょうか。

 

イエスと弟子たちは、岩と洞窟が眼前に並ぶ場所、そびえる岩を目にしつつ、ペテロ(岩)の「信仰の岩」という言葉を、陰府に開くといわれる洞窟の門を見ながら、陰府に打ち勝つ教会と永遠の命につながる「天の国の鍵」について聞きました。大きな岩のような障壁や暗黒が取り巻く世界の中にあったとしてもなお私たちは、それらに飲み込まれることなく、命につながる道筋の門を開き続けてゆくのです。主イエスへの信頼に発する喜びのうちに。(F

パンではなく、パンくずなら


管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.16

マタイによる福音書15:(10-20)21-28

 

女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(マタイ15:27)

 

故郷での無理解やファリサイ派の人々が抱く反感に触れ、イエスはガリラヤ湖畔を去り、北上して海沿いの異邦の町ティルスとシドンの地方に入られます。

 

福音書にはその地の女性とイエスとの出会いが記されています。彼女の娘は悪霊に憑かれて苦しんでいました。イエスのいやしの業のことを知っていたのでしょう。彼女は、弟子たちと歩まれるイエスの後についてゆき、「主よ、ダビデの子よ、私の苦しみをわかってください」と叫び続けるのでした。ついに弟子たちは、「あの女性を帰らせてください」と訴えることになります。異邦の女性に対するイエスの対応はそっけないものでした。

 

しかしそれにめげることなく、この女性はイエスの前にまわり込み、進路をふさぐようにしてひれ伏し、「助けてください」と訴え、そして、救いは先ず神の民であるユダヤ人に告げられなければならないというイエスに、「でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と続けます。言い換えれば「あなたの神の民、あなたが遣わされた人々の救いが優先されることはわかっています。でもその上で、恵みのパンはいただけなくても、食卓からこぼれるパンくずなら、私たちにも受け取ることができるのではないでしょうか」。こうして、この異邦の女性の上にも、神さまの恵みが注がれることとなりました。主の降誕にマリアの応答が必要であったように、神の救いの業が非ユダヤ人にも啓かれるとき、この女性の願い続ける姿勢、パンくずをさえ恵みのしるしとする心が必要だったのではないでしょうか。

 

この出来事は、実は私たちにとっても身近なものです。聖餐式の中の「近づきの祈り」の「み机から落ちる(パン)くずを拾うにも足りない者ですが」という一節は、カンタベリーの大主教クランマーによってこの物語から採られたものです。(F

あなたの目、耳、口、そしてあなたの心に

管理牧師 フランシス下条裕章司祭 
26.8.9

マタイによる福音書14:22-33

 

イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。(マタイ14:27)

 

イエスは、湖の対岸・新しい働きの場を目指す舟に弟子たちを乗せ、ご自身は祈るため山に向かわれました。イエスの姿が見えなくなった湖上で、舟は逆風に遭い、往きあぐねます。それは、マタイによる福音書が執筆された時代の雰囲気を彷彿とさせる状況でもあったかもしれません。ユダヤ教徒からの排斥、ローマ帝国による非難がはっきりとし、大小さまざまな迫害事件があちこちで突発的に起こるような状況。天に昇られたキリストの再臨もいまだ実現せず、その時代をどのようにキリスト者として生きてゆくことができるのか、問わずにはいられなかったにちがいありません。一方、ギリシア語を話すユダヤ人や「異邦人」と呼ばれていた人々の入信は後を絶たず、キリスト者の集まりは拡大してゆきました。ローマが支配する異教世界の中、キリストに従う教会の群れは困難と希望が入り混じり、明日を見通すことができない時代にありました。湖上にあって往き悩む弟子たちの姿と重なるものがあるように思います。

 

祈りを終えてイエスは、舟に向かわれます。マタイ福音書は、この時イエスは風立つ湖面を歩んで弟子たちに近づいたと、その様子を奇跡として描いています。弟子たちはその姿を見て「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖に襲われて叫んだと記されています。逆風と疲れと驚きに、弟子たちは冷静さを失ってしまっていました。

 

それが主イエスだとわかったとき、弟子のペテロは湖上を歩むことを願い、それに挑戦します。しかし、すぐさま溺れそうになり主に援けられ、不信仰を𠮟られます。この物語は、迫害やさまざまな恐れという逆風を感じ、また希望の主イエスの姿を見失いがちな教会への励ましの物語なのかもしれません。私たち教会は、いつもどこでも、逆風の中にあっても、イエスの御心のままに目指す岸へと向かってゆく小舟なのです。(F

五つのパンと二匹の魚


管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.2


マタイによる福音書14:13-21

 

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」(マタイ14:16)

 

神から遣わされた宣教者としての働きが故郷のナザレで理解されず、またメシアの先駆者である洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されるという出来事が伝えられると、イエスは舟で寂しい所へ退かれたとマタイによる福音書は伝えています。さまざまに思いを巡らし、また神との祈りの時を持つためだったのではないかと思われます。しかし町から離れたその場所にも、大勢の群衆がイエスを尋ねて訪れます。イエスの後を追い、集まってくる人々の様子を見てイエスは、飼い主のない羊のように、飢え渇き、疲れ傷つき、また不安のうちに行くあてを求める羊の群れを連想されたのかもしれません。彼らの思いに深く共感し、病にある者には癒しが示されました。

 

時は過ぎ、その寂しい草地で過ごす人々に夕闇が迫ってきます。人々の疲れと空腹を心配して弟子たちがイエスに進言します。「群衆を解散し、村へ行ってめいめいで食べ物を買うようにさせてください」と。しかしイエスの応答は「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい」というものでした。

 

そこにあったのは五つのパンと二匹の魚。イエスは持って来させ、それを取って、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちはそれを人々に配りました。その結果、5千人以上の人々が分かち合って満腹し、かつ充分に余裕があったと伝えられています。五千人の給食の物語です。

 

私たち教会が折々にささげる聖餐式や、教会内外で行われている現代に生きる人々への奉仕と分かち合いの原型ともなっている出来事です。私たちは、足りないことに嘆くのではなく、与えられたもの見出して感謝し、それを分かち合うことを通して豊かにされ、活かされている神の民なのです。(F

天の国は、からし種に似ている

管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.26

マタイによる福音書13:31-33,44-52

 

どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:32)

 

マタイによる福音書の13章には、「神の国」について語られるイエスと、それを聞く人々の姿が描かれています。岸辺に立つ群衆に向かって、湖上の舟に腰を下ろして「種を蒔く人」のたとえが語られました。神はあらゆるところに種を蒔き、あらゆるところからの収穫を期待しておられるのです。そして問いかける弟子に「あなた方の目は見ているから幸いだ。あなた方の耳は聞いているから幸いだ」と話を聞いて問い、神意を見出だそうとし、またそれがゆるされている人々、すなわち弟子であろうとする人々へ励ましの言葉が送られます。

 

天の国を「良い種を畑に蒔いた人」に似ていると、収穫の時を優しく忍耐強く待たれる神の姿を彼らに語り、「からし種」「パン種」にたとえて、神の国がどこか違う場所にあるというようなものではなく、人々の中で変化し成長してゆくものであることを示されました。

 

さらにイエスは弟子たちに「畑に隠された宝」「良い真珠を探している商人」「海に降ろして、いろいろな魚を囲み入れる網」に天の国は似ていると語られました。そしてすべての話を聞いた弟子たちにイエスは、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と問います。弟子たちはここで「分かりました」と応えたと記されています。見た、聞いた、尋ねたというところに留まらず、見聞きしたことにどんな神意が隠され、表されているのか聞き分け「分かりました」と応えられるようになる。そのためにイエスとともに歩み、学び、変化し成長し続ける者が弟子であると言われているようです。

 

今できない、知らない、分からない、小さすぎると言ってあきらめることのない者が弟子であり、天の国の現実に相応しく学び成長し続ける者、天の国のことを学んだ学者となるのでしょう。そしてその学者は「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」、温故知新、すなわちどのような時と所にあっても、おのずと神のみ心を世に示し、神の国を導き出すまことの知恵を身につけた者へと成長させられてゆくのです。神の豊かな収穫のしるしとして。 (F

忍耐して見守るもの


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.19

マタイによる福音書13:24-30,36-43

 

刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。(マタイ13:30)

 

イエスは群衆に向かって多くのたとえを語られました。たとえの話は、聞く人々にとって身近で、語られる情景を思い描くことが容易な話でなければなりません。そこでイエスは、誰もが想像しにくい「天の国」をたとえとして人々に伝えます。

 

「天の国」を、日々の食事に用意されるパン作りのパン種に、身近に植えられているからしの木の小さな種のことに、そして良い種を畑に蒔いた人にたとえて、天の国が語られてゆきます。どれも育ってゆくところが共通しています。変わらないものではなく、私たちが生きる時空の中で、成長し、変化してゆくもののように天の国が表されているのです。言い換えれば、私たちにとって、天の国は変化しないものではなく、成長し変化してゆくかのように感じられるのかもしれません。そして特に、良い種を畑に蒔いたのに毒麦が混ざったという話は、私たちの成長と変化を受け止めて、一人ひとりの存在を大切に見守ってくださる神のまなざしを想い起させているように感じます。この世界を創造された神は、そこに生きる者を、大切に育もうとする麦にたとえて、私たち一人ひとりの成長と、収穫の時、すなわち世界が迎える豊かな実りの時を忍耐して待っておられるというのではないでしょうか。

 

たとえ話は本来、聞き手の想像力に信頼して、自由に聞かれ受けとめられるものです。そしてそこに語られている意図を知ろうとするとき、語り手と聞き手の関係、また語られる出来事と語り手、聞き手の関わりは無関係ではありません。忍耐と愛をもって語られるイエス、神との出来事は、神の愛の心を受け止め、自らの成長と変化を願う一人ひとりに、神の恵みと励ましを伝えるものとなるのでしょう。心ひらいて私たちを待ち受けてくださる神の姿とともに。(F

見聞きして悟る人に


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.12

マタイによる福音書13:1-9,18-23

 

あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。(マタイ13:16)

 

律法の正しさと神のいつくしみ、安息日をめぐる出来事から、ファリサイ派とイエスとの考え方やあり方の相違が徐々にはっきりとするようになり、当時の宗教的指導者たちとイエスの関係は対立的なものとなってきました。しかし人々は、イエスの言葉と行いを通してなされる御業に触れること、教えと癒しを求めて集まりました。

 

ある日、家を出て湖のほとりに座っておられるイエスのもとに、人々が押し寄せて来ました。そこで、イエスは舟を出して湖の上から、岸に集まっている人々に譬えを話されました。「『種まく人』のたとえ」(マタイ13:1~9)です。

 

譬えを聞く人々にとって、種まく人の姿は身近で、それを思い描くことは容易なことだったでしょう。種まく人は、出かけていって土の上に種をまきます。その場所が、柔らかで何も植えられていない土であっても、人々が通り踏み固められたところ、石の多いところや、草や茨が茂っている場所であっても、お構いなしに種は蒔かれてゆきます。なぜなら、当時のやり方では、種を蒔いてから、土地を耕して種を土に漉き込むやり方が一般的だったからです。こうして蒔かれた種は、あるいは鳥に啄まれ、あるいは陽に焼かれ、あるいは茨に阻まれて、実を結ぶことができないものもありました。しかし蒔かれたものは、大きな実りと収穫につながる、命やどる種でした。イエスは譬えで語られます。よい土地に蒔かれたもの、ちゃんと土の中に漉き込まれたものは、30倍、60倍、あるいは100倍にもなると。

 

たとえ話は、身近な出来事を示して、神の御心を人々の心に伝えるものです。それをどのように受け止めるか、そして受けとめた物事をどのように、それぞれのライフ・命の時間の中に示し、生かそうとするかが問われ、委ねられます。あなたは、あなたのこの種と収穫のたとえ話をどのように受け止めますか。(F

めげることのないしなやかさ


管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.7.5

マタイによる福音書11:16-19,25-30

私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。(マタイ11:29)

神の働きを知り、また真実の魂の安らぎを得るのは、柔和で心へりくだったイエスの姿に学ぶことができる者だと言われています。そこで、それらは「知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちに」示さたと記されています。イエスが宣教の働きを通して伝える神の真実は、この世の知恵者や賢者、すなわち自ら求めあるいは身に着けた知恵や力に拠って立つ者にではなく、この世をうまく生きることができていないように思われている人々、すなわち神から遣わされた者が示した福音を幼子のように素直に受け入れている人々こそ、真実の安らぎのうちに生きることとなるとイエスは言われます。

 

彼らが宣教の業=主の御言葉と御業を喜んで受け入れ、それを素直に生きることの喜び、糧として表現することができるからでしょう。こうして彼らは、主イエスとともに、喜びの伝達者としての宣教の働きに加えられてゆくのです。また私たちもそれぞれの生き様のうちに、どのようにイエスとの出会いの喜びを示すことができ、ことにこの社会との接点となっている営みのうちに、イエスとともにあることを表すことができるでしょうか。

 

イエスの御言葉と御業を憶え、それに従って生きた幼子のような心を持った人々を思い起こしながら、今日の歩みを祝福のうちに、すなわち私たちの身や心を自ら重く縛りつけるこの世の軛ではなく、イエス様が備えてくださった、癒しと解放を示す軽やかな荷を担い合いながら進んでゆきましょう。

 

主は柔和で心へりくだった者。すなわちどんな困難や苦しみや圧迫にも竹のようにしなやかに身を曲げて忍び、しかし決して折れることなく、そして心底へりくだって、まるで誰よりも弱く貧しくされた者のように小さくなって、そっと私たちの社会に身を寄せて、真実の安らぎを求めるだれとも、ともに歩み続けてくださるのです。(F

小さくされた者への共感


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.28


マタイによる福音書10:40-42

よく言っておく。私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:42)

 

マタイによる福音書の10章は、イエスが12人の弟子を呼び寄せて、悪霊を追い出し、病をいやす権能を与えて、宣教に派遣するところから始まっています。そしてその派遣は「狼の中に羊を送り込むようなものである」とおっしゃって、弟子たちもまたイエスと同じように迫害の中を進むことになると予告されています。

 

イエスの弟子たちの旅の歩み、そしてキリストに従ってゆこうとする教会の歩みは、この世的にみると、決して穏やかで順調な日々が約束されているものではありませんでした。この世界の、様々な病や痛み、軋轢や亀裂を見逃しにすることなくその中にあって、それらの痛みのいやしを、そして神のみ心、愛と正義の実現、すなわち神が求めておられる神と人と、そして人と人との「正しい」関りを取り戻そうと、弟子たちはゆだねられた働きを進めてゆきます。それは人と人とのかかわり方、社会の有様に変化を求める働きともなります。その言葉と求められる変化を受け入れられない人々、ことにその社会の中で既得権益を持っているような人々には、受け入れにくい働きであったでしょう。

 

そこでイエスは、遣わされる弟子たちに、迫害の予告とともに、彼らに委ねられたみ言葉を宣べ癒しを祈りつつなされる働きを通して約束される報いについて語られました。宣教、それは彼らが出会い受け入れ合うことになる人々とのつながりが、イエスと弟子たちとの喜びと希望の出会いにつらなるものであることを知ること、さらに神との深いつながりへと導かれてゆくことを伝えられました。新しい、永遠の命を受け分かち合う群れが生まれると言われるのです。

 

神は、弟子たちとともにある、小さくされた一人に示された連帯と愛を示した人を、神の預言者、神の前に「正しい者」とされた人々と同じように、尊敬に値する者として扱うとおっしゃるのです。(F

新しい命に生きる


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.21

マタイによる福音書10:24-39


だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。(マタイ10:32)

1アサリオンは当時の庶民の日当の16分の1、今ならワンコインというところです。雀2羽でワンコイン。誰もが手に入れやすい食材のひとつです。ルカ福音書12章によれば2コインなら5羽と描かれ、まとめればおまけもついたようです。イエスはこの2羽一組で売られている雀を例に挙げて弟子たちを励まされています。別々にしたら売り物にもならない「その1羽でさえ、あなた方の父(神)のお許しがなければ、地に落ちることはない」と。さらに加えて、あなたがた自身がその数を正確に把握することさえできていない「髪の毛までも一本残らず数えられている」と。それほどまでに、神は地上の小さな存在でさえ、そして細部にまで心を配られる。たとえそれが隠れ覆われ埋もれたような状況にあったとしても、決して見捨てることはなく、神の配慮が怠られることはないと言われるのです。まして、人であるあなたを創造主が忘れること、大切に思わないことはないと宣言されています。

 

そのうえで、イエスの言葉を通して示されている、この神の在り方となさり様を認めるなら、「誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める」と、神はその人の側に立っていることを明らかにされると言われているのです。

 

