26.4.19
ルカによる福音書24:13-35
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管理司祭 下条裕章
26.4.12
ヨハネによる福音書20:19-31
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)
イエスが罪人のひとりとして裁かれ、十字架にかけられて殺されようとするとき、イエスに従っていた弟子たちは、自分たちにも害が及ぶことでになるのではと恐れ、逃げ去ってしまいした。人々の目が恐ろしく、恐怖と不安な思いにとらわれ、またこれからどう過ごしてよいかを考えることもできなかったのではなかったかと思います。彼らはなすすべもなく集まり、鍵をかけた部屋に閉じこもって過ごすことになりました。それはとても大きな喪失の体験でした。
そんな弟子たちの集りの真ん中に、扉も鍵も開かれていない部屋の中に復活されたイエスが突然立ち現れてあいさつし、声をかけたと福音書は伝えています。もちろん弟子たちはこの出来事に驚き、そして喜びました。
しかしこの再会は、喪失体験の上に、さらにイエスを捨てて逃げ去ったこと、イスカリオテのユダとさして変わらぬ裏切り行為、いくら反省しても取り返すことなどできない深い後悔の思へとつながる自らの有様を心に刻むものでもあったのではないかと思います。
イエスは、そんな彼らにこそなすべきことがある、だから遣わす、出かけてゆけと言われるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22、23)
喪失の体験、裏切りの重さと罪の深さを知ったあなたたちだからこそ、聖霊すなわち神の御力に援けられて、世の罪を除こうとされる神のみ心に感じそれを宣言することができる。そしてイエスの言葉そのものが、裏切った弟子たち、また神のみ心を受け止めきれずにいるすべての人々への赦しと癒しの宣言でもありました。(F)
管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.15
ヨハネによる福音書 9:1〜13、28~38
エルサレムでの出来事です。イエスさまとお弟子たちは、町の中を歩いているときに、目の見えない人とすれ違います。すかさず彼らは訪ねます,「この人が、生まれつき目が見えないのは、誰の罪のせいですか?」これを聞かずにはいられない情景を想像すると、ちょっと嫌な感じもしますが、お弟子たちの心の中は、結構複雑なものがあったかもしれません。
イエスさまのお弟子さんたちもまた、生まれつき目が見えない人は、罪と関連していると決める律法の中で育ちました。なおのこと、それを見た町の人々は、それまで「罪の子だ」と見下してきた人の目が見えるようになると、急に自分たちと同等に並ばれることに不安を覚えたのでしょう。ファリサイ派の人々のところに連れて行き、律法がどう裁くか、納得のいく答えを求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱している様子が、聖書の中に赤裸々に描かれます。ファリサイ派の混乱は、ユダヤ人の中へと広がり、また本人に聞くことになりますが、その人は最初から一貫して主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちも理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と再び会い、その人の中に信仰が宿ったことを確認します。
この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしてもそして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったかもしれません。理解できないことが起きても、神の恵みの中にいる保証を得ていると信じてきた、そして、その中にいないように見える人々を、上から目線で眺めていたが、立場が逆転してしまう。「罪」の中にある人々を共同体から排除することが正義だと信じてきたのに、イエスさまの言動によって、ひっくりかえされる出来事でした。
わたしたちも「現代の律法」にどこか縛られていませんでしょうか。全く縛られない状態は無理としても、もしその律法を根拠に、誰かをどこかで見下している気持ちがあれば、それはイエスさまが望んでおられることの対極かもしれません。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.8
マタイによる福音書5:13-20
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)
今日は、なかなかキケンとも思える、この聖句に注目したいと思います。なぜならわたしたちが持つイエスさまのイメージは、「人から評価を得ることは期待せず、ひたすら善い行いをしなさい。人に知られなくてもいい、神さまはわかっていてくださる」というのが定番だからです。しかもこの聖書箇所は、「ひっそりとではなく、見えるように頑張りなさい」とも聞こえるフレーズ。こういう態度は、他人の評価を気にするファリサイ派の人々と同じではないか、果たしてイエスさまは、こんなことを本当におっしゃったのだろうか、と少し疑問に思います。
