管理司祭 下条裕章
26.4.12
ヨハネによる福音書20:19-31
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)
イエスが罪人のひとりとして裁かれ、十字架にかけられて殺されようとするとき、イエスに従っていた弟子たちは、自分たちにも害が及ぶことでになるのではと恐れ、逃げ去ってしまいした。人々の目が恐ろしく、恐怖と不安な思いにとらわれ、またこれからどう過ごしてよいかを考えることもできなかったのではなかったかと思います。彼らはなすすべもなく集まり、鍵をかけた部屋に閉じこもって過ごすことになりました。それはとても大きな喪失の体験でした。
そんな弟子たちの集りの真ん中に、扉も鍵も開かれていない部屋の中に復活されたイエスが突然立ち現れてあいさつし、声をかけたと福音書は伝えています。もちろん弟子たちはこの出来事に驚き、そして喜びました。
しかしこの再会は、喪失体験の上に、さらにイエスを捨てて逃げ去ったこと、イスカリオテのユダとさして変わらぬ裏切り行為、いくら反省しても取り返すことなどできない深い後悔の思へとつながる自らの有様を心に刻むものでもあったのではないかと思います。
イエスは、そんな彼らにこそなすべきことがある、だから遣わす、出かけてゆけと言われるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22、23)
喪失の体験、裏切りの重さと罪の深さを知ったあなたたちだからこそ、聖霊すなわち神の御力に援けられて、世の罪を除こうとされる神のみ心に感じそれを宣言することができる。そしてイエスの言葉そのものが、裏切った弟子たち、また神のみ心を受け止めきれずにいるすべての人々への赦しと癒しの宣言でもありました。(F)