不安や恐れの渦巻くこの世界の中で、また生きることの困難や苦しみに出会い、自分の生き方やあり方に疑問を感じる時こそ、すべてを見通して育もうとされる方の存在に気がつくこと、またそれを知って、神がわたしたちの側に立って私たちを支えようとしてくださっていることに信頼することが大切です。

 

信頼をもって新しく歩みはじめるとき私たちは、「恐れるな」と呼びかけて、人生の時を共に過ごしてくださる神の存在を、喜びととともに知り続けることとなるでしょう。(F

痛みを知る癒し人


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.14

マタイによる福音書9:35-10:8(9-23)

群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9:36)

イエスの神の国の喜びを伝える働きは、町や村を一つひとつめぐって、会堂で話をして伝え励まし、歩みの途中で出会う病気や患いの人を癒すものだったと聖書は伝えています。その背後には、「羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いた人々の痛みに深く共感するイエスの思いがありました。人々を弱った羊に譬え、羊の命を支え守る羊飼いの働きが必要と言われているのです。人々の生活する町や村には、そこに暮らす一人ひとり、一つひとつの命の営みが支えられるための配慮と保護がなければならないということになるでしょうか。それが今欠けている、そして神はそこに生きる人々を深く憐れまれている。人々の困難と痛みを自分のことのように感じ、イエスはそれに深く共感し、この社会的な欠けが満たされ回復されることを切望しておられます。私たちの困難や痛みを、神は深く知って癒そうとしてくださっておられると。

 

さらにイエスは、話を聞いている弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから働き手を送ってくださるように、祈りなさい」と言われました。そして弟子たちは祈ります。その祈りとイエスからの委託を通して、彼らもまたイエスと同じ働きに向かいます。すなわちイエスとともに働き、神の見守りのうちに生きようとすることを通して、よい羊飼いの群れに加えられて神の養いを知り、この世界に喜びと癒しを宣べ伝える者とされてゆくのです。

 

歴史を振り返り、様々な文化を学ぶと、人々の生活を守り支える働きが期待される役割や組織が備えられていることを知ります。しかしどの時代も、その働きが完全であったことはなかったように思います。だれひとり「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」ことのない社会にする。それが主イエスを通して知らされた神の願い、委託された私たちの使命ということもできるでしょう。(F

わたしが求めるのは慈しみ


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.7

マタイによる福音書9:9-13,18-26

イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。(マタイ9:22)

 

収税所に座っていたマタイはイエスから、「私に従いなさい」と声をかけられ、立ち上がってイエスに従いました。当時の宗教指導者は、どうしてイエスは「徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」とイエスを批判しました。

 

 長らく出血が止まらない女性が歩いているイエスに後ろから触れます。イエスは、病いや汚れの中にある者が人に触れてはいけないと咎めるのではなく、手を触れて癒された女性に「元気を出しなさい」と声をかけて励まされます。

 

さらにイエスは進んで、息を引き取って床に寝かされている少女の家に行きました。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」というイエスを人々は嘲笑します。はたしてイエスがその手を取ると、彼女は息を吹き返し、起き上がったと聖書は伝えています。

 

イエスに触れる者は、立ち上がって歩み始めるのでした。蔑みの中に、罪の中にあるという負い目の中に、そして死に至る弱さの中にある人々に向けられる非難を、愛し合う家族が食事を共にするように受けとめ、勇気づけ、立ち上がらせてくださるのです。ご承知のように「立ち上がる」という言葉は、「よみがえる」という意味にも使われます。人々が元気づけられて立ち上がり、新たな命の輝きの中に歩み始めるためには、イエスの励ましの言葉、彼とのふれあい、すなわち神の慈しみが必要です。

 

神は、医者が癒しを切に求めるような、慈しみあふれる在り方を、神と人、人と人との正しいかかわり方にされることを示されました。イエスは言われます。「労働に疲れ果てた者、重荷を背負う者は、誰でも私のところに来なさい。私が安らぎを与えよう(マタイ11:28/本田哲朗訳)」。私たち一人ひとりが元気を取り戻し、再び立ち上がって人生を歩んでゆくために。(F

喜びなさい。初心に帰りなさい


管理牧師 フランシス下条裕章
26.5.31

マタイによる福音書28:16-20

 

あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

 

 復活の証人とされた女性たちに、天使やイエスご自身から伝えられた言葉に従って、都エルサレムを離れた弟子たちはガリラヤに向かい、山の上で復活のイエスと再会したと、マタイによる福音書は伝えています。イエスはそこで弟子たちに近寄って来て言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

 

これから後、世の終わりまで主がともにいてくださる。私たちは決して、一人ぼっちで放置された存在となることはないと宣言するこの言葉によってマタイによる福音書全編が締めくくられています。ところで、神はいつから私たちを孤立した存在としないようになさってきたのでしょうか。

 

ご承知の通り、旧約聖書は創世記の天地創造の物語から書き始められています。神がその言をもって、この世界のすべてのものを創られたと書かれています。さらに、神に似せて造られた「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われて、助け弁護する者としてパートナーが与えられたと記されています。この助け弁護する者は、新約聖書の聖霊の働きを示す概念と重なりがあります。すなわち「世の終わりまでともに」とおっしゃる方は、「世のはじめからともに」いて、わたしたちを終始支え続けてくださる存在ということになるのではないでしょうか。

 

キリストの死と復活は、人が死んでゆくときにも神はその時を共にしてくださり、またともに永遠の命によみがえる希望を表すしるしでもあります。私たちは誰も、一人で生きてゆくことも、死んでゆくこともできません。神と共に、また人々と共に、主は私たちを導きつなぎ続けてくださっているのです。(F

あなたがたに平和があるように


管理牧師 司祭
フランシス下条裕章
25.5.24


ヨハネによる福音書20:19-23

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

 

五旬祭(ペンテコステ)の日、キリスト・イエスの昇天から10日目、復活から数えて7日×7週、50日目となる日に、弟子たちの上に聖霊が降りました。彼らは復活の証人となった女性たちやイエスの兄弟たちとともに集まり、心をあわせて、ひたすら祈っていたようです。すると突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響き、そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、様々な言葉で人々に説教したのでした。復活のイエスと聖霊に導かれて進むキリストの教会の誕生、聖霊降臨の日の出来事です。

 

さて、この出来事は、よみがえられたイエスによって弟子たちに託されていた使命を確認するものでした。復活されたイエスは、落胆し、家に鍵をかけて引きこもっていた弟子たちの真ん中に姿を現されました。聖書はその時の様子を「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。』」と記録しています。このイエスの宣言は、弟子たちの裏切りと背信、隠ぺいと逃避に沈んだ心を、その苦悩とわだかまりから解放するものでした。そしてイエスの息・新たな援護者・聖霊とともにある、再出発の希望を伝えるものでした。

 

こうして集められたキリストの弟子たち、私たち教会は、神による派遣と赦しを受け、聖霊の促しによって、平和を伝える神の器として出発し続けるのです。

 

その日から今日まで、そしてこれからも、時と所に限られることなくいつも。

 

この解放と新たな旅立ちをともに祝い、神の愛と赦しの言葉に拠って、人々と共に進んでゆきましょう。(F

身をもって知ること


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.5.17

ヨハネによる福音書
17:1-11

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)

 学校や教習所、道場、カルチャースクールなど色々な場で、また人の話を聞きあるいは読書して私たちは学び、様々なことを知ります。さらに日々の生活の中で身をもって、ことに困難や悲しみの体験を通して、私たちはさまざまなことを知ることになります。

 

聖書に「知る」という言葉が用いられているとき、多くは知的に知識や情報として得られたことに留まらず、肉体的な心身の働きをも含んだ理解として「知る」という言葉が用いられているようです。神がわたしたちを創造し、わたしたちを「知る」者であるというとき、それは私たちを知的にも肉体的にも、私たち一人ひとりを抱き包み込むように、深い共感をもって理解してくださっているということを意味しています。そして私たちがそんな神を知ることができるようにと救い主メシアはこの世界に来られました。私たちが、メシア・イエスを通して神を知り、神の愛を通して人と人とが知り合うことを祝福し励ましてくださるためです。

 

十字架の時が近づいたとき、イエスは弟子たちにさまざまに神のみ心を語り、そして言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と。だれもが死または苦難をも経験しなければならないことを予見しつつ語られ、それがイエスの受難と重なる時、私たちがより深く、身をもって神と人々の真実の関りを知ることになる。さらにそれが私たちに平和をもたらすことになると。

 

「勇気を出しなさい」。でも私たちにはそんな力はありません。だからこそイエスは先だって苦難の中にも歩みゆかれるのです。誰のどんな歩みの中にも、神の祝福を知る出来事が待っているのですから、立ち上がって一歩進みましょうと。(F

イエスはあなたたちのところに帰ってくる


管理牧師 司祭下条裕章
26.5.10

ヨハネによる福音書14:15-21

私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

 

 慣れ親しんできた故郷や職業を離れ、家族・親族を後にしてイエスに従いその生き様に倣って過ごす弟子たちにとって、その頼るべき存在、彼らの信頼のきずなの源となっているのは、師イエス以外には考えられませんでした。そしてそのイエスは間もなく、死によって彼らの前から姿を消すことになります。イエスには、新たな家族また新しい掟に基づく生き様を伝えるものとして成長してきた弟子たちを、世の荒波のうちにそのままに放置し、見捨てておくことなど考えられませんでした。これまで一緒にいたように、そしてこれからもずっと一緒にいられるように、「あなたがたのところに戻ってくる」と約束されたのです。

 

 果たしてこの約束は現実のものとなり、十字架の上に死んで復活されたイエスは弟子たちに現れ、さらに協力者・弁護者である聖霊が弟子たちの上に降ったと聖書は伝えています。イエスと弟子たちとの再会は、ただ再び共にあればよいということではなかったように思います。イエスの死とよみがえりが、彼ら一人ひとりにとって、また彼らが生きるこの世界にとって、どのような意味を持つのかということを伝えようとされているようです。

 

 イエスを敬愛する心に聖霊は宿り、その力によって、イエスの存在が生死を超えて知らされると言われています。そして、弟子たちがイエスに与えられた掟を守ることによって、彼らは互いの存在を大切にする愛の生活を保ち、またイエスが示された生き方を通して、この愛の掟を守ることができるようにされるのです。神から与えられた命を生き、イエスと共に愛の喜びのうちに生き続ける勇気と力、そしてその道筋が示されました。だれもが頼るところのない孤独から解放され、神の家族のひとりとして、新しい掟による愛の交わりに加わるようにと、あなたも招かれているのです。(F

あなたがたのための場所


管理司祭 下条裕章
26.5.3


ヨハネによる福音書14:1-14

私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。

(ヨハネ14:2)

 

 わたしたちの生活はさまざまな事物に取り囲まれるようにして成り立っています。それを少し意識しながら、またはほとんど意識しないまま、当然のこととして多くの日々を過ごしています。しかし、何か失われるものがあると、失ったものの大切さに忽然と気づかされて、あるいは慌てふためき、涙し、落胆することになるのかもしれません。

 

イエスが、弟子たちとの死別の時が近いと感得したとき、弟子たちが、それまで当り前にあったイエスと共にある生き様から絶たれることになるということを思い、この言葉を口にされたのではないかと考えます。

 

生活し旅をしながら共に過ごす、家族と同じような拠り所となる関わりは、イエスの死によって失われてしまう。そんな彼ら=弟子たち、また従い共に歩む人々=がこれからを生きてゆく力を得られる拠り所となるもの、それが「父の家の住まい」「あなた方のための場所」という言葉の示す、将来の再会の約束なのです。さらに、「行う業」すなわち一人ひとりの生き様が、イエスの心と共にあることを示すのだと言われているようです。愛の交わりは、生死を超え、時を超えて表示されてゆくのです。

 

端的に言えば、イエスが示された愛の思いを、そして生き様を通して表された人を大切にする生き方を求めるなら、いつでもどこでもイエスの存在を身近に感じることができるということでしょう。十字架にかかられ復活されたイエスは、弟子たちの前に立ち現れて、神の風を受けて歩みだせとおっしゃいます。誰もがこの言葉を心にとめて顔を上げ、愛する思いを心に刻んで立ち上がってゆくとき、救い主イエスは生涯の同伴者としてともに歩んでくださいます。(F

見分ける聞き分ける


管理司祭 下条裕章

26.4.26


ヨハネによる福音書10:1-10


私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。
(ヨハネ10:10b)

 

 古くから牧羊がたいせつな営みであった地域では、羊・山羊、また羊飼いは親しみのあるものでした。それゆえにしばしばその姿は社会や人々の生活の比喩にも用いられました。

 約2600年ほど前、ユダヤという国は滅ぼされ多くの人々が捕囚としてバビロンにひかれてゆくことになりました。その中に祭司であった預言者エゼキエルも含まれていました。そして捕囚となった民に向かって、民の神への回帰、正義と公正の道が、祖国への帰還と復帰の希望へとつながる道であると告げ知らせることとなります。彼もまた民を羊に譬えて、神の御心を伝えました。

「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。あなたがたは良い牧草地で草を食べても、それでは足りないのか。あなたがたは牧草地の残りを足で踏みにじり、澄んだ水を飲みながら、残りを足で濁らせている。私の群れは、あなたがたの足が踏みにじった草を食べ、その足が濁らせた水を飲んでいる」(エゼキエル34161819)と。

羊飼いは、羊の命を奪う者ではなく、それを養い育てるもの。羊の囲いの中にも、牧草地や水場にも、そしてこの世界の隅々に、正義と公正が行き渡るように神は願っておられると言われます。そしてみ心を実現するために、良い羊飼いを送ると言われているのです。

羊は、他の者の声に惑わされることなく、また状況におびえすくむことなく、この羊飼いの声を聞き分け、その言葉に従うものとして描かれています。私たちは、祈りを通して、また学びを通して、この声を聞き分ける耳、すなわちセンスを磨いてゆくのです。(F

話し合い論じ合う者とともに歩まれるイエス

管理司祭 下条裕章
26.4.19


ルカによる福音書24:13-35

   二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカ 24:32)

 イエスを埋葬した墓が空になっていると知らされた日、それを聞いた二人の弟子が、都エルサレムに背を向けてエマオという町に向かって歩んでいます。その距離は約11㎞。上野駅からの直線距離にすると高円寺、大崎、あるいは葛西臨海公園の辺りということになるでしょうか。彼らがその町を目指した理由はよくわかりませんが、道々での話題は、ここ数日間にエルサレムで起こったこと。イエスの死にまつわる出来事でした。過ぎ越しの食事、弟子の裏切りと否認、イエスの逮捕、裁判、十字架の死と埋葬、そして空っぽの墓とそれらにまつわることについてでした。二人の弟子たちは、表情も暗く、落胆し、心は悲しみと将来への不安や恐れに満ちていたことでしょう。彼らがイエスに対して抱いていた「この人こそが主権を脅かされているイスラエルを開放してくださる」という希望も、イエスの死によって打ち砕かれてしまっていました。

 歩きながら話し論じあう二人に、復活されたイエスが近づいて来て、一緒に歩んでくださった、と聖書は伝えています。夕刻となり宿に入り、この同伴者となったイエスが食事の席でパンを取り、祝福を祈ってそれを裂いたとき、弟子たちはこの人がイエスであるとわかり、同時にその姿は目の前からかき消えてしまいました。

   彼らは驚きの中で想い起します。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と。イエスの出来事はすでに終わったものではなく、今も、感謝のうちにパンを裂くときに感知され、イエスの出来事を想い起して語り合うとき、すなわち私たちの祈りと学びを通して、同伴者イエスの言葉は私たちの心を燃やすものだったのです。

   ここから彼らの人生は変貌し、驚きと喜びに満ちたものとされてゆきます。(F)

扉を開かせる者・復活のイエス

管理司祭 下条裕章
26.4.12

ヨハネによる福音書20:19-31


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

 

 イエスが罪人のひとりとして裁かれ、十字架にかけられて殺されようとするとき、イエスに従っていた弟子たちは、自分たちにも害が及ぶことでになるのではと恐れ、逃げ去ってしまいした。人々の目が恐ろしく、恐怖と不安な思いにとらわれ、またこれからどう過ごしてよいかを考えることもできなかったのではなかったかと思います。彼らはなすすべもなく集まり、鍵をかけた部屋に閉じこもって過ごすことになりました。それはとても大きな喪失の体験でした。

 

 そんな弟子たちの集りの真ん中に、扉も鍵も開かれていない部屋の中に復活されたイエスが突然立ち現れてあいさつし、声をかけたと福音書は伝えています。もちろん弟子たちはこの出来事に驚き、そして喜びました。

 

しかしこの再会は、喪失体験の上に、さらにイエスを捨てて逃げ去ったこと、イスカリオテのユダとさして変わらぬ裏切り行為、いくら反省しても取り返すことなどできない深い後悔の思へとつながる自らの有様を心に刻むものでもあったのではないかと思います。

 

