管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.30
マタイによる福音書24:37-44
教会の暦の新しい一年が今日から始まりました。日本のお正月では、無事に新年を迎えた喜びが中心で、まずお祝いからのスタートですが、ユダヤ教の影響も受けているキリスト教では少し違います。クリスマス前の4週間(アドヴェント)は、1年で夜の時間が最も長く暗い季節。日が暮れてから元気になる人もいますが、夜明けは遅く、午後もすぐ夕闇が迫る、朝方人間にとっては辛い季節です。でもそれは、あたりが燦々と輝き、いろいろなものが目に入ってくる昼間には気がつかなかったことが、闇に包まれると見えてくる、という側面があるのかもしれません。
心につき刺さるような人の言葉、歪んだ社会の構造、といった自分の外側の世界目を向けることに加え、自身の陰に潜む弱さや不完全さについて、心に留めるよう促される季節なのかもしれません。「弱さ不完全さは克服しなければならない」「人に見せてはならない」という圧力が強い社会に住んでいると、辛いことや面倒なことを跳ね返せる自分、克服した成功物語だけを話題にしがち。あたかも自分は、その成功物語の中で一生生きられるような錯覚に陥ります。もっとも、人生が順調に進んでいる時は、弱さは克服された、もうはや気にしないで大丈夫、と考えることができますが、 “逆境”に襲われると、途端に状況が変わります。去ったはずの弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされ、身動きができなくなります。
今日の福音書の「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という言葉の意味は、二人のうち一人しか命が助からない、あなたはどちらに入れるか、という話ではない気がします。一人分の「わたし」という存在なのにもかかわらず、二人分以上の成功物語と重荷を背負いつつ、現実についてはあまり深く考えずに進むしかないという思い込みから解放されよ、というおすすめなのではないかと思うのです。それは、自分の限界を「あきらめて受け入れる」ということではなく、「ひとり分である自分」を認めることへのおすすめであり、それを受けとめることができたとき、憐れみや同情ではなく、周りで戦い傷つき苦しんでいる、多くの人々の存在が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。
権力や経済力や地位で身を守るのではなく、まったく無防備な新生児として、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備のひとつではないでしょうか。思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を、プレゼントとして受けとることではないでしょうか。


