管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.30
マタイによる福音書16:21-28
ガリラヤのさらに北方フィリポ・カイサリアの地で、弟子たちにとってイエスが「メシア」「生ける神の子」であることが明らかにされました。それを境に、イエスは弟子たちにご自身の死と復活を、「ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と予告されました。こうして都エルサレムに向かっての旅が始められました。
その旅はこれまで歩み、すなわち出会う人々を教え、いやし、小さくされた人々の祝福を示すことと変わりはありませんでしたが、弟子たちは終着点エルサレムで起こるであろうことを思い巡らしながら従ってゆくことになりました。イエスは弟子たちに「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われています。しかし、イエスが予告された受難するメシアとその復活の姿と、弟子たちが思い描いてきた、ユダヤ国家を回復し新しい秩序をもって治める王のようなメシアの姿には大きな隔たりがあり、ついにそれを受け止め受容することはできませんでした。イエスが示したキリスト、メシアの姿はそれほどに新しく、その解放の業がいかに根本的な転換をもたらすものであったかということに弟子たちが思い至るのは、復活された主イエスに再会することになってからのことでした。
イエスのエルサレムへの旅、それに従う弟子たちの心の旅は続きます。私たちのいのち・生活のあり方を問い直す旅でもありました。「人は、たとえ世界ぜんぶを味方に引き入れても(例えば富や権力や名誉や健康や安全を手にしても)自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。」「人には、(神が大切に創造してくださった)自分自身に代わる値打ちのものが、何かあるのか」と問われています。これは世の繁栄を示して「このすべてをあなたに」といったサタンの荒れ野での誘惑の言葉(マタイ4:9)を連想させる言葉でもあります。(F)