 イエスは、そんな彼らにこそなすべきことがある、だから遣わす、出かけてゆけと言われるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ202223

 

 喪失の体験、裏切りの重さと罪の深さを知ったあなたたちだからこそ、聖霊すなわち神の御力に援けられて、世の罪を除こうとされる神のみ心に感じそれを宣言することができる。そしてイエスの言葉そのものが、裏切った弟子たち、また神のみ心を受け止めきれずにいるすべての人々への赦しと癒しの宣言でもありました。(F

誰を探しているのか

管理司祭 下条裕章
26.4.5

ヨハネによる福音書20:1-18

天使たちが、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。(ヨハネ20:13-14)

 イエスの亡骸がそこに葬られていたはずなのに、墓の中にその姿かたちを見つけることができず右往左往するマグダラのマリア。常識を超えた復活の出来事に、マリアの理解も、そして弟子たち、私たち誰の理解も追いついてはいません。しかし動転する彼女の姿は、痛々しいほどに主イエスを愛してやまない心を余すところなく示しています。

 墓の傍らで涙するマリアの後に、復活された主イエスが立たれます。彼女は振り返って彼を見ますが、それがイエスだと認知できません。復活の主の容姿が生前と大きく異なっていたというよりは、動転した心が、涙に曇った視界が、そしてあり得ない事実を認知することができない人間としての限界が、奇跡の事実の認知を妨げていたのでしょう。そして、彼女の喪失感は、彼女の耳から、すべての音を奪っていたのではないかとも思えるのです。

 イエスは声をかけ、彼女の名を呼びます。「マリア」その響きは彼女の耳を開き、あふれ出る喜びの音が心に届きます。こうして彼女は、イエスの死に縛り付けられていた自分自身から解放されてゆきました。

 神にできないことは何もない。この新しい認知は、すべての後悔と挫折、すべての罪の思いから弟子たちに、そしてそれに続くすべての人びとに、解放の喜びを知らせその道筋をひらく声として響き渡ります。

ハレルヤ。主はよみがえられた。すべてのことを可能とする奇跡の出来事、それは私たちの心と思いを、罪と死と墓から解放します。私たちはこの声に促されて、方向転換して顔を前に向け、新しい命の喜びと勇気をもって新しい宣教の道へ踏みだしてゆくことになります。復活の主とともに。(F)

「都合のいい神」を超えて

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.29

マタイによる福音書第26章36節~27章66節

 「苦難のしもべ」とよばれる、今日の旧約聖書 イザヤ書52〜53章は旧約聖書に描かれた神のイメージです。ユダヤ教の伝統では、男の子が一定の年齢になると旧約聖書を朗読する訓練を始め、そして全部ではなかったにしても重要箇所は暗唱できるようになることが、一人前の成人男性として認められる条件だったようです。おそらくイエスさまも、このイザヤ書を、幼い頃から繰り返し読んでこられたことでしょう。

昨今の物価高に苦しんでいる人はたくさんいますが、当時の社会情勢もローマ帝国の圧政により苦しんでいました。他の国に支配されるとは、自国に対しての決定権がないことであり、搾取されても不正がまかり通っても、それに否を唱える手立てがないという状況です。しかもそれは、今日昨日急に始まったことではなく、人々の記憶や先祖の言い伝えの中からずっと、長年に亘って行われてきた不正でした。

 イザヤ書にこのような「神」が描かれていても、そこを繰り返し読んでも気がつくと即効性のある、「不正を一掃する力ある神」を求めてしまう。そんな期待の中、イエスさまが「救い主」として来られた以上、絶対的な神の力によって社会をひっくり返し、自分の生きているうちに理想郷を実現してほしい、他の宗教を廃して、ユダヤ教が特別に擁護されるようになる、そんな妄想があったかもしれません。人々は、それぞれ自己都合のシナリオを捏造し、自分の期待する「神」をイエスさまに重ね合わせ、そして裏切られたと思う。そんな様子は、エルサレム入城の際に歓呼と共に迎えた民が、数日のうちに「十字架につけろ」と絶叫したと聖書は伝えます。

 イエスさまが提示したのは、民の期待とは対極をなす「苦難のしもべ」の姿でした。「輝かしい風格も好ましい容姿もなく、〜軽蔑され、人々に見捨てられ〜多くの痛みを負い、病を知っている」神。そして社会を変革する前にあっけなく命をとられる神。何故今すぐ社会を変えてくれないのだ、と焦る人々は、怒りや憎しみをイエスさまに向けることになる。でも、イエスさまの使命は、「石をパンに変える」ように、目先の政治体を破壊し、力尽くで支配の座に着くことではなく、満足感を一時的に満たすことでもなく、神の愛を知らせることでした。そしてそれは、2千年を経た今でも、わたしたちに伝わり続け、そしてわたしたちを導き続けています。


 こどもたちにいくら正論を言い続けても、その時が来ないと聞こうとしないように、わたしたち大人も、神さまに対して似たようなところがあるのではないかと思います。わたしたちが聞く耳を持たなくても、聞こえないふりをしても、耳を塞いでいても、それでわたしたちをあきらめたり、見捨てたりするような神ではありません。私たちがハッと気がつくのは、いつでもいいのです。おそすぎることはありません。気がついたときに、大好きな家族に抱きつくように、大きな手を広げて待っていてくださる神さまのふところに飛び込んでいきましょう!

〜〜〜〜〜
お知らせ:
コロナが始まった2020年から6年間、どうもありがとうございました。
今月末をもって定年退職を迎えることとなりましたので、お話掲載は本日が最後です。4月1日から、下条裕章(しもじょう ひろあき)司祭が管理牧師として着任。早速、来週から下条司祭がお話を準備くださいます。皆様と神さまの関係がますます深まり、喜びと感謝を毎日見つけることのできる毎日でありますように、お祈りしております。

司祭 上田 亜樹子

心と身体と魂が生きる

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.22


ヨハネによる福音書11:17-44

  聖書にはたびたび「死んでいた人が生き返る」話が登場しますが、数千年前に起きた「生き返って良かった」話のどこに、福音を見いだせばよいのか、わからない気持ちになります。イエスさまが生きておられた時代は現代医学の考え方とは異なり、説明しにくいことも人々は受け入れていたのかもしれませんが、今生きている私たちの知っている誰かの命を助けることとは、あまり関連がありそうにない話です。旧約聖書(エゼキエル書)でも福音書のラザロの話も、生き返った人々は、あまり遠くない将来にいつか亡くなるわけですから、この「延命」はどういう意味があるのか、さらに不可解です。

   ところで現代では、身体の不健康は分かりやすく、熱が出たり立っているのがしんどかったりすると、自分でもすぐに気がつきます。また、心についても、誰とも会いたくないし、しなくちゃいけないことは山ほどあるのに、何も手に付かない期間が続くと、医者に行ってみようかなと思う人もいるでしょう。しかし魂はどうでしょうか。魂の不健康さは、人に意地悪をしても平気、法律に則れば不正も大丈夫、人を騙し自分にも嘘をつくといった症状として現れます。でも、一般的にはそれを「魂が不健康な兆候」とは認めず、むしろ要領がいいくらいに思う。しかしながら、ユダヤ教の影響を多分に受けているキリスト教なので、人の身体と心と魂は、別々に機能しているのではなく、互いに影響し合っていると理解します。「健康」と「不健康」の境目はそんなはっきりしたものではないにしても、放っておくと気がつかないうちに、「不健康」が定番になってしまう。すると、その方が快適な気すらしてきます。このラザロの話にしても、肉体が死んだら決定的にすべてが「終わり」となるのではなく、まだその続きがあることを、そしてそれはこの世の概念とは異なり、人間には計り知れない世界がある、ということを示しているのかもしれません。

   自分の魂と心が「死にかかっている」ことに気がつかない人は、ひょっとしたら多いのかもしれません。気がつかない人に罰を与える神ではなく絶え間なく常に命へと導き続ける神に信頼し、自分のもそして他人のも、等しく「命」を選ぼうとするわたしたちでありたいと思います。

気がつかない目

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.15

ヨハネによる福音書 9:1〜13、28~38

 エルサレムでの出来事です。イエスさまとお弟子たちは、町の中を歩いているときに、目の見えない人とすれ違います。すかさず彼らは訪ねます,「この人が、生まれつき目が見えないのは、誰の罪のせいですか?」これを聞かずにはいられない情景を想像すると、ちょっと嫌な感じもしますが、お弟子たちの心の中は、結構複雑なものがあったかもしれません。

 

 イエスさまのお弟子さんたちもまた、生まれつき目が見えない人は、罪と関連していると決める律法の中で育ちました。なおのこと、それを見た町の人々は、それまで「罪の子だ」と見下してきた人の目が見えるようになると、急に自分たちと同等に並ばれることに不安を覚えたのでしょう。ファリサイ派の人々のところに連れて行き、律法がどう裁くか、納得のいく答えを求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱している様子が、聖書の中に赤裸々に描かれます。ファリサイ派の混乱は、ユダヤ人の中へと広がり、また本人に聞くことになりますが、その人は最初から一貫して主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちも理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と再び会い、その人の中に信仰が宿ったことを確認します。

 

 この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしてもそして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったかもしれません。理解できないことが起きても、神の恵みの中にいる保証を得ていると信じてきた、そして、その中にいないように見える人々を、上から目線で眺めていたが、立場が逆転してしまう。「罪」の中にある人々を共同体から排除することが正義だと信じてきたのに、イエスさまの言動によって、ひっくりかえされる出来事でした。

 

 わたしたちも「現代の律法」にどこか縛られていませんでしょうか。全く縛られない状態は無理としても、もしその律法を根拠に、誰かをどこかで見下している気持ちがあれば、それはイエスさまが望んでおられることの対極かもしれません。

大切なことを抱きしめる

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.8


ヨハネによる福音書4:5-26,39-42

 ある夜、教区での会議の帰り道、混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも眺めるだけでかかわらない。人々は降りまた乗り込んでくる。拾う人もないままに、やがてわたしは自分の降りる駅を迎えてしまった。しゃがんで財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことであった。人々は、落としものを「自分のものにした」という烙印を押されないために、財布と関わらなかったのだ。「人にどう思われるか」がとにかくお大事という世界観に、少し驚いていた。

 しかしながら、イエスさまの時代は、もっとパワフルな世界観が人々を覆っていた。ユダヤ教文化を守るため、タブーとされる人種は、人として扱わない、助け合わない、かかわらない。今日の福音書に登場するサマリアの女性にとっては、まずその「かかわらない」対象者である自分に、水をくれと話しかけるイエスさま、というシチュエーションが、信じらない行動だったに違いない。つまり、サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が「水を分けてもらえないか」とお願いする。この女性が不審に思っても不思議はない。たとえ親切に水を分けても、別ストーリーが何かあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリア共同体からも非難を受けるのではないか、孤立するのではないかと、一瞬にして不安が彼女を襲ったかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて自分は安全なのだろうかと、この女性は気が気ではなかったかもしれない。しかし、イエスさまとこの女性との会話はさらに深まっていき、人としての生き方や魂の救いへと発展する。

 信じられないことは、まだ続く。その町に住むサマリア人たちが、女性の言葉を聞いて、イエスさまのことに耳を傾けるようになる、神さまの愛を信じるようになる。さらにイエスさまは、ユダヤ人としては近寄ってはいけない人々の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされる。常識や宗教やそれまでの軋轢を越えて、また「人にどう思われるか」を超えて、サマリアの町に神さまの愛が広がっていく。

 わたしたちの日常は、どうだろうか。先々のことが思い浮かび、最も優先すべきことを後回しにしていることはたくさんある。それは経験上、軌道から外れて皆が期待する以外のことへと乗り出した嫌な体験をたくさんしているからだ。でもイエスさまと向き合うことによって、この女性が変えられ、彼女が圧力を感じていた共同体も変えられていく。そんなイエスさまの愛と力は計り知れない。

「あきらめてしまえ」という誘惑とたたかう

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.1

 本日は福音書ではなく、旧約聖書の物語についてのお話をしたいと思います。(創世記第12章)

 アブラム(のちのアブラハム)一家は代々、ウルという肥沃な土地に住んでいました。現在のクウェートから少し北側になりますが、当時はペルシャ湾にも面しており、作物がよく実り、商業的にも栄えた町だったと言われています。そんな便利で安定した都市生活を捨て、アブラムの父であるテラは一族を率い家畜も連れて、ウルを出発します。アラビア半島の付け根をはるばる500キロ余北西へ旅先のハランで、テラは突然亡くなってしまいます。どこへ行く予定だったのか聞いていないし、これからどうしたらいいのか、誰を頼ったらいいのか、長男のアブラムは茫然とします。

すると、そんなアブラムに神の声が響きます「おまえの国、故郷、父の家から出て、私が見せる土地へ行け」(直訳)。そこでアブラムはまた旅支度を整え、今度は南下してカナンという土地に入っていきますが、そこでも安住はなかなか得られません。飢饉によるエジプト退避、家族間の対立の苦しみ、生存のため近隣の王との政治的な駆け引き、家族内の問題、息子イサクの件。さらには、アブラムの孫に当たる世代から、再びエジプトに住むことになりその苦難は400年間続くという予告など、安心平穏とはほど遠い人生が続きます。

 こんなことなら、ウルを出なければよかったと、アブラムは何度も思ったにちがいありません。しかも自分一人ではなく家族(というか民族全体)の先頭に立たされ、財産(家畜や財宝)の責任を負わされ、不幸の連鎖をうむきっかけを作ってしまい、うまく治めたつもりがドロドロの収拾不能な人間関係を作る。あまりの不安定さと先の見えなさに、「いったい自分は何をしているのか間違えたのか」と、辞めてしまいたくなる衝動もあったことでしょう。

 私たちの日常生活もそうです。たとえ、人に良く思われようという動機ではなく、誰かがやらねばならないと信じてはいても、何のための苦労なのか遠回りなのか理解できないことも多く、全部無駄に見えてしまうことがあります。でもそこに自らの動機はなく、でもそうすることが正しいと思う時、私たちの理解を超える神の計画が、そこに着々と進んでいるのかもしれません。特祷で「魂を襲う悪念を除き」と祈ります。私たちにとっての悪念は、意味が見えないならやめてしまえ、という悪魔のささやきかもしれないと思うのです。

誘惑とたたかう意味

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.22

 今年は2月18日から大斎節(イースターを迎えるまでの日曜日を除いた40日間)に入りました。イエスさまが荒野で、さまざまな誘惑を退けたことに倣い、日頃は目をそむけている「自分の弱さ」と向き合う期間でもあります。しかし自分の弱さと向き合うのに、自己満足や達成感を目的にしてしまうと、それも違うような気がします。まずは、イエスさまが遭われた誘惑について注目したいと思いますが、3つの福音書:マタイ、マルコ、ルカに登場し、3年ごとに交代で読むことになります。
 
 一つ目の誘惑は「神の子なら、この石にパンに変わるよう命じてみたらどうだ」。村や町を回ると、飢えているこどもや職を失った人の痛みで満ちています。貧しい人々が苦しい労働に耐えても、それで手に入る食糧品はほんのわずか。食べることも大事ですが、それだけではなく、生きる喜びや意義についても飢えているのかもしれません。その場限りの充足を与えることも、イエスさまにはおできになったと思いますが、そうはされませんでした。
 
 二つ目の誘惑は、「飛び降りたらどうだ。あなたの神は信じるのに足りるのか、ちょっと試してみてはどうか」という誘惑です。神を試したその瞬間は結果を得られるでしょうが、それでも1秒先は暗闇です。神を試せば試すほど、その暗闇は濃くなっていき、試したとたんに更に深い不安に囚われていくことになるでしょう。
 
 三つ目は「世界中の権力と繁栄を与えよう、もし私を拝むなら」です。権力と繁栄を手に入れたら、人類全体に「神の愛」を広げることも、人々を苦しめる愛のない行動を排除することもできるはず。人の道に外れた政治を行う皇帝たちを、権力の座から追い出すこともできたのでしょう。しかし、肉体を持ったイエスさまが、人々を護るために永遠に「悪者」を追放し続けることは不可能です。「誰かが何かをしてくれるのを待つ」だけの人々を作ってしまうのかもしれません。
 
イエスさまは何の迷いもなく、神さまの計画通りに淡々と、十字架への道を歩まれたようなイメージがあるかも知れませんが、神ではなく完全な「人として」生涯を送られた意味は、心の中の確信も、目に見える証拠も、また整った環境も最初からあったわけではない、孤独と不安と、時には恐怖と対峙しながら、一歩ずつ進むイエスさまだったに違いないと思うのです。私たちも、いざ自分の弱さと対峙すると、ゾッとするような思いに駆られることがありますが、それはじゃあどうしたらいいのか、といった先が見えず、頑張ったご褒美も見えないからです。でもそれが現実を見つめるということなのかもしれません。イエスさまはこの誘惑を通して、十字架への備えをなさいました。わたしたちはどのような準備が必要でしょうか。