話は逸れますが、あるシェフが書いた本の話をしたいと思います。その中の一節に、コックとしての長い下積み時代、ひたすら鍋を磨く仕事を言いつけられた話が出てきます。彼がどんなに心を込めてピカピカになるまで鍋を磨いても、料理をつくる調理方は、ただ単に「洗ってあるから使える」としか思わない。もちろん感謝なんてされないし、多少手を抜いたって誰も気がつかない。そんな無味乾燥とも言える作業を「しかたがない」と自分に言い聞かせ、一定期間耐えれば終わるだろう、そんなふうに感じていたそうです。ところが、鍋を丁寧に洗い磨き続けていると、何がどうとは言葉にできないが、自身の視点が変わっていくのを感じるようになっていった。つまり、さっさと終わらせたい義務ではなく、向かい合っているのは鍋だけれども、そこには他でもない自分がいて、自分と対峙しているような感覚に入っていく。そして「鍋を磨く」ことは「(精神的に)自分を磨く」作業へと変わっていき、自らの内面が変化していくだけではなく、周りの空気や同僚たちの言動も少しずつ変化していった。いったい何が起きたのか、うまく説明はできないけれど、目の前の課題は、鍋を綺麗にすることに留まるのではなく、何百回何千回繰り返した後にならないと体験できない「変貌」がおきた。そんな話だったと思います。
鍋を洗う事とイエスさまのおっしゃる「立派な行い」を一緒くたにするのは少し気が引けますが、本当の意味で自分の声を聞こうとするとき、今まで気がつかなかった自身を発見し、それが周囲の空気を変え、周りの人々にも影響を及ぼしていく、という話なのではないかと思うのです。つまり、人にわかるような印象的なパフォーマンスの話ではなく、「これをする」と決めた覚悟の先には、それを何百回繰り返したあとでないと、到達することができない変貌が待っている、そういう話なのではないでしょうか。
今年の堅信受領者総会でわたしたちは、大切な議案を皆で討議します。考え方によっては、そんな余計なことより、もっと即効性のある具体的行動に、すぐ取り組むべきというご意見もあるでしょう。しかし、人々の前に「神さまの光を輝かせる」には、まずわたしたち自身が変わらせていただく必要があります。それは苦行と犠牲の上に成り立つ退屈な作業ではなく、神さまに信頼し、一旦「こうしよう」と決めたことに、心から取り組む旅路です。それは「あと何回成功したら次のステージへ行ける」というゲーム感覚ではなく、「まずあの人が変わらなければ」という手法でもなく、神さまの時間の中でしか進まない変化です。ノウハウは通用せず、わたしたち自身が「神さまの光を輝かす」媒体として、さらに成熟へ向かう信仰生活への旅路を、一緒に歩み出すことを意味します。基礎は「神さまへの信頼」です。わたしたちはお互いを支え合いながら、神さまへの信頼を深めていきましょう。
管理牧師ロイス上田亜樹
2026.1.25
マタイによる福音書4:12-23
「大きくなったら、何になりたい?」こどもの頃、よく大人たち(親戚なども含め)から聞かれた質問です。しかしそれは、一人の女の子の将来を一緒に夢見ようという申し出ではなく、「お嫁さんになりたい」が望まれる正解でした。それ以外の職業(?)を口にすると、「もう少し大きくなったらわかるよ」などと諭される。お嫁さんから生まれた女子は、お嫁さん以外の職業選択の余地はない、という閉塞感が苦手でした。ましてやイエスさまの時代のこどもたちは、女の子も男の子も何かを選ぶ自由はなく、好きじゃなくても疑問があっても、生き方は決まっていた。もし自分が、その時代に生まれていたらと想像すると、絶望的な気分になったことを覚えています。
今日の福音書に登場するペテロとアンデレ、そしてヤコブやヨハネが、「すぐに網を捨てて(イエスさまに)従った」のは、信仰深かったからかもしれませんが、長い間抱えていた「自分の人生これでいいのか」という問いがまずベースにあり、そしてついにイエスさま本人と対面したことで、社会の常識と保護を手放す決心がついたのではないか、そのようにも思います。
ところで問題は、「人間をとる漁師にしよう」(19節)というイエスさまの言葉です。読み方によっては、魚を捕まえて食べる目的と同様に自分の腹を満たすために、あるいは商品として利用するために人間を捕獲する、という話に聞こえてしまいます。しかし、この原文を見ると、マタイでは「あなたを人間の漁師にしよう」という言葉が使われ、またルカの並行箇所(同様の内容の別の福音書)では、「生どりにする」という言葉が使われています。漁師は漁師でも、消耗品としての労働力なのではなく、「人」として生きることへの招きの言葉であり、「人」を利用するのではなく、「生」かせるために働いてほしい、それがイエスさまの本意なのではないかと思うのです。重い肉体労働を伴い、人々の暮らしには欠かせない魚を供給する仕事であるにもかかわらず、社会的にはそれほど尊敬もされず、やがて労働ができなくなれば使い捨てのコマとして忘れられる、そうなる人生と諦めていた彼らに対し、神はそのようなことを望んでおられない、「あなたはかけがえのないひとりの人。人生を諦めないでほしい」そんな神さまの望みを受け取った彼らであったのではないかと思うのです。