あなたはわたしの愛する子

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.15


マタイによる福音書17:1-9

   今日の福音書もまた難解です。光のように白く輝く衣、イエスさまと語り合うモーセとエリヤ、この光景を見ていた弟子たち。いったいの誰のための何のお話なのか必要性が見えない気がします。もちろん様々な「解釈」はできますが、それが即「今日」を生きる力になるかというと、ピンと来ないのが正直なところです。

 今日の特祷でわたしたちは「自分の十字架を負う力を強められ、〜主と同じ姿に変えられますように」と祈ります。「主と同じ姿」になるとは、十字架上で苦痛を味わうことではないとは思いますが、では何をもって「主と同じ姿」になるのかと考えると、1つは「わたしの愛する子」と呼びかける神さまの声を、イエスさまのようにわたしたちも聞けるようになることが「主と同じ姿」なのかもしれないと思うのです。それは、簡単なようでいて、しかしなかなか難しいことかもしれません。

 「わたしの愛する子」とイエスさまが告げられるのは、いわゆる「親子関係」だからではなく、神の愛を信じている「わたしの子」とも聞こえます。つまり、「わたしの愛する子」という呼びかけは、イエスさまに限定されているのではなく、わたしたち個人に対して、わたしたちのいかなる状況に対しても告げられている言葉であり、しかも「人類」というグループ全体に向かって「わたしの愛する子たちよ」と言っておられるのではない。むしろ他でもない「わたし」という存在に向けて、聞いてほしいという切なる願いとともに、心を込めて渡された言葉ではないかと思うのです。

でもわたしたちは聞けないことも多い。辛い目に遭っているとき、「ほかの人は愛されているが、わたしはいらない人間なのかもしれない」と感じる。「こんなに孤独でいることを誰も知らないし、神にとってもどうでもいいのかもしれない」と思う。そんなふうに否定的になってしまうのは、再び自分にガッカリするのも怖いし、神を信頼することはとても勇気のいることだからです。負いたくない十字架、人々からの愛のない言葉、親しい人々の無理解の中で生きなければならないとき、「神さまは、本当にわたしを愛されているのだろうか」と、神への信頼はぐらぐらします。

 でもわたしたちは、「神さまの心にかなって」造られました。目に見えない神さまは、わたしたちを、目に見えるいのちとして造り、それぞれ個性溢れる人間として創られました。自分で自分の「個性」が気に入らないときもあります。でもそれは神さまの目には尊いもの。「自分がなんとかしなければ」と力んでいるときには感じにくいですが溢れるばかりの愛と慈しみ、そして必要な勇気が与えられていくと、心の底から信頼するとき、わたしたちは主と同じ姿に変えられていくのではないでしょうか。
 

「人」を変える変革

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.8

マタイによる福音書5:13-20

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)

今日は、なかなかキケンとも思える、この聖句に注目したいと思います。なぜならわたしたちが持つイエスさまのイメージは、「人から評価を得ることは期待せず、ひたすら善い行いをしなさい。人に知られなくてもいい、神さまはわかっていてくださる」というのが定番だからです。しかもこの聖書箇所は、「ひっそりとではなく、見えるように頑張りなさい」とも聞こえるフレーズ。こういう態度は、他人の評価を気にするファリサイ派の人々と同じではないか、果たしてイエスさまは、こんなことを本当におっしゃったのだろうか、と少し疑問に思います。

話は逸れますが、あるシェフが書いた本の話をしたいと思います。その中の一節に、コックとしての長い下積み時代、ひたすら鍋を磨く仕事を言いつけられた話が出てきます。彼がどんなに心を込めてピカピカになるまで鍋を磨いても、料理をつくる調理方は、ただ単に「洗ってあるから使える」としか思わない。もちろん感謝なんてされないし、多少手を抜いたって誰も気がつかない。そんな無味乾燥とも言える作業を「しかたがない」と自分に言い聞かせ、一定期間耐えれば終わるだろう、そんなふうに感じていたそうです。ところが、鍋を丁寧に洗い磨き続けていると、何がどうとは言葉にできないが、自身の視点が変わっていくのを感じるようになっていった。つまり、さっさと終わらせたい義務ではなく、向かい合っているのは鍋だけれども、そこには他でもない自分がいて、自分と対峙しているような感覚に入っていく。そして「鍋を磨く」ことは「(精神的に)自分を磨く」作業へと変わっていき、自らの内面が変化していくだけではなく、周りの空気や同僚たちの言動も少しずつ変化していった。いったい何が起きたのか、うまく説明はできないけれど、目の前の課題は、鍋を綺麗にすることに留まるのではなく、何百回何千回繰り返した後にならないと体験できない「変貌」がおきた。そんな話だったと思います。

鍋を洗う事とイエスさまのおっしゃる「立派な行い」を一緒くたにするのは少し気が引けますが、本当の意味で自分の声を聞こうとするとき、今まで気がつかなかった自身を発見し、それが周囲の空気を変え、周りの人々にも影響を及ぼしていく、という話なのではないかと思うのです。つまり、人にわかるような印象的なパフォーマンスの話ではなく、「これをする」と決めた覚悟の先には、それを何百回繰り返したあとでないと、到達することができない変貌が待っている、そういう話なのではないでしょうか。

今年の堅信受領者総会でわたしたちは、大切な議案を皆で討議します。考え方によっては、そんな余計なことより、もっと即効性のある具体的行動に、すぐ取り組むべきというご意見もあるでしょう。しかし、人々の前に「神さまの光を輝かせる」には、まずわたしたち自身が変わらせていただく必要があります。それは苦行と犠牲の上に成り立つ退屈な作業ではなく、神さまに信頼し、一旦「こうしよう」と決めたことに、心から取り組む旅路です。それは「あと何回成功したら次のステージへ行ける」というゲーム感覚ではなく、「まずあの人が変わらなければ」という手法でもなく、神さまの時間の中でしか進まない変化です。ノウハウは通用せず、わたしたち自身が「神さまの光を輝かす」媒体として、さらに成熟へ向かう信仰生活への旅路を、一緒に歩み出すことを意味します。基礎は「神さまへの信頼」です。わたしたちはお互いを支え合いながら、神さまへの信頼を深めていきましょう。

 

「幸い」なのはだれでしょう

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.1

マタイによる福音書5:1-12


今日の福音書を読んで、「やがて慰められるのだから、今悲しむ人々は幸せなんだ」と言われても、正直なところ納得はできない。あとで慰められるのならば、なぜ待たせるのか、今すぐに実行していただきたい、と思うのが常です。そして自分のことではなく、悲しみの渦中にある他者に対して、悲しくはなく困ってもいない人が、気休め的に「今はわからないかもしれないが、悲しさの中には幸いもあるのだから、あなたはそこに留まるべき」などと言うなら、それはもうのろいに近いかもしれません。

しかし上記の会話は、なかなか笑えないところがあって、差別を増長したり、支配/被支配の関係を固定化したり、あるいは束縛からの解放を諦めさせるために、この箇所を乱用していた時代もありました。

かつてはもっと酷いかたちで横行していた人種差別や性差別もそうですが、現代でも、倒れそうになりながらも家族の介護を押し付けられていたり、「ご奉仕」の名の下に、教会の中での役割分担も偏ったまま。そんなことが起きる根底には、この聖書の読み間違いもあるのかもしれません。自分の置かれた実情を変えられない苦しみは、精神的肉体的に疲弊するというだけではなく、「あなたはそういう仕打ちに、ふさわしい人間なのだ」というメッセージが本人を傷つけている場合もあります。

旧約聖書の世界では一般的に、律法を守れる人が幸せ、守れない人は不幸せという概念がありました。本人の努力ではどうにもならない貧困や家族関係、障害や怪我、病気も「不幸」の烙印でした。ところがそんな常識を、イエスさまはひっくり返します。貧しさを知っている人、どうにもならない悲しみを抱えている人こそが、神のいつくしみの中にあると。

いったい何を根拠に?とは問いたくなりますが、理屈ではないのでしょう。人々の暮らしの中にある貧困も悲しみも、イエスさまはよく理解され、わたしたちもその状態に追い込まれないうちは、知ることのできない真理が何かそこにあるのかもしれない、そんなふうにも思います。悲しみに遭い、苦しみが去らないことは嫌ですが、そこから脱却できない自分を責めるのはやめ、必要以上に恐れずに、進むよう促してくださっているのではないでしょうか。

「人」として生きる

管理牧師ロイス上田亜樹
2026.1.25

マタイによる福音書4:12-23

「大きくなったら、何になりたい?」こどもの頃、よく大人たち(親戚なども含め)から聞かれた質問です。しかしそれは、一人の女の子の将来を一緒に夢見ようという申し出ではなく、「お嫁さんになりたい」が望まれる正解でした。それ以外の職業(?)を口にすると、「もう少し大きくなったらわかるよ」などと諭される。お嫁さんから生まれた女子は、お嫁さん以外の職業選択の余地はない、という閉塞感が苦手でした。ましてやイエスさまの時代のこどもたちは、女の子も男の子も何かを選ぶ自由はなく、好きじゃなくても疑問があっても、生き方は決まっていた。もし自分が、その時代に生まれていたらと想像すると、絶望的な気分になったことを覚えています。

 

 今日の福音書に登場するペテロとアンデレ、そしてヤコブやヨハネが、「すぐに網を捨てて(イエスさまに)従った」のは、信仰深かったからかもしれませんが、長い間抱えていた「自分の人生これでいいのか」という問いがまずベースにあり、そしてついにイエスさま本人と対面したことで、社会の常識と保護を手放す決心がついたのではないか、そのようにも思います。

 

ところで問題は、「人間をとる漁師にしよう」(19節)というイエスさまの言葉です。読み方によっては、魚を捕まえて食べる目的と同様に自分の腹を満たすために、あるいは商品として利用するために人間を捕獲する、という話に聞こえてしまいます。しかし、この原文を見ると、マタイでは「あなたを人間の漁師にしよう」という言葉が使われ、またルカの並行箇所(同様の内容の別の福音書)では、「生どりにする」という言葉が使われています。漁師は漁師でも、消耗品としての労働力なのではなく、「人」として生きることへの招きの言葉であり、「人」を利用するのではなく、「生」かせるために働いてほしい、それがイエスさまの本意なのではないかと思うのです。重い肉体労働を伴い、人々の暮らしには欠かせない魚を供給する仕事であるにもかかわらず、社会的にはそれほど尊敬もされず、やがて労働ができなくなれば使い捨てのコマとして忘れられる、そうなる人生と諦めていた彼らに対し、神はそのようなことを望んでおられない、「あなたはかけがえのないひとりの人。人生を諦めないでほしい」そんな神さまの望みを受け取った彼らであったのではないかと思うのです。

 

またイエスさまは、まるでバプテスマのヨハネのように、「悔い改めよ、天国は近づいた」と伝えはじめました。人々の目に善いことを行うと天国が近づくのではなく、イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、全ての人に、特に「自分は恵みから漏れている」と感じてきた人々に、「他ならぬあなたのために、すでに神が準備をされている」と、自分のこととして聞いてほしい、それがイエスさまの宣教の始まりでした。イエスさまを通じて、必死に伝えようとされた神の声は、わたしたちにも聞こえますでしょうか。

「ゆるし」の認識

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.18

ヨハネによる福音書1:29-41

先週も「バプテスマのヨハネ」が登場しましたので、顕現節に入り2度目の登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようですが、ヨハネがイエスさまのことを、二度も「神の子羊」「私は知らなかった」とくりかえしていることなど、そう簡単には理解しにくい箇所かもしれません。

 「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が何か罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊を「いけにえ」として捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という慣習は、現代のわたしたちにはとうてい理解し難いものでしょう。

 しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でした。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。

なぜ洗礼なのか

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.13


マタイによる福音書3:13-17

イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者に対して、日頃から「辛口」な意見をおっしゃっていた印象があります。ことに律法で定められた、さまざまな掟「安息日に作業をしてはならない」「異邦人と会話をしてはならない」など〜を重要視するよりは、神が大切にされる事とは何か、それを優先された気がします。ところが、本日の福音書にもあるように、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられました。洗礼を受けたか、受けていないかという「かたち」には、とらわれそうもないイエスさまですが、その真意は、何だったのでしょうか。

 

ひとつの目的は、神と人との関係を公にする制度としての「洗礼」の認知だったかもしれないと思います。この時代、洗礼という儀式は、ユダヤ教の専売特許ではありませんでしたし、いろいろな宗教または地域で、大なり小なり「洗礼ムーブメント」があったようです。また、イエスさまご自身は、誰かに洗礼をほどこしたことはありませんでしたが、復活したのちに会ったお弟子たちに対し、「すべての人に〜洗礼を授けなさい」と告げ(世界中に)派遣しています。

 

洗礼の中心的メッセージは、「罪から浄められる」ことが洗礼の目的であった時代もありましたが、現在は「神の家族の一人になる」ことが強調されます。これは、「罪」そのものが軽視されるようになったからではなく、「罪」の定義が変わってきたことと関係していると思います。犯罪行為や権威への反逆など、かつて教会がその定義をしていましたが、現在は、神の被造物(自分も含め)を傷つけること歪めること、また、不自然な我慢を重ねることや、見当違いの目標へ向かうことなども「罪」(的外れ)という理解の範疇になりました。そういう意味では、罪なのか/罪ではないのか、万人が受け入れやすい事柄と、「神と自分にしかわからない」罪の存在が共存することとなりました。

 

それにしてもイエスさまが洗礼を受けられたのはなぜでしょうか。「わたしたちの模範として」ということもあるのでしょうが、ご自身の受洗によって、神と繋がろうとする人々を支え、「神の家族」としてのかたちを共有しようとされたのかもしれないと思います。洗礼を受ければ完璧な人生が待っているわけではなく、急に都合のいい毎日に変わるわけではありません。目的はとてもシンプル。わたしたちに対して、「私の愛する子」と呼びかけ続ける神の声を、一生聞こうと努力する、そんな約束を交わすことではないでしょうか。 

「神の家族」ということ

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2026.1.4

 暦の上では、今日は3つの福音書から1つを選ぶようになっています。それでも特祷ははっきりと「聖なる家族」という言葉でまとめています。読み方にもよりますが、「ナザレで生活されたイエスさまのご家族にならい、わたしたちも神のもとに連なる兄弟姉妹として教会生活を送ろう」とも聞こえます。でもわたしたちが真似をしたいような、憧れの理想的家庭生活を、イエスさまたちは送られていたのか、というとそれは疑問に思います。

 臨月の妊婦マリアと、一緒に住んだこともないヨセフの家族生活は、まず山や谷を越え100キロ以上に及ぶ旅から始まりました。いざ出産の時が来ても泊まる場所は用意できず、生まれ落ちたのは糞塗れの家畜小屋。助けを求められる人もいない土地で、わざわざ訪ねてきてくれたのは文化も風習も異なる外国人(3名)、そして当時は真っ当な職業とはみなされにくい羊飼い。さらには、王による男乳児殺害命令が下り、急ぎ親子三人は国外へ逃亡。そんないつまで続くのかわからない避難生活が、彼らの「家庭」の始まりでした。

 しかし困難は外からだけとは限りません。いきなり始まったマリアとヨセフの同居生活には、何処から来たのかわからない新生児が最初からいました。また、故郷に戻ったところで、地元民による中傷や陰口もあったことでしょう。マリアとヨセフが一人の人間として出会い、互いの違いを受け入れて家族となっていくその前に、とにかく生き延びていかねばならない現実が目の前にあり、そこには1ミリの綺麗事もなかったのではないかと思うのです。

 この寒い冬を迎えて、諸外国でもそして国内でも、命の危険に晒されている人々がたくさんいることを覚えて祈ります、イエスさま、あなたは生まれたその瞬間から、居場所のないつらさ、雨や風に晒される苦しみ、飢えや乾きによる命の危険の現実へと投げ込まれました。命を守るため、生きるために必死でたたかう人々の痛みを、あなたはよくご存じです。あなたは彼らのまっただ中におられ、その人々を家族と呼ばれます。あなたの家族のひとりに加えていただくために、わたしたちの理解の足りなさに目を開かせてください。またそれらを受け入れる勇気とちからを、どうぞお与えください。わたしたちの全てを受け入れてくださる神の名によって、アーメン

ことばは、わたしたちの間に宿った

管理牧師 ロイス上田亜樹子
25.12.28

ヨハネによる福音書1:1-18


 神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんが)手でつかむこともできず、音としてその声を聞くこともない。風や香りでもない、いかなる「かたち」にもなり得ないので、どこかに閉じ込めておくことができない。それが、神という存在ですが、ではどうやってわたしたちは「神がいる」と信じることができるのでしょうか。

 確かにおられる、という証拠を示すために、あるいはそのことを信じるために、すがる「しるし」や「物」を求めがちです。それを知っているわるい人々は、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、ニセモノの「しるし」を売りつけてきたりします。でもそれは、物品だけではなく、「これさえやっておけば、本心がどうであろうと、神は確保できる」という囁きも同様でしょう。

 本当は、自分で偽物か本物かを見わけられれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。あれこれと道に迷ってきた歴史ばっかりです。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)を送り、助けてくださいました(旧約聖書の物語による)が、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐに神の慈しみも忘れ、再び道に迷う生き方を繰り返してきました。

 そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる存在に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に示しました。

 「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂に真実は告げられた。それは理屈や律法ではなく、人はどのように生きるべきかが示され、その指針は希望の光として、すべての人々に告げられた。「イエス」と名前の付くその存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感謝しながら、わたしたちにそのことを伝えようとしています。

神は我々とともにおられます

管理司祭 司祭ロイス上田亜樹子
25.12.21

マタイによる福音書1:18-25


クリスマスの絵本やページェントのシナリオでは、今日読まれるマタイとルカに収められた別々のエピソードが、1つの話としてまとめて語られます。ルカ福音書はマリア、そして羊飼いの物語が中心にありますが、マタイの方は、ヨセフの物語、東方の博士たちの登場、そしてヘロデ王のねたみと嬰児殺害の話を、わたしたちに伝えています。マリアの身におきた出来事は超弩級ですが、一方のヨセフにとっても、常識をはるかに越えた出来事でした。聖書はヨセフのことを「正しい人であった」と表していますが、それは律法を守り、人から後指を刺されない生き方、というよりは、「正しいことを一生懸命行おうとする」「(神さまの)正義を行う」という意味です。ヨセフにとっては、マリアがどのような経緯で命を宿したのかは納得はできないけれど、一生懸命神さまのみ旨を求め、許嫁に裏切られた被害者としてマリアを訴えるのではなく、神の意志であることを受け入れる道を選んだ、そのようなヨセフの「召命」を引き受ける姿が著されていると言えます。

 この一連のあり得ない事柄は、「奇跡をおこすすごい神」を伝えたいのではなく、クリスマス物語全体で「この世の常識を超えた」神の存在をあらわそうとしているように思えてなりません。当時は死刑執行の対象だった「婚外子」の命を身体に宿し、でもその子を守る決断をするマリアと、生物学的には自分の子ではない息子を育て、おそらく一生「まぬけな男」として人々の視線を浴び続けることになるヨセフと、想像しただけで、当時の掟の中で一生暮らす人にとっては、到底耐え難い人生が決まった瞬断です。

 恵まれた環境で育ち教育の機会にも恵まれ、何一つ不自由なく掟を守り、優位に生きる階層ではなく、社会的評価も低く、その存在すら気がつかれることのない人々の中にこそ、神は一緒におられようとする(インマヌエル)という知らせを、福音書は繰り返し伝えようとしたのではなでしょうか。

わたしたちもまた、この社会の圧力の中で「常識」の影響を受け、一方ですがりつきたくなる時もあるでしょう。しかし神さまの計画は、そこを超えて働かれることもあります。クリスマスの本当の喜びは、神さまはあなたと共に居たいと願っている、だから、どんなときも、心配しないで恐れないで前に進みましょう、という呼びかけなのではないでしょうか。

クリスマスを迎える道

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.12.14

マタイによる福音書11:2-11

クリスマスの前の暦「アドヴェント」では毎年、「洗礼者ヨハネ」に関する福音書を 2 週続けて読みます。これは、ヨハネの生涯を想い起こすことで「あなた自身は道を備えていますか」と、神さまから聞かれているのではないでしょうか。その人生を改めて振り返ってみると、それは「安心」や「成功」とは異次元のものでした。父親ザカリアは神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその職を継ぐことはなく家族さえ捨て、荒野で人々に悔い改めを呼びかける運動に身を投じます。不妊の女と嘲られ耐えた末に待望の息子を産んた
母親エリサトは、その息子か獄中て暗殺されたことを知らされます。

 本人のヨハネにしても、権力者には苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。それは、イエスさまのために「道を備える」役割と納得はしていても、その厳しさは並大抵ではなかっ たことでしょう。自分の使命を信じるから、何もかも捨てて神の国について語り「道を備え る」役割を果たしてきたはずですが、神の国の兆しさえ見えない中での逮捕と投獄、そし て死を迎えるとき、自分は何か思い違いをしてきたのではないか、単なる自分の思い込 みだったのではないかと。ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆 け抜け、そして彼は思わずイエスさまに聞いてしまったのではないかと思います。

 そこで自分の弟子を送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。 「そうだ、あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」という答えを期待していたのか もしれません。でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重 い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧し い人は福音を告げ知らされる。」と返事します。なんだか肩透かしのようですが、ヨハネの 人生の意味について答えたのではなく、イエスさまの語られる言葉によって人々の間に 起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上 に実現されつつある、それがイエスさまの答えでした。

 当時の常識では、身体の不具合 は神から見放され、祝福がないからであり、「死者」が社会復帰するはずはなく、貧しい 人困難に遭う人は、神から愛される資格がない人、と考えられていました。でもそうでは なかったことが明らかになっていきます。不衛生で家畜の糞尿にまみれた小屋で生まれ たイエスさまは、偉大な神をあらわすものではなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と徹底 してともに居ようとする神の象徴です。また、そのことを伝える一端を担っていたヨハネも また、一度も神の計画を疑わなかったわけではなく、不安や悲しみも存在しなかったわけ ではない。そんな神に従ったヨハネやその他たくさんの人々の足跡や涙、痛みや苦しみ を踏みつつ、わたしたちもクリスマスを迎えようとしています。

自分自身に立ち帰れ

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.12.7


マタイによる福音書3:1-12

聖書には、複数のヨハネが登場しますが、その中でも異彩を放っているのが、今日の福音書に登場する「洗礼者ヨハネ」。イエスさまほどではないですが、やはり不思議な出生で、母親は年老いた女性、イエスの母マリアの親戚筋だった、と聖書は伝えます。どういう関係であったのか、詳しくは書かれていませんが、このヨハネもまた、順風満帆の恵まれた生涯ではなかったようです。父親は神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその仕事を継ぐことはなく、成人すると家を出て、荒野で人々に悔い改めを呼びかける運動に身を投じます。ラクダの毛皮を他の動物の皮で身体にくくりつけ、イナゴと野蜜を食べて「悔い改めよ」と叫んで回る。当時の権力者に対しては苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。そして最後は宴会の余興の流れで首を落とされ、その生涯を終える。イエスさまのために「道を備える」という役割だったとしても、かなり厳しく孤独な人生という印象はぬぐえません。

 

それにしても、ヨハネが説く「悔い改め」とはなんだったのでしょうか。聖餐式の中に「懺悔」という部分があるので、信徒にとっては違和感がなく、特段に「悔い改めリスト」が浮かばなくても、「とりあえず悔い改めておこう」ということで解決するのかもしれませんが、私はこどもの頃、「悔い改めなければならないことなど、特に思い浮かばない。この時間は何をしていればいいのか」などと、牧師に詰め寄ったことがありました。(冷汗)

 

それはそれで課題満載ですが、一方、他の聖書の訳を見てみると、「悔い改め」という言葉には、なかなかの幅があることがわかります。「あなた自身を考え直せ」「実際の自分を無視せず、神に立ち返らせよ」「底辺からの見直しをせよ」と。こんなふうに言われたら、罪のないヨハネが、わたしたちを見下ろし「悔い改めよ」と叫んでいるのではなく、神があなたを造られた「愛するこども」としてのあなたを取り戻せ、と叫んでいる場面に変わってくるように思います。それは、心の奥深くに潜む叫びや痛みも含めた様々な苦しみを、神の慈しみのまなざしの中でなら、正面から対峙する勇気が与えられる、ということかもしれません。今置かれている状況が、自分を不自由にしていると感じているが、実は不自由にしているのは自分自身だったりする現実。イエスさまをお迎えするこの準備の季節は、まずご自身との対峙から始めるよう、ヨハネは薦めているのかもしれません。

ほんとうの準備

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.30


マタイによる福音書24:37-44

教会の暦の新しい一年が今日から始まりました。日本のお正月では、無事に新年を迎えた喜びが中心で、まずお祝いからのスタートですが、ユダヤ教の影響も受けているキリスト教では少し違います。クリスマス前の4週間(アドヴェント)は、1年で夜の時間が最も長く暗い季節。日が暮れてから元気になる人もいますが、夜明けは遅く、午後もすぐ夕闇が迫る、朝方人間にとっては辛い季節です。でもそれは、あたりが燦々と輝き、いろいろなものが目に入ってくる昼間には気がつかなかったことが、闇に包まれると見えてくる、という側面があるのかもしれません。

 

心につき刺さるような人の言葉、歪んだ社会の構造、といった自分の外側の世界目を向けることに加え、自身の陰に潜む弱さや不完全さについて、心に留めるよう促される季節なのかもしれません。「弱さ不完全さは克服しなければならない」「人に見せてはならない」という圧力が強い社会に住んでいると、辛いことや面倒なことを跳ね返せる自分、克服した成功物語だけを話題にしがち。あたかも自分は、その成功物語の中で一生生きられるような錯覚に陥ります。もっとも、人生が順調に進んでいる時は、弱さは克服された、もうはや気にしないで大丈夫、と考えることができますが、逆境に襲われると、途端に状況が変わります。去ったはずの弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされ、身動きができなくなります。

 

今日の福音書の「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という言葉の意味は、二人のうち一人しか命が助からない、あなたはどちらに入れるか、という話ではない気がします。一人分の「わたし」という存在なのにもかかわらず、二人分以上の成功物語と重荷を背負いつつ、現実についてはあまり深く考えずに進むしかないという思い込みから解放されよ、というおすすめなのではないかと思うのです。それは、自分の限界を「あきらめて受け入れる」ということではなく、「ひとり分である自分」を認めることへのおすすめであり、それを受けとめることができたとき、憐れみや同情ではなく、周りで戦い傷つき苦しんでいる、多くの人々の存在が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。

 

権力や経済力や地位で身を守るのではなく、まったく無防備な新生児として、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備のひとつではないでしょうか。思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を、プレゼントとして受けとることではないでしょうか。

どうか一緒に居てください

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.23

ルカによる福音書25:35-43

今日の福音書は、地上におけるイエスさまの最後の「居場所」、十字架での話です。そこには、十字架刑によって処刑され、まもなく命を失う3人の人々と、自分の命は危機に瀕していないと思っている人々とが、対比されて描かれます。

 

十字架刑を見物に来た民衆や議員たち、そして執行人である兵士たちは、揃いも揃って「人を救うと自称するイエスよ、ならば自分を救ってみろ」と、嘲笑います。言葉や行為による暴力をふるっても、仕返しされることはないと確信しているこの人々は、十字架上の3人には人としての尊厳は必要ないと思っているだけではなく、そういう言葉が口から出てくる自身に対しての尊厳も失っています。さらにおそろしいことには、命を与え、また命を取り去る神は、この人々の心の中には不在です。

 

 十字架にかかっている犯罪人のひとりの口からも、「神不在」の発言が続きます。極限に置かれているこの人の気持ちを考えると、極めて人間的な行動なのかもしれませんが、死を免れるためなら何でも利用しよう、としか考えていません。神がおられるかどうか、それはどうでもいいし、イエスがメシアだと信じているわけでもないようです。ダメもとで「救ってみろ」と罵ります。

 

 十字架にかかっているもうひとりの犯罪人は、驚いたことに「この人(イエス)は何も悪いことをしていない」と発言します。これは、ローマ総督の判断も、ユダヤ人議員による裁判も、そして民衆をも、はっきりと敵に回す発言です。しかもこの人は、自分がこれから失う地上の命を奪還しようとはせず、イエスさまのことを(亡くなった後に)「み国」に行く方だと信じて、ただ自分のことを覚えていてくだされば十分ですと告げます。この人は、いったいどんな過酷な人生を過ごしてきた人なのでしょう。そして、どうして人生の最後の瞬間に、こんな人の魂にとって極めて本質的なことに留まることができるのでしょう。しかし、予想に反してイエスさまの口からは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」という言葉がこの人に対して言われます。

 

 教会の暦の最後の日曜日、来週から「新年」が始まる時に、この物語はわたしたちに「救い」の本質を告げます。身体の安全が保証されることが「救い」ではなく、辛さ哀しさが取り去られることも「救い」ではない。またわたしたちの思うように人生が進むことも「救い」ではない。

 

「救い」とは、イエスさまと一緒にいること。わたしたちの生活の中心に、心のど真ん中にイエスさまをお迎えし、「どうかご一緒にいてください」と、本気で願うこと。イエスさまがおられる「み国」は、死んでから行くところではなく、生きているわたしたちの心のど真ん中にお迎えする「み国」なのではないでしょうか。

心をイエスさまに向ける

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.16

ルカによる福音書21:5-19

 考えも想像もしなかった事件や災害を思い浮かべると、考えるだけで怖くなります。それは、自分の身を守るという観点からだけではなく、大切な人々のいのちが危険にさらされ、それをどうしてあげることもできないという状況です。自らの非力に呆然とし、ただ次の展開を待つ、それはとても辛い状況でしょう。

 今日の福音書を読むと、絶対に変わることはないと信じてきた神殿が跡形もなく崩れ、信頼に足りると思ってきた人がいなくなり、安定や平穏といった、わたしたちがぜひ今欲しいと思っている環境が、あれだけ変わることがないと思っていたのに、どこかへ消えてしまう、そんな背景が描かれています。しかしそれは、国や民族間だけのことではなく、信頼してきた家族や友人からも、嘘や裏切りを聞き、どうしたらいいのか途方に暮れる状態。そんなときに限ってイエスさまの名を語り、「こうすれば大丈夫」といった怪しい人々も出現。そんな状況が目に浮かびます。

 この聖書がまとめられた時代は、イエスさまが亡くなって数十年、すでにキリスト教徒に対する迫害が始まっていました。いつまで続くともわからない国家を挙げての逮捕や厳罰政策に対して、なんの解決策もなかった人々の気持ちと置かれた立場は、どんなにか辛かったことでしょう。

わたしたちが住む国では今、戦乱や政府による直接の殺戮はないものの、もう止めようのない世の中の動きに押し流されるようにして、さまざまな事柄が変わっていくのを、辛い気持ちで眺めることはあります。中には、変わるべきことも必要かもしれませんが、一方で「失ってはならない、変えてはならない」と心の中で叫んでいてもどうすることもできないまま立ちすくむことがあります。ではそんなとき、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか。

 1つは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」とのイエスさまの約束を、真に受けることです。それは、「それが本当なら信じてみよう」といった条件付きの「信じる」ではなく、自分の力だけで窮地を何とかしようとするわたしたちの頑固さから解放されよ、という福音です。それは、騙されても誤解されても失敗しても、イエスさまだけはわかっていてくださる、必ず必要な言葉と知恵を与えてくださるという信頼。保証を求めるのではなく、純粋に心をイエスさまに向けること。それは難しくそして単純なことなのでしょう。

闇の存在

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.9

ルカによる福音書 20:27, 34-38

 今月の終わりにはもう「アドベント」(クリスマスを待つ4週間の季節)が始まります。アドベントは、教会の暦では新しい一年の始まりですが、その直前の11月(つまり一年間の終わり)は、さまざまな意味でいのちと死を考える季節にもなっています。「死んだあと自分はどうなるのか」「残された家族は」そんな疑問は、普段はあまり意識していないかもしれませんが実際は、常にわたしたちの心の中にあるのではないでしょうか。

 

 古代ピラミッドの壁画にも、亡くなったあとに自分はどのように振る舞ったらよいのか「死後の自分のトリセツ」が描かれているということです。

 

あの世から戻った人の話は聞いたことがないので、死後の世界の恐怖や不安、心配や悲しみといったイメージに圧倒されてしまうことも、時にはあるかもしれません。そしてその力に押し潰されないために、たとえば「死」を人生とは真反対の存在として切り離し、考えないようにしたりもします。急ばしのぎには功を奏するかもしれませんが、一方長く続くと、いのちの輝きやかけがえの無さを、そしてその素晴らしさを、感じるのが難しくなるように思います。

 

 イエスさまの時代の「死」の理解とわたしたちのそれとは、同じではないかもしれませんが、当時の人々も、たくさんの家族の死や親しい友人の死に時には二度と立ち上がれないような喪失感を味わっていたことでしょう。本日の聖書では、サドカイ派と呼ばれる人々からの質問にイエスさまが答えるかたちで話が始まっています。死後も現在のような社会制度が続くのか否かという質問は、一見「死後」の世界の話をしているようですが、しかし主目的はイエスさまとの問答ですから、内容はなんでも良かったのかもしれません。彼らの問いに答えつつも、イエスさまの心の中は、心の闇に支配され、心配や悲しみに圧倒されている人々のことが、頭から離れなかったに違いないのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きているから。」と言われる言葉の真意は、「心配しないで生きなさい。どこにいても、何をしていても、あなたを見守り支え、一緒に最後まで歩き通しますよ」という約束を、すべての人々に、そして漏れなくあなたに対して、伝えてくださっているのではないでしょうか。