またイエスさまは、まるでバプテスマのヨハネのように、「悔い改めよ、天国は近づいた」と伝えはじめました。人々の目に善いことを行うと天国が近づくのではなく、イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、全ての人に、特に「自分は恵みから漏れている」と感じてきた人々に、「他ならぬあなたのために、すでに神が準備をされている」と、自分のこととして聞いてほしい、それがイエスさまの宣教の始まりでした。イエスさまを通じて、必死に伝えようとされた神の声は、わたしたちにも聞こえますでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.18
ヨハネによる福音書1:29-41
先週も「バプテスマのヨハネ」が登場しましたので、顕現節に入り2度目の登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようですが、ヨハネがイエスさまのことを、二度も「神の子羊」「私は知らなかった」とくりかえしていることなど、そう簡単には理解しにくい箇所かもしれません。
「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が何か罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊を「いけにえ」として捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という慣習は、現代のわたしたちにはとうてい理解し難いものでしょう。
しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でした。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.13
マタイによる福音書3:13-17
イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者に対して、日頃から「辛口」な意見をおっしゃっていた印象があります。ことに律法で定められた、さまざまな掟「安息日に作業をしてはならない」「異邦人と会話をしてはならない」など〜を重要視するよりは、神が大切にされる事とは何か、それを優先された気がします。ところが、本日の福音書にもあるように、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられました。洗礼を受けたか、受けていないかという「かたち」には、とらわれそうもないイエスさまですが、その真意は、何だったのでしょうか。
ひとつの目的は、神と人との関係を公にする制度としての「洗礼」の認知だったかもしれないと思います。この時代、洗礼という儀式は、ユダヤ教の専売特許ではありませんでしたし、いろいろな宗教または地域で、大なり小なり「洗礼ムーブメント」があったようです。また、イエスさまご自身は、誰かに洗礼をほどこしたことはありませんでしたが、復活したのちに会ったお弟子たちに対し、「すべての人に〜洗礼を授けなさい」と告げ(世界中に)派遣しています。
洗礼の中心的メッセージは、「罪から浄められる」ことが洗礼の目的であった時代もありましたが、現在は「神の家族の一人になる」ことが強調されます。これは、「罪」そのものが軽視されるようになったからではなく、「罪」の定義が変わってきたことと関係していると思います。犯罪行為や権威への反逆など、かつて教会がその定義をしていましたが、現在は、神の被造物(自分も含め)を傷つけること歪めること、また、不自然な我慢を重ねることや、見当違いの目標へ向かうことなども「罪」(的外れ)という理解の範疇になりました。そういう意味では、罪なのか/罪ではないのか、万人が受け入れやすい事柄と、「神と自分にしかわからない」罪の存在が共存することとなりました。
それにしてもイエスさまが洗礼を受けられたのはなぜでしょうか。「わたしたちの模範として」ということもあるのでしょうが、ご自身の受洗によって、神と繋がろうとする人々を支え、「神の家族」としてのかたちを共有しようとされたのかもしれないと思います。洗礼を受ければ完璧な人生が待っているわけではなく、急に都合のいい毎日に変わるわけではありません。目的はとてもシンプル。わたしたちに対して、「私の愛する子」と呼びかけ続ける神の声を、一生聞こうと努力する、そんな約束を交わすことではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2026.1.4