「救い」の断片

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.11.2


ルカによる福音書19:1-10

「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使う言葉かもしれませんが、ではどういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。今日はザアカイという人の話からそのことを考えてみたいと思います。この物語は、「救われた」本質を語るものであり、わたしたちもまた、実は「小さなザアカイ」が存在するのではないか、そんな気持ちになる話です。

 ザーカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしをしていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面は職を失う心配のない、ローマ帝国のために「税金を集める」職業です。

 しかしザーカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。それは同胞であるにもかかわらず、人々の暮らしを圧迫する「ローマ帝国側の人間」という烙印を押されていたからです。生活は安定し、仕事を失う不安もないけれど、他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいました。

 ところがザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけます。胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人か見てみようと思ったザアカイが、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイの名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。

 ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでした。自分と口を聞き、泊まりに行き、おそらくご飯まで一緒に食べるようになるなんて、信じられない思いだったのです。

 ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、気がついたらスルスルと桑の木を降り、イエスさまとお話ししていました。その一連の出来事を通じてザアカイが知ったことは、「こんな生活をしている自分も、愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、イエスさまとの出逢いにより、自分もまた神さまから愛され、神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。

自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。ザアカイもまた、自分の周りに生きる人々も、神さまが愛されている大切な人であることを認識して行きます。

祈りはすべてを語る

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.26

ルカによる福音書18: 9-14

 今日の福音書は、「ファリサイ派の人」と「徴税人」の祈りを比較するような構成ですが、「勧善懲悪」の話というよりは、神の前に立つ際、得点を稼ぐように神に喜んでもらおうとすると、神の恵みに気がつかなくなり、何が大切なのかも見失う、そういう話ではないかと思うのです。

イエスさまの時代は、律法を守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「戒律を守る立派な人」として一目置かれていました。ところが中には、「不正や略奪や不倫もせず、収入の十分の一を献金することができる、断食も規定通り実行できる環境が与えられている」ことへの感謝ではなく、「それを実行できない」徴税人のような者ではないことを感謝するという人々がいて、イエスさまはわざわざそういう人々に向けて、この話をしています。つまり神の助けにより、目指す信仰生活が保たれていることを感謝するのではなく、戒律を守ることのできない人々より自分が「上」であるから感謝する、そんな祈りになってしまっています。他人を見下すのはおやめなさいという話ではなく、立派に見える人たちの生き方や祈りの内容が実は立派ではないことを、たとえでお話しくだ去ったのだと思います。

 人を見下して成り立つこのような祈りを聞くと、さすがに自分はこんなひどいお祈りはしない、と思うかもしれません。でもこの人たちにも、素のままでは祈れない思いがあったのかもしれないと思うのです。このままの自分では神さまに喜んでいただけない、何もかも中途半端なままで恐れ多くて神さまの前になど立てない。でも「徴税人より上な私に気がつけば」神は振り向いてくださる、と思いたい心理。つまり何もできない/しない自分は駄目だという決めつけがあるため、掟の実行実績を神さまに「思い出させる」、この人の一番大きなズレは、そこにあったのかもしれないと思います。

徴税人の祈りは言い訳も説明もありません。「見当はずれな生き方の中にいる自分です、でもあなたは愛してくださいます」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、この人の生活が苦渋に満ちていたからではなく、神は、自分を底上げしなくても聞いてくださるという信頼が、根本にあったから、そういう祈りだったから、かもしれません。

祈ることの意味

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.19

ルカによる福音書18:1-8a

 今日の福音書に登場する「不正な裁判官」のような人は、現在でも決して珍しくないでしょう。裁判官は不正なことをする人たちだという意味ではなく、自分の役割であっても、一旦相手を見下すと、あれこれ理屈をつけて相手にしない、そんなどんな職種にもいる人間の話です。この裁判官に象徴される存在が、イエスさまの時代の誰を指していたのか、様々な想像ができますが、いずれにせよ、当時の地位という意味では、最下位の一つに相当する「やもめ」が直訴することは、そもそも無理な設定です。女性は、裁判を起こす権利はなく、財産を相続することもできませんでしたから、当時にしてみれば、残念ながら当たり前の対応だったのでしょう。

 

 しかしこの裁判官は、この女性がうるさく付き纏うからという理由で、裁判をしてやろうと重い腰を上げます。この人に付けられた「不正な」という形容詞は、賄賂の要求や虚偽の判決を連発するという意味ではなく、「不正義」を意味する言葉が使われています。つまりこの人の振る舞いは、人々の間では許容範囲かもしれないけれど、神さまの目には不正として映っている、そんなことを表しているのかもしれません。

 この人は、法の範囲内では間違いを犯さず、許容範囲の裁判を行ってきたのでしょう。しかし、飢餓に苦しむ家族と、十分に食事を摂れる家族に、同じ量の食料を配布することが「公平」ではないように、社会的な地位のある人と羊飼いのように、力関係が明らかに異なる人々を、同じように処遇することが「公平」とは言えないように、神さまにとっての正義と公平は何か、という視点を持たないこの裁判官が、しぶしぶやもめの裁判を実行したことにより、この人は自分の欠落(常識の範囲内におれば後は何をしても構わないという生き方)に気づいていったのかもしれないと思います。

 

 イエスさまはお弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈る」ように言われましたが、「たくさん立派に祈りなさい」とは言っていません。つまり祈るとは、わたしたちにとっても自分に都合の良い結末を出す目的ではなく、祈り続けた努力に見合うご褒美を期待するものでもなく、どういう状況にあっても、神さまは必ずなんとかしてくださるという信頼から離れないように生きる、そんな自分にしてください、それが真の祈りの内容かもしれません。

神を「賛美」する

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.12

ルカによる福音書17:11-19

 当時「重い皮膚病」を患うとは、一生消すことのできない烙印を押され、患っていない人々にわかるように、万人に示す責任まで負わされることでした。感染を人々の間に広げることや、うっかり人が近寄るのを避けるため、街を通るときはずっと「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ぶ義務がありました。疾病を負うだけでも大変なのに、人としての尊厳を削がれているのは罪の結果だと、人々が恐ろしく思うように利用されている人々でもありました。生きるとは苦しいだけ、そんな人生だったかもしれません。

 

 このように生きてきた10人が登場します。一生治らないと思っていたでしょうから、今の苦しみが終わるときが来るとは、想像すらしていなかった。そしてイエスさまによって癒やされ、人として生きることがゆるされた人々が、躍り上がって喜びに包まれる姿が目に浮かぶようです。

 

 その10人のうち一人だけが、イエス さまのところに「神を賛美しながら戻って来た」とあります。(しかもこの人は「神を知らない」と認定されているサマリア人でした)この人はまず村に入って家族や友人に病が治ったことを告げ、喜びを分かち合っていたのかもしれません。でもハッと気づき、イエスさまに何かを告げたくて戻り、「神を賛美」した。でもそれは、病気を治すとはすごい神さまだと持ち上げることではなく、もたらされた利益(=病気を治す)を保証するよう圧力を加えることではなく、癒しの見返りとして神に従属します、といった約束でもなく、この人は「正しく」神を賛美したのだと思います。それは、イエスさまがこの人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことからの想像です。

 

 正しい神への賛美とは、自身もまた「神にとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知ること、そして受け入れることではないでしょうか。それこそが「信仰」であり、神を受け入れないと思われているこの人を救ったと言っているのではないでしょうか。厄者扱いされるのではなく、生きていることを嘆くのではなく、すでに神によって愛され大切にされているのは本当なのだと信じること。そのことこそ、神を賛美することであり、神の望みであると知ったからではないでしょうか。

「信仰」の内容

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.5

ルカによる福音書17:5-10

「わたしたちの信仰を増してください」これは、使徒たちだけではなく、教会の中で良く聞くお祈りの言葉でしょう。そして「自分は信仰が足りない」などとも言いますが、信仰そのものは、量で測れるものなのか、増えたり足りなくなったりするものなのでしょうか、そもそも「信仰」の意味を、わたしたちはどのように捉えているのでしょうか。

 少し話が飛びますが、教皇グレゴリウス1(AD 540604)と いう人が『牧会規定』いう本を著しました。これは、聖職者を目指す 人に向けて書かれたものですが、一見指南書のようなタイトルなものの、グレゴリウス自身が、「人の力ではとても実現不可能な、とんでもない事」を神が聖職者の生き方に求められていると知り、聖職按手の前日に怖くなって逃げ出したことに対する、弁解の書なのだそうです。

 興味深いのは、この文書は四角四面の綺麗事を語っているのではなく、誰しもが持つ弱さへの向き合い方、また、神に対して真に信頼するとはどういうことなのか、描かれていることです。聖職者になるための、様々な勉強や実際の経験を積むことを通して、「自己実現をしたいという欲求」や「人から認められたいと望む心」という、誰しもが持つ落とし穴が、さらに広くそして深く口を開けて待ち受けている危険に、自覚を持つよう薦めます。聖職者が、人々の魂の渇きに耳を傾けるのは、最も大切な務めの一つではありますが、もし人の思いのみを聴き、神に聴くことを失するなら、何を言ったらその人にもっとも感謝されるか、人々の賞賛を得るか、という全然別の目的へと向かってしまう、という落とし穴について語ります。

 「からし種一粒の信仰があれば十分だ」とイエスさまはおっしゃいます。わたしたち全員が聖職者というわけではありませんが、自分の中にある醜さや弱さ、怖れやゆらぎを見なかったことにするのではなく、すべてを受け止めてくださる神様に、全幅の信頼を預けることが、「信仰」の中身なのではないかと思うのです。

人を人として

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.28

ルカによる福音書 第16章19〜31節 

 イエスさまのたとえ話に登場するラザロは、果たして実在の人物だったかどうかわかりませんが、残飯にありつくことでなんとか命をつないでいる人々がというのは、当時けっして珍しくはなかったのでしょう。行くあてもなく、よその家の門の脇で雨風にさらされながら身を横たえ、全身に広がる皮膚病をどうすることもできないまま、ただ死を待つ。自分が生まれてきた理由、そして苦痛の中で生き続けなければならない理由を、神に問うたかもしれないこの人の名前は、ラザロ「神に助けられた話者」でした。

 一方「金持ち」は、そんな悲惨な状態のラザロの存在を認識しており、名前まで知っていましたが、ラザロの存在に心を痛めないまま、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。そして自分が死んでも、ラザロに対する姿勢を変えず、ラザロに使い走りをさせようとします。自分のために水を運ぶよう依頼し、それが駄目ならと身内への特別待遇を求めます。この金持ちは生きている間、感情も考えもある「人間」としてのラザロを認識できず、そして亡くなった後も何も変わらず、自分の都合のためにラザロを利用していいと思っています。

 しかしこの話は、施しを促すためのたとえ話ではないでしょう。ラザロのような人がすぐ近くにいるのに、後ろめたさを感じずに、自分の都合や欲望を最優先して生きるのは、実はかなりの無理があるのではないかと思います。この金持ちのような人は、自分の財布で欲望を満たして何が悪い、犯罪は犯していないと言いつつ、ラザロの状況は自業自得、神の罰の結果であり、自分とは無関係だと思わないと、飢えている彼らを毎日見ながら、衣装や遊びへの浪費を正当化するのは難しいでしょう。

 ひょっとしたら、もしこの金持ちが、自分の浪費癖に心を痛めながらも、ラザロを対等な人として向き合っていたなら、話の結末はちがっていたのかもしれません。アブラハムは金持ちに対して「子よ」と呼びかけています。つまりこの金持ちを切り捨てる意図はなく、彼を悲しい目で見つめつつも、何が問題だったのか、自身で悟ることを待っている呼びかけに聞こえます。難しいことかもしれませんが、神さまが大切にしている家族の一人として、すべての人々を認識し得るかどうかにかかっているのではないかと思います。

生きるのはきれいごとじゃない

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.21

ルカによる福音書16:1-13

 今日の聖書は、ごまかしても正しくないことをしても、それに警鐘を鳴らすイエスさまではなく、「いいよ、そのままで」と肯定しておられるようにも読め、何だか複雑な気持ちになります。世の政治家の収賄事件も、選挙の際の公約反故も、経歴の詐称も、それでもいいよと言われているのでしょうか。借金は踏み倒しても責めないよと言われているのでしょうか。

 

 そもそも他者にお金を借りるのは、その人との関係が壊れる覚悟が必要です。大切な友人なら、そんなことは避けようと誰しもするでしょうが、これは一般論として話されているのではなく、「金に執着するファリサイ派」の人々も聞いていた(14節)という場面展開です。聞いた彼らは、不快に思い、せせら笑いますが、「自己保身目的とは言え、不正によって仲間を作るなんてダメに決まっているじゃないか。自分はそんな馬鹿なことはしない」という心中かと思います。

 

 「富」は、土地や畑の作物、家畜や商売の収益を含みます。増し加わることで生活の安定を得て、心の安定も得ます。しかし少しでも減る兆候があるとやはり誰しも穏やかではありません。蓄えがあるのに、さらに資産を増やさないと損をしていると感じてしまう。この話の聞き手の中には「神の前に正しいことをしている自分は、そんな不正とは無縁。律法を守る限り、絶対安全な保証を得ている」と信じ、そうできない人々を見下している、という致命的な背景があるのではないかと思うのです。

 

 わたしたちは、「絶対的正しさ」に生きることは不可能です。たとえつつましい貯金をしていても、誰かの借金の利子がわずかな利息になります。投資をすれば、資金を失い路頭に迷う人がいるから、利潤を受けることができます。こういったいとなみを、罪だと決めつけるのではなく、生きて行くために、家族を守るために、あまり神には誇れない側面も合わせ持ちながら一生懸命生きているわたしたちをも受け止められるのが神であり、余分が生まれたら、それは必要としている人々に届けてほしい、というのが神の望みなのではないでしょうか。その辺りが、小さなことにも忠実であること、そして表面的にはあまり差異はなかったとしても、自分の欲という主人に仕えるのか、神さまに仕えるのか、それが問われているという話なのかもしれません。

心の中の羊

管理司祭 上田亜樹子司祭
2025.9.14

ルカによる福音書15:1~10

九十九匹の羊、そしてその群れから離れる1匹。羊飼いは「1匹くらいは仕方がない」とは言わず、九十九匹を野山に放置して、失った1匹を探しに行く。やがて迷い出た羊が発見され、生存確認がなされると、皆で喜んだ。この話は、たとえ多くの羊を野獣の襲撃や気候急変の危機にさらしても、神は小さな一匹をかけがえのないものとして心を砕き探し出そうとされる。だからわたしたちも、自分がとるに足らないちっぽけな存在であると思い知らされても、身勝手な理由で群れから離れたとしても、神は決して諦めることはない。野山を越えて必ず探し出し共にいようとしてくださる、そんなメッセージとして語られることも多い。

 このたとえ話が語られた場には、律法学者やファリサイ派の人々がいたようだ。彼らは自分たちこそ、正統的な信仰を守るために不可欠な役割を果たしていると自負していたので、群れの一員として忍耐強く伝統を守り継承している自分たちは九十九匹の側であり、群れを離れた一匹のことを「厄介者」というイメージで聞いていたかもしれない。しかし信仰のために一生懸命努力するのがわるいのではなく、律法を守ることができない人々について、想像力が欠如しているところだったのではないか。つまり「医者はいらない自分」には問題がなく、医者を必要としている問題のある人々を、たとえ言葉にはしなくても、見下していた点ではないかと思う。

 理由もないのに故意に群れを離れるのは馬鹿げているが、本当のところは(絵本のように遊びに夢中になっていた子羊が皆とはぐれてしまったという話ではなく)そうしなければ自分が保てないところまで心理的精神的に追い詰められ、それ以外の道では命を護れない、そんな場合もあるのだと思う。一匹を探すために羊飼いが群れを離れて初めて、九十九匹は自分たちの無力さを思い知り、傲慢だったことを知り、生かされていることを知る。聖書によると、迷い出た一匹は元の群れに戻ったとは書かれていない。どこかで、新たな神に仕える道を見出したのかもしれない。さてあなたは、今、どのあたりで、神を望み見ておられるだろうか。

「ゆるし」という重み

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.7

 日本語が第一言語ではないけれど、日本に長く住んでいるある友人が、こんなことを言いました。「日本では、皆があまりにも簡単に『ゆるせない!』と言うので、それを聞くとドキッとする。」それを聞いたわたしたちは、人々は「許す」と「赦す」をごっちゃにしているのかもしれないと話しました。音が同じなので難しいところですが、「許せない」という意味で使っている場合の方が多いかもしれません。「許す」ことは、ある意味具体的な行動を指す言葉であり、「許可する」か「妨げない」ことで、前に進むOKを出すようなイメージでしょうか。    
        

 聖書の語るゆるしは、「赦し」の方です。でもそれは「臭いものに蓋をする」勧めではなく、わたしたちの心の中での課題について語っているのだと思います。1つは、「赦してもらえない苦しさ」です。人を傷つけたり信頼を裏切ることになってしまったとき、それだけでも苦しいのに、相手がゆるさない決断をしたときはもっと苦しいものです。謝罪したくても拒絶されるかもしれない場合は「ごめんなさい」では軽すぎて、口にすることもはばかられます。2つ目は「人をゆるせない苦しさ」です。ゆるせないという状態は、心の痛みだけではなく、怒りや不安、そして悲しさもあり、心だけではなく身体も傷つけます。誤解を恐れずに言えば、奪い盗られた自らの力を、「ゆるさない」ことでなんとかして保管しようという欲もあるかもしれませんし、実際、赦したいけど赦せないこともあります。

 不正や不平等を「看過できない」という意味で「許さない」ことも大切ですが、どのように闘っていくのかは、大いに智慧を絞る必要があります。ことに権力をもつ相手だったり、皆にとって当たり前だったりする事柄は、本当に簡単ではないでしょう。しかし目指すゴールは、相手に思い知らせることではなく、復讐することでもなく、「あるべき姿の回復」であり、自身の心の解放です。答えは1つではなく、また時間もかかることですが、少なくともわたしたちは、「諦める」ようには言われていないのです。言い方を変えれば、相手と同じ土俵に立つのではなく、一段上から出来事を俯瞰し、神さまと相談しながら解放を探していく作業なのかもしれません。

 

招かれているのは誰

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.31

ルカによる福音書14:1, 7-14

職場などで宴席を囲むような場合、繰り返される「儀式」があります。年功序列が微妙だったり、どこが「上席」なのか、何通りかの解釈が生まれてしまうような場合、人々は際限なく「まあまあまあ」「いやいやいや」と言いながら、他者を上席と思われる位置に座らせようとするような習慣です。多くの場合は、相手を思いやってそうしているわけではなく、自分が恥をかかないための防御でもあるのでしょう。

            しかしイエスさまが、「面目をほどこすため」のノウハウを伝授なさっているとは、とても思えません。世渡り上手かどうかは、根源的ないのちとは全く関係がないからです。しかも場面設定がふるっています。他の聖書(マタイ23章)では、「偽善者」「白く塗った墓」と、ふだんからイエスさまから非難されている律法学者、ファリサイ派の議員の家からの招待です。普段の言動の割には違和感のある状況、いったいどんな顔をして、どのような振る舞いをされるのだろう、と様子をうかがっていた人々がその場にいたこともあり、イエスさまは彼らに向かって、「面目をほどこす話」をされています。

            続いて、招待側の人に対して、「こうすれば報われる」という話をされます。見返りを期待できない、社会で無視され軽視されている人々を招くことが、逆転が起きる神の国では(今すぐには結果は出ないとしても)、その際に報われるのだという話です。自分が招待され、しかもその招待を受けて食事会にやってきた人が、「どういう人を招くべきなのか」と、招待者に告げるとは、普通に考えたら非常識極まりないですが、イエスさまが本当に伝えたかったことは何だったのでしょうか。

            ひとつは、神さまとともにいようとするとき、自分の中にある「見返りを期待できない」弱さや、目を背けたい暗闇を「招待しなさい」ということではないかと思うのです。わたしたちは、うまく取り繕って生きたいし、綺麗事の方がまとまるし、また自分の長所だけの方が、神さまの前に立つには相応しいように思いがちです。でも暗闇や弱さを置き去りにしている限り、自分の短所や心の闇の力は衰えることなく、かえってあなたを支配するようになる。こういう道(生き方)を選ぶより、神さまの前に暗闇を明るみに出し、自分も勇気をもって対面すると、その結果報われる。つまり神の国があなたとともにある、ということではないかと思うのです。

            そして、自身の弱さや闇を末席へと押しやるのではなく、それらに「上席」をすすめる方がよい、つまり神さまの前で、一番目立つところに置くようにおっしゃっているのではないでしょうか。ふだん見たくない心の闇を軽視せず、神さまのみ手の中でその先どうなっていくかを委ねつつ、神さまに信頼することに徹底する、ということではないかと思うのです。でしょうか。それはつまり、闇自体が「恥」なのではなく、それらを軽視し隠そうとし、これは自分の一部ではなく本当の自分はもっとちがうはずだと思い込むことこそが、神の国では面目がないことになるのではないでしょうか。弱さや闇は、わたしたちに苦痛を与えますが、その苦痛は、神さまに招かれることを待っている苦痛なのではないでしょうか。

「狭い戸口」

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.8.24

ルカによる福音書13:22-30

 新聞やテレビにもよく登場する「狭き門」ですが、いつのまにか聖書から離れて一人歩きをし、「なかなか入学できない偏差値の高い学校」などのイメージから、人を押し退けてでも前に進む情熱や、場合によっては腕力を持った人だけが突破できる課題、といった意味で使われます。そしてどこかで「門に入れなかったその他大勢ではない」といった視線すら含まれているように感じます。「狭い門」を通過できた人は、いかなる門をも突破でき、人生の選択肢が広がる「選べる側に立つ」という誤解さえ生まれます。でも聖書の中の「狭い戸口」は、他の人と比べて云々という概念はないのです。その「戸口」は、神さまが「わたし」のためにつくってくださった特別の戸口なので、他者と競い合って獲得する必要はなく、じっと静かに通るべき人が発見するまで待っている忍耐強い戸口。「わたし」のために神さまが作ってくださった戸口なので、本人以外は「狭くて」通ることが出来ない、そういうことなのではないかと思うのです。

 多くの人は、誰でも入れて行き来しやすい、安全で気楽そうに見える戸口に殺到します。みんなが行くからきっと良い門なのだ、とりあえずここから入っておこうと思うのでしょう。しかし、広々とした門を選ぶ人々の心の根底には、自らが決断した結果ではなく、評判がいいから、みんなが行くから、常識的に考えて間違いないから、という気持ちがあるのかもしれません。

 小さなことを人任せにし、自分で判断しない癖がつくと、やがて重要な決断をしなければならない時も、つい周りを見回して「みんなはどうしているのだろう」が先立ち、(もちろん周囲の圧力もあって)気がつくと「広い戸口」の方へと流されている、というのが現実なのかもしれません。

  神さまが創った「あなた」のための戸口を探す旅は、容易ではないかもしれません。投げ出したくなる時もあるでしょう。「入れなかった」という体験談を聞くと不安にもなります。でも、わたしたちがこの世に命を受けている以上、必ず「わたしの戸口」が存在し、見つけられるのを待っている。それは「わたし」というかけがえのない存在を認知する人生の入り口でもあるでしょう。「わたしの戸口」を見つけ、そして自ら通って入る決断をすることができた時、もっとも自由で喜びと感謝に満たされた人生へと招かれるにちがいないのです。 

神の愛が燃え広がる

管理司祭 ロイス上田亜樹子  
2025.8.17

ルカによる福音書12:49-56           

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」と言われると、破壊や暴力を肯定し、人々を捻じ伏せ従わせる「神」のイメージが浮かび、イエスさまよ、結局あなたも同じか、とガッカリするかもしれません。わたしたちの身近にある「火」は、生活の便利に貢献する文明の利器であると同時に、戦乱や犠牲を生む圧倒的な破壊のイメージもあるからです。しかしこの言葉に続いてイエスさまは、ご自分の「洗礼」のことを語ります。これは、物理的な洗礼の話をしているのではなく、人として生まれて短い生涯を過ごし、最後は裏切られ捨てられ殺害される十字架の出来事のことを言っておられるのではないかと思います。(人々の間に)火を投じ、それが燃えて(広がる)ことは、時には依存で成り立っていた人間関係や、頼りにならない(例えば偶像)ものに縋りつく生き方にひび割れが生じます。すでに形骸化した慣習や、神ではなく支配者が作り出した掟が無力化することを恐れ、これまでの状況を維持したい支配者階級は、なんとかして「愛の神」のことが伝わらないよう抵抗します。イエスさまからの呼びかけに、最初は破壊と喪失への不安を感じたとしても、むしろそれは、どんな人をも見捨てない神さまの愛情なのであり、それが「火が燃えていたら」と願うイエスさまの発言の意図ではないかと思うのです。      

 

それは、体裁を整えることを目的とする、なまぬるい「安心」とはほど遠いもので、神さまの本質について語っているのでしょう。せっかく今、安定してうまくやっているのだから、それをあれこれ言われたくないという気持ちも、正直なところ、わたしたちの中にはあるのだと思います。苦しい目にはなるべく遭いたくないし、損することを避けるため、家族の中で孤立したくない、世間から後ろ指をさされたくない。でもそれを最優先させて生きていると、どんどんイエスさまの十字架から離れていく、神さまの愛からも離れていく、そんなことへの警告でもあるのでしょう。         

 

何かを失うことには誰でも恐怖を感じます。変化もまたわたしたちを不安にさせます。でも、その怖さに直面しないで済むために、パリサイ派の人々や律法学者たちは人々をコントロールし、「愛」とはかけ離れた神を提示し、人々を管理しようとした。不安や恐怖に縛られるのではなく、そこから自由になりなさい、とわたしたちを招いてくださるイエスさまです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.8.10

ルカによる福音書12:32-40

 今日の使徒書は、アベルやアブラハムを例にして、「望んでいる事柄」と「見えない事実」とを、正しく識別する必要性について語っています。自分が望む事柄は、それは他でもない神の望みから来ており、しかし容易には受け入れ難い=「見えない」事実でもあります。これは、目を瞑り思考停止し神に従っていればよい、という考え方とは対極をなすテーマで、むしろ神の望みを正しく識別しようとすることこそが信仰であると言っています。それはつまり、神の「望み」とわたしたちが正しく出会ったとき、わたしたちはさらに自由になり喜びと感謝に満たされる、ということを示しているのではないでしょうか。神の望みを主体的に知ろうと決断するまで、わたしたちを忍耐強く待つ神という姿も伝わってきます。

  兄に殺害されたアベル(創世記)は、もはやその肉体が存在していないにもかかわらず、神に対する信頼を実直にあらわしてきた彼の生き方が、人々の心に語りかけ、今もなお影響を与え続けている、と聖書は語ります。またアブラハム(出エジプト記)は一家の長として、カルデヤのウルで安定した生活を送っていましたが、行き先すら示さない神の「行きなさい」との言葉に信頼しました。外国人としての不安定な生活や、当時の権力者たちによって命さえ危うい状況も、おそらく想定していたでしょうが、彼はそれを神の望みと識別し、すべてを残して家族と共に出立します。

  彼らの物語は数千年前の「ご苦労された人々」という昔話ではなく、わたしたちにかかわっています。神が望んでいる事柄と自分のエゴとをどうやって識別するのか、そしてまだなんともかたちのない神からの招きを、どうやって神の計画と認識するのか、それは実は単純なようでいて、非常に識別の難しい問いです。どうしても最初に「損か得か」と思いがちで、また損得ではなくても「どうしたら、皆に受け入れてもらいやすいか」と考えてしまう。しかし、誰にも理解されなくても、神さまへの信頼=信仰を、心の中心に据えるという魂の決断があるなら、死んでもなお人々に影響を与え続けるという、なんとも壮大な話です。そういう意味でもわたしたちは、変化を恐れるのではなく、識別は誰かがやってくれると思う誘惑を、恐れるべきではないでしょうか。

「幸せになる」

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.3

ルカによる福音書12:13-21

人は誰でも物質的な充足だけでは「幸せ」にはなれないようです。でも、物質以外となると、「心豊か」であるとか、「ゆとり」などの言葉が浮かぶかもしれませんが、一体どうしたら、心や魂を充足させることができるのかは悩むところです。時間が出来たら楽しく没頭できると思っていた趣味も、家の片付けも、時間ができた途端にすっかりやる気が失せたという経験は、どなたにもあるかもしれません。ことに目的が「自分のため」に終始してしまうようなとき、なんであんなに楽しみにしていたのか、わけがわからなくなったりします。

 

 ある社会学者が、被験者に「どのように使っても良い」と言って、1000円相当を渡し、一定時間後に再び集合。そしてドーパミン値を測る、という実験をしたそうです。ある人は前から欲しかった本を買い、ある人は大好きなお菓子を買って家族で分けて食べ、ニコニコ顔で戻ってきました。その人々の値もそれなりに立派だったのですが、お腹を空かせたホームレスの男性に食べ物を買って渡した人、親とはぐれて泣いている子どもに寄り添った人など、「何かを必要している他人のために1000円を使い切った人」のドーパミン値が一番高かったそうです。ドーパミンの分泌=「幸せになる」とは言えないかもしれませんが、神さまは人間をそういうふうに創って下さったのかもしれないと思いました。自分の欲を満たすことより、自分の家族や親しい人々を満足させるより、むしろ見返りを受けることのない「他人」の必要を満たした時、わたしたちは根源的な「幸せ」を感じ、そこに真価を見出すのではないでしょうか。そして、それこそが「神の前に豊かになる」ことなのではないでしょうか。

 

 これは、気前の良い人になろうという薦めではなく、もっと空気を読みなさいというお招きでもなく、「私が幸せになる」ことへの真っ直ぐな回答であると思うのです。もっと幸せを感じたい時は、どんな人が周りに居てどのような必要があるのか、見回してみましょうか。

「祈り」の本質

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.7.27

ルカによる福音書11:1-13

 「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれません。でも、ここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる」神さまを信じなさい、という話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。

少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「希望しているのはこういうことだ」と腹を割って伝えるのは躊躇してしまうものではないでしょうか。つまり、何かを言葉にして相手に伝えようとする時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見込みがあると信じて、思い切って言葉を絞り出している、とも言えるでしょう。

でももし「祈る」ことについても同じようにとらえていたら、神さまを自分の希望を叶えるマスコットのように考えている可能性があります。変えていただくようなことは特にないという前提で、「わたしたちの罪(的外れ)をお赦しください」と唱え、飢えるはずはないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、受けている恵みを、むしろ「当たり前だ」と思っていることを暴露している証拠かもしれないのです。

神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたちは、神さまの考える「最善」が必ずしも見えているとは限らない。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと導かれていくのではないでしょうか。神が聞くなら祈ろう、ではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、とてもシンプルですが、だから難しい。それが祈りではないでしょうか。

マルタとマリアの「良い方」

管理司祭 ロイス上田亜樹子 
2025.7.20


ルカによる福音書 第10章38~42節

   マルタとマリア。二人の生き方を、しばしば比較されながら語られる物語です。当時の女性たちに求められていた「甲斐甲斐しく食事や快適さを提供する家事」に生きるマルタと、非生産的な態度をとるマリアとの対決!のように読んできたのかもしれません。

 マルタとマリアは姉妹で、イエスさまの友人です。この姉妹にはラザロという兄弟もいて、彼らの住む村に立ち寄る時は、イエスさま一行を自宅に招き、おもてなしをしていた様子でした。マルタはしっかり者で家事を切り盛りし、家族や親戚からも信頼されているお姉さん。この日も、イエスさまとお弟子さんたちが村に来るというので張り切って準備をしています。どんなふうにおもてなししようかとワクワクしていたかもしれません。一方、妹(聖書にはどちらが姉か妹かは書いていません)のマリアは、イエスさまが到着されると、お弟子たちと一緒に座り込み、食事の手伝いもせずに、平然と話を聞いている様子。マルタは「私だけが忙しいのは納得できない、手伝うよう言ってください」と、当時の常識をイエスさまに押し付けます。「おお、これは悪かった。マリアは女性としての役割を忘れていたね」という応答を、マルタは期待していたのかもしれませんが、イエスさまの返事は「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」でした。

 時にはこのようなマリアの行動は命懸けだったかもしれません。でもイエスさまはあっさりとその境界線を越えました。社会の風習よりも、マリアが自分で選択したことを尊重すると、イエスさまはマルタに告げます。

 わたしたちも生きている以上、社会の常識や掟に従わざるを得ないことは多いでしょう。時には常識の壁が立ちはだかり、行動や言動を制限されることもあり、またその壁を越えようとすると、越えさせまいとする大きな圧力に、押し潰されそうにもなるでしょう。でもマリアは、他の人と比較した上での「良い方」を選んだのではなく、マリアにとって「良い」と信じる道を選んだ。そのことをイエスさまは「良い」と言っておられるのではないでしょうか。わたしたちそれぞれにとって何が「良い」道なのか、見えない時もありますが、人の思いではなく、欲に駆られてでもなく、神さまと相談しながら「私の信じる良い」を選びたいものです。