暦の上では、今日は3つの福音書から1つを選ぶようになっています。それでも特祷ははっきりと「聖なる家族」という言葉でまとめています。読み方にもよりますが、「ナザレで生活されたイエスさまのご家族にならい、わたしたちも神のもとに連なる兄弟姉妹として教会生活を送ろう」とも聞こえます。でもわたしたちが真似をしたいような、憧れの理想的家庭生活を、イエスさまたちは送られていたのか、というとそれは疑問に思います。
臨月の妊婦マリアと、一緒に住んだこともないヨセフの家族生活は、まず山や谷を越え100キロ以上に及ぶ旅から始まりました。いざ出産の時が来ても泊まる場所は用意できず、生まれ落ちたのは糞塗れの家畜小屋。助けを求められる人もいない土地で、わざわざ訪ねてきてくれたのは文化も風習も異なる外国人(3名)、そして当時は真っ当な職業とはみなされにくい羊飼い。さらには、王による男乳児殺害命令が下り、急ぎ親子三人は国外へ逃亡。そんないつまで続くのかわからない避難生活が、彼らの「家庭」の始まりでした。
しかし困難は外からだけとは限りません。いきなり始まったマリアとヨセフの同居生活には、何処から来たのかわからない新生児が最初からいました。また、故郷に戻ったところで、地元民による中傷や陰口もあったことでしょう。マリアとヨセフが一人の人間として出会い、互いの違いを受け入れて家族となっていくその前に、とにかく生き延びていかねばならない現実が目の前にあり、そこには1ミリの綺麗事もなかったのではないかと思うのです。
この寒い冬を迎えて、諸外国でもそして国内でも、命の危険に晒されている人々がたくさんいることを覚えて祈ります、イエスさま、あなたは生まれたその瞬間から、居場所のないつらさ、雨や風に晒される苦しみ、飢えや乾きによる命の危険の現実へと投げ込まれました。命を守るため、生きるために必死でたたかう人々の痛みを、あなたはよくご存じです。あなたは彼らのまっただ中におられ、その人々を家族と呼ばれます。あなたの家族のひとりに加えていただくために、わたしたちの理解の足りなさに目を開かせてください。またそれらを受け入れる勇気とちからを、どうぞお与えください。わたしたちの全てを受け入れてくださる神の名によって、アーメン
管理牧師 ロイス上田亜樹子
25.12.28
ヨハネによる福音書1:1-18
神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんが)手でつかむこともできず、音としてその声を聞くこともない。風や香りでもない、いかなる「かたち」にもなり得ないので、どこかに閉じ込めておくことができない。それが、神という存在ですが、ではどうやってわたしたちは「神がいる」と信じることができるのでしょうか。
確かにおられる、という証拠を示すために、あるいはそのことを信じるために、すがる「しるし」や「物」を求めがちです。それを知っているわるい人々は、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、ニセモノの「しるし」を売りつけてきたりします。でもそれは、物品だけではなく、「これさえやっておけば、本心がどうであろうと、神は確保できる」という囁きも同様でしょう。
本当は、自分で偽物か本物かを見わけられれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。あれこれと道に迷ってきた歴史ばっかりです。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)を送り、助けてくださいました(旧約聖書の物語による)が、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐに神の慈しみも忘れ、再び道に迷う生き方を繰り返してきました。
そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる存在に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に示しました。
「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂に真実は告げられた。それは理屈や律法ではなく、人はどのように生きるべきかが示され、その指針は希望の光として、すべての人々に告げられた。「イエス」と名前の付くその存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感謝しながら、わたしたちにそのことを伝えようとしています。
管理司祭 司祭ロイス上田亜樹子
25.12.21
マタイによる福音書1:18-25
クリスマスの絵本やページェントのシナリオでは、今日読まれるマタイとルカに収められた別々のエピソードが、1つの話としてまとめて語られます。ルカ福音書はマリア、そして羊飼いの物語が中心にありますが、マタイの方は、ヨセフの物語、東方の博士たちの登場、そしてヘロデ王のねたみと嬰児殺害の話を、わたしたちに伝えています。マリアの身におきた出来事は超弩級ですが、一方のヨセフにとっても、常識をはるかに越えた出来事でした。聖書はヨセフのことを「正しい人であった」と表していますが、それは律法を守り、人から後指を刺されない生き方、というよりは、「正しいことを一生懸命行おうとする」「(神さまの)正義を行う」という意味です。ヨセフにとっては、マリアがどのような経緯で命を宿したのかは納得はできないけれど、一生懸命神さまのみ旨を求め、許嫁に裏切られた被害者としてマリアを訴えるのではなく、神の意志であることを受け入れる道を選んだ、そのようなヨセフの「召命」を引き受ける姿が著されていると言えます。