日本聖公会中部教区神学生からのメッセージ

神学生 アンデレ 川島 創士
2025.7.13


早いもので本日の主日が前期の実習としては最後の主日になりました。あっという間の実習でした。もっともっと皆さんとお話しすることがあるのに残念ですが、とりあえず本日がひとまずの区切りになります。今日は今更ですが、自己紹介をしたいと思います。どんな思いで神学校に行くことになったのか、これまでの自分の歩みを簡単にお話ししてみたいと思います。

 私は長野県の岡谷市という諏訪湖のほとりの小さな田舎町で育ちました。高校生までは週5日間の水泳に明け暮れ、将来の夢を競泳の競技者かトレーナーやコーチに定め、専門学校へ入学するためにいち早く専門科目を先取りして自主勉強に必死でした。毎日の忙しい生活の中にも、ヴァイオリンという楽器に出会うことで音楽の癒しがある恵まれた生活であったと思います。

 そんな私にとって、人生の転機となり信仰の原体験とも言える出来事になったのは、高校二年生の時の祖父の死の出来事でした。献花の際に弾くヴァイオリンの練習のために何度も教会に通い、その度に信仰者として歩んだ祖父の足跡を証しのように聞きました。しかし、やはり家族との別れは心身ともに疲労困憊をもたらし、しばらく微熱が止まらなかったように思います。その時、私たち家族に救いの言葉をかけてくださり、一緒に涙を流しずっと傍にいたくれたのが、信徒の皆様でした。その時私は、家族のように祖父の死を悼む交わりが教会にはあり、その交わりに私自身が生かされている不思議をみました。どうしようもない辛さや悲しみに、向こう側から近くに来て、「大丈夫」と傍にいてくれた教会の皆さまの背後には主イエスがいてくれたのだと思います。

 ここで本日の福音書に目を留めたいと思います。エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える話です。この旅は十字架を経て天に向かう旅であると同時に、神の国を告げる旅でした。イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことでした。たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚れることを避けようとしたのでしょうか。一方で、三番目に登場したサマリア人は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱しました。

 よいサマリア人の例えは、「私の隣人とは誰か」という問いを巡る律法学者と主イエスのやりとりを軸に、必ずしも近くにいる人だけが「隣人」なのではないということ、そして、愛について言葉を無意味に費やすのではなく、まず駆け寄る、近づくことが大切だと言われます。

 「行ってあなたも同じようにしなさい」。とても印象的な言葉です。心身ともに、あるいは物理的な距離が近い隣人さえ愛せない私たちですが、その私たちに向こう側から近づいて抱きしめ、あなたのままで良いと言ってくださる主イエスがいる。葬儀の経験から以上のようなことを抱きしめ、感謝のうちに聖職への志願を自然のうちに決断したように思います。皆様の出会えたこと心から感謝申し上げます。   

礼拝は誰のために その2

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.7.6


マタイによる福音書5:6-9

今日は「ウェルカムサンデー」の第2回目、「心の平和」をテーマに礼拝をお捧げします。「平和」という単語を口にするなら、戦争や戦乱のない世界を求めて祈り、行動を起こすべき、と思われるかもしれません。「平和」が、もし個々人の心の平穏に留まることに終始してしまうなら、それは問題ですが、その一方、ご自分の心を「平和」に治めることのできない人が、政治的な「平和」に乗り出すことは、かえって「平和」を遠ざけてしまう危険があると思うのです。世界の平和を求めつつ、まずはご自身の中に平和を求める心があるのか、神さまが与えてくださる平安と共に生きようとしているか、むしろその方が先ではないかと思うのです。

 「キリスト教用語」を振り回さずに、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りますが、0歳からのこどもも一緒の礼拝では、なかなか難しいかもしれません。でも心の平和は理屈ではないし、一緒に「体験する」ということの方が、しっくりくるかもしれません。そんなことも含めて、みんなで試行錯誤すること、そしてご自身の魂にそっと手を添えて対話するという経験の積み重ねが、平和へとつながると思うのです。これは、長い信仰生活を体験する人も、今日初めて教会に来た人も、イエスさまの生き方を目指して走るスタートラインは同じです。

 礼拝のお作法を知り、礼拝に慣れていること、またスラスラとお祈りの言葉を唱えられることが、「本当に祈っている」ことでもないでしょう。カタチを踏襲するのではなく、大切なのはその中身です。なんとかして「あなたが大切」であることを伝えようとされている、神さまの働きに参与したいのです。それはたとえ一期一会であってもかまいません。「無条件に愛され」「尊重される世界観」に触れていただくこと。そして、あなたが幸せに生きることを、何より望んでおられる神さまの切実な願いに触れることが、今日の礼拝の目的です。自分のことだけではなく、今、あなたの心の中で覚えている人々、ひっそりと心配している人々のことも含めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。 

イエスさまの味方とは

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.29

ルカによる福音書9:51-62

   たくさんの人と一緒に何かに取り組むとき、相反する意見や立場、感じ方のちがいがあって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じることがあります。その一方で、目的や内容をより良いものにするより、誰と一緒にやるか、誰の味方をするか、そちらを優先する場合があるかもしれません。ケースバイケース、どちらの方法も必要なのだと思いますが、今日の福音書でのお弟子たちの言動は、どちらかというと、後者に偏っている印象を持つのは私だけでしょうか。イエスさまの言っておられる中味を理解しよう、真髄を汲み取ろう、ということではなく、「自分たちはイエスさまの味方だ」という思いに留まることで、むしろ本題から離れていく危うさを感じます。

 ご自身の身に起きる出来事にことについて、また福音の中味について、イエスさまは一生懸命語ってきましたが、お弟子たちは理解するより、自分たちが目指していることの方が大事です。それに合っているなら聞き、合わないなら聞き流します。意味が理解できなくてもイエスさまについて行こうとするお弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なので、そこに加わる意思のない人間は排除してもかまわない、と思っていることが暴露されるような言動をしてしまいます。

 ここに登場する「サマリア人」は、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになったグループです。ユダヤ人は彼らを見下していたので、付き合いを絶つのがお約束でした。そんな壁を乗り越えてサマリア人の村に寄ったのに、自分たちを歓迎しなかったからには天罰を受けて当然、と弟子たちは憤ります。また、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人もいますが、自分自身の生き方を変えない範囲で付き合いたい、何か有利なことがあるなら取り入れたい、と言っているようにも聞こえます。

こういう態度は、わたしたちにとっても無関係ではないでしょう。礼拝やイエスさまを知っている、だからそうではない人とは違う、という思いがあるなら、また、自分の生き方にとって都合のいいことを「採用」してイエスさまに従っていると思い込むなら、それは本当の意味で、「イエスさまの味方」なのかどうか怪しいものです。本物のイエスさまの味方になるには、簡単ではないけれど、自分の弱さや不完全さから逃げないで、徹底してみ言葉に生きることなのでしょう。

イエスさまを生きる

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.22


ルカによる福音書9:18-24

 お弟子さんたちと一緒に過ごした3年間という限られた期間に、イエスさまにとって様々な苦悩があったことは想像できます。一番伝えたい「愛の神」を語っても「そんな抽象的な話ではなく、さっさと支配者を失脚させてほしい」「民衆の賛同を得るには、もっとわかりやすい奇跡を」「この社会を率いるカリスマになってほしい」など、何もわかっちゃいない弟子たちです。特に今日の福音書は、「五千人の養い」の直後に位置しますから、パンと魚を分かち合った奇跡を体験して、お門違いの方角に走り出しそうな弟子たちに、立ち止まってもらいたかったのかもしれません。イエスさまが地上に来られた目的、それは権力や名声、地位ではないと頭で はわかっていても、心のどこかでは、その存在が万人に理解され、やがて一緒に行動する自分たちもまた、社会の構造や体制をひっくり返すような大改革にたずさわる者として歴史に名を残す。そうなったらいいかもしれない、と考えているような、そしてこの最初の予告を聞いても、何のことやらといったお弟子たちの反応が目に浮かぶようです。

 では、聖書からそんなお弟子たちを読み取っているわたしたちはどうでしょうか。粛々とイエスさまが命がけで伝えられた「愛の神」とともに生きるより、イエスさまのご生涯に倣うより、そして不完全ながらも地上に遣わされた尊い時間を感謝して抱き止めるより、別のことを望み見てはいないでしょうか。教会によりたくさんの人が集まり「経営」が安定すること、神さまに信頼するより自分の安心を優先すること、神さまの思いではなく、人としての欲を満たそうとすること。それは一方で、神さまがわたしたちを造られたそのままの姿ではなく、限界と弱さと不完全さを切り捨て、いわば歪んだ姿を描き、その中に自分自身を無理矢理嵌め込んで「安泰だ」と言っている姿のような不自由さを感じるのです。

 不都合なことは見たくない聞きたくないというお弟子たちの姿は、裏を返せば、わたしたちの姿でもあるのでしょう。受け入れるのがなかなか辛くて、つい後回しにしそうですが、人としての限界を認め、弱点だらけの自分を否定せず、しかし神さまの愛を心の真ん中に置いて、粛々とそれを伝え続ける人生、それが「自分の十字架を背負う」ことではないでしょうか。

わたしたちのために

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.15

ヨハネによる福音書16:5-15 
                   

 先週のトピックスであった「聖霊なる神」の次は「三位一体」。難題が続きますが、神さまは私たちを悩ませるために、わざわざむずかしい話をしているわけではないでしょう。

 聞いたことがあるかもしれませんが、「弁護者」という言葉は、「援助する人」「人のために語る者」「助け手」などの意味もあります。つまり目に見えず、音波としては耳から聞こえず、手で触ることもできないが、一緒に居てくださり、わたしたちを支えてくださり、そして必要な言葉を与えてくださる存在として、神さまが送ってくださったのが聖霊なる神であり、それは父なる神、子なる神と別人格ではないという話です。しかし、存在証明ができず、客観的な証拠も挙げにくく、手応えも感じにくい存在を、なぜ改めて「造られた」のか、疑問は残ります。   
        

 しかしイエスさまは、重要なこともおっしゃっています。ご自分が「去っていくこと」こそが、お弟子たち(そしておそらく全ての人々)のためになる。そして、ご自分が去らないと、聖霊なる神はわたしたちと共にいることができない、と。これは交換条件ではなく、わたしたち人間の性質を、神さまが見抜いておられるからこうなったのではないか。地上に降り立ち、人々と生活を共にされたイエスさまが、もし肉体を持ったまま、数千年も生きながらえて人々の間にいたら、イエスさまを自分だけの味方にしたい人や、神を「所有」したい人々の欲が今よりもっとむき出しになり、争奪戦が始まるかもしれない。また、イエスさまの言質や行動を都合よく解釈する権威や、上手く利用しようとする人々が世の中で幅を利かせ「キリスト教」は愛や慈しみを伝える共同体ではなく、イエスさまの名を利用した支配と依存の組織ということになってしまうかもしれない。そんなわたしたちの「弱さ」を知っておられる神が、最悪の事態を避けるために聖霊なる神を送ってくださったのではないか。もし「神さまなのだから、もっとうまい方法があったはず」だから信じないと言うなら、その声がわたしたちの「都合」から生まれていないことを祈るばかりです。

「まとはずれ」からの解放

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.8

ヨハネによる福音書20:19-23

私事で恐縮ですが、今年3月から「霊的同伴」について学び始めました。その訓練の一環として、毎月の霊的同伴を受けると同時に、2名以上の方々の霊的な旅路に同伴することが義務付けられています。つまり実習です。そして、その実習体験の中から1つを選び、小グループでプレゼンをして、皆さんから疑問や問題点について指摘いただくのですが、今のところ「これだ!」というような発見には出会えていません。まさに暗中模索です。ZOOMによるディスカッションの難しさに加え、言葉の壁もあります。また、文化が違う人々に、なかなか伝わらないもどかしさもあり、一体どこに聖霊なる神が働いているのか見えていない初心者です。

 

あるときのプレゼンに、Aさんのケースを選びました。これは霊的同伴というより「牧会カウンセリング」になってしまったなと感じたセッションだったからです。そして、グループのリアクションとしては「この人の抱えている課題ばかりにフォーカスし過ぎる、神はどこにいるのか」という当たり前なものでした。でも、どうしたら牧会カウンセリングではなく、「霊的同伴」へと導けるのか、それがうまくできなかったからプレゼンしたのに、正論だけ言われても、という気分でした。Aさんと共に働かれている神がおられることを信じて、Aさんのストーリーを真摯に聞けば、神さまは何をなさろうとしているのか見えてくるはず、というのが私のスタンスでしたが、神さまに聞いているつもりでも、やはりどこかで、「達成目標」や「ゴール」を勝手に設定し、Aさんの課題を明確化したつもりになって、僭越にも「今回はこれに気づけるようにしてあげよう」といった私の限界や弱さが露呈した出来事だったのです。

 

三位一体の神のうちのひとつである「聖霊なる神」の存在を受け入れよう、その働きを理解しようとする過程の中で、しばしば自分が持つ限界や弱さに直面することがあります。それは、神の存在や働きをわかったつもりになりたい自分との対決です。長い間苦心して取り組んできたことが実を結べば、自分の能力と努力の結実だと思い込み、一方、自身の価値観の中でもがき、何をやってもうまくいかないと「神さま、どういうおつもりですか」と嘆いてしまう。それはあたかも、自分が神を所有しているかのような心の動きです。天地を創られた父なる神の存在は必要だろう、2千年前に赤ん坊として生まれた子なる神も必要だったのはわかる。では、何だかピンと来ない聖霊なる神の必要性はなんなのだろうか、と。

 

イエスさまは、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。でも、それまで聖霊が離れていたわけではなく、共におられる聖霊なる神の存在を認識し、その働きに支えられて生きるよう、促して下さったということではないかと思うのです。

 

「聖霊を受けなさい」と呼びかけたイエスさまは、続けて罪を赦す「権威」の話をします。でもそれは、罪を赦す魔法の力を弟子たちに与えるという意味ではなく(「罪」という言葉には「まとはずれ」の意味があるので)、まとはずれな生き方をしているたくさんの人々の解放のため、手を貸してください、というお招きの言葉なのではないかと思うのです。つい目の前の利潤や好条件に飛びつき、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力み、どんどん自分を不幸にしてしまう「まとはずれ」から自由になれるよう、人々を支えなさいという命令であり、やがてそのお手伝いをするために弟子たちは派遣されていったのでしょう。つまり、罪からの解放は、選ばれた人だけが受ける特権ではなく、解放されて生きる生涯は、すべての人に開かれている、という宣言なのでしょう。

 

人々の間に愛が広がるためなら、なんでもしようとしてくださる神さまの意思を受け止め、思い込みと偏見を拭いつつ、聖霊の働きを邪魔しないよう生きていきたいと思います。

昇天日の意味

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.1

 ヨハネによる福音書17:20-26

 先週の木曜日は「昇天日」。それは、復活ののちにしばらくの間、お弟子たちと過ごしたイエスさまが天に帰られたことを記念する日でした。それに伴い、復活のろうそくも片付けますが、置いてあった場所が、妙に「空いている」ことを強く感じさせられます。考えてみればわたしたちも、家族や友人と一緒に過ごしたあと、その人が去ってしまうと、妙な空虚感に囚われるときがあります。これは想定内のこともあるし、あるいは「こんなはずではなかった」と思うくらい、心が折れている時もあるでしょう。

 

  イエスさまを十字架上で失い、その死を避けることができず、声を挙げることすらできなかったお弟子たちが、イエスさまが三日後に現れて、それらの苦しみから解放して下さいました。しかしそのままずっと、イエスさまにすがりついて(というか、イエスさまを縛り付けて)過ごし、やがて依存と支配の中で上下関係が作られ、自立できなくなることは、復活の目的ではなかったはずです。神さまが人々を顧みて、イエスさまという人間のかたちをとった方を送り、その口を通して神の意志を語り、人間としての生き方そのものを伝えられた。ご復活は、その生涯が「失敗」でもなければ、伝えられた内容が「虚偽」でもなかった。そのことを伝えるために、わざわざもう一度地上に降りられた、そういうことなのではないかと思います。

 

  イエスさまは丁寧にも、やがてやってくる別離の準備のため、常にわたしたちと一緒にいられるよう、聖霊なる神を送ってくださる約束をしています。それは、肉体を持たない神であり、わかりにくいし、ぴんと来ないと感じるかもしれませんが、それはわたしたちの持つ限界や不完全さと関係しているのかもしれないと思います。

 

  今日の使徒書に「占いをして、主人に多くの利益を得させる」女性が登場しますが、この存在も、人々の間に依存と支配の関係を生み出しています。そして、都合の良いことが目の前にぶら下がっていると、ついそれに飛びついてしまうわたしたちの限界をよく知り、受け止めてくださる神は、昇天日まで用意して下さって、依存でも支配でもない世界に生きよ、とわたしたちに呼びかけておられます。

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