この一連のあり得ない事柄は、「奇跡をおこすすごい神」を伝えたいのではなく、クリスマス物語全体で「この世の常識を超えた」神の存在をあらわそうとしているように思えてなりません。当時は死刑執行の対象だった「婚外子」の命を身体に宿し、でもその子を守る決断をするマリアと、生物学的には自分の子ではない息子を育て、おそらく一生「まぬけな男」として人々の視線を浴び続けることになるヨセフと、想像しただけで、当時の掟の中で一生暮らす人にとっては、到底耐え難い人生が決まった瞬断です。
恵まれた環境で育ち教育の機会にも恵まれ、何一つ不自由なく掟を守り、優位に生きる階層ではなく、社会的評価も低く、その存在すら気がつかれることのない人々の中にこそ、神は一緒におられようとする(インマヌエル)という知らせを、福音書は繰り返し伝えようとしたのではなでしょうか。
わたしたちもまた、この社会の圧力の中で「常識」の影響を受け、一方ですがりつきたくなる時もあるでしょう。しかし神さまの計画は、そこを超えて働かれることもあります。クリスマスの本当の喜びは、神さまはあなたと共に居たいと願っている、だから、どんなときも、心配しないで恐れないで前に進みましょう、という呼びかけなのではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.12.14
マタイによる福音書11:2-11
クリスマスの前の暦「アドヴェント」では毎年、「洗礼者ヨハネ」に関する福音書を 2 週続けて読みます。これは、ヨハネの生涯を想い起こすことで「あなた自身は道を備えていますか」と、神さまから聞かれているのではないでしょうか。その人生を改めて振り返ってみると、それは「安心」や「成功」とは異次元のものでした。父親ザカリアは神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその職を継ぐことはなく家族さえ捨て、荒野で人々に悔い改めを呼びかける運動に身を投じます。不妊の女と嘲られ耐えた末に待望の息子を産んだ母親エリザベトは、その息子が獄中で暗殺されたことを知らされます。
本人のヨハネにしても、権力者には苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。それは、イエスさまのために「道を備える」役割と納得はしていても、その厳しさは並大抵ではなかっ たことでしょう。自分の使命を信じるから、何もかも捨てて神の国について語り「道を備え る」役割を果たしてきたはずですが、神の国の兆しさえ見えない中での逮捕と投獄、そし て死を迎えるとき、自分は何か思い違いをしてきたのではないか、単なる自分の思い込 みだったのではないかと。ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆 け抜け、そして彼は思わずイエスさまに聞いてしまったのではないかと思います。
そこで自分の弟子を送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。 「そうだ、あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」という答えを期待していたのか もしれません。でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重 い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧し い人は福音を告げ知らされる。」と返事します。なんだか肩透かしのようですが、ヨハネの 人生の意味について答えたのではなく、イエスさまの語られる言葉によって人々の間に 起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上 に実現されつつある、それがイエスさまの答えでした。
当時の常識では、身体の不具合 は神から見放され、祝福がないからであり、「死者」が社会復帰するはずはなく、貧しい 人困難に遭う人は、神から愛される資格がない人、と考えられていました。でもそうでは なかったことが明らかになっていきます。不衛生で家畜の糞尿にまみれた小屋で生まれ たイエスさまは、偉大な神をあらわすものではなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と徹底 してともに居ようとする神の象徴です。また、そのことを伝える一端を担っていたヨハネも また、一度も神の計画を疑わなかったわけではなく、不安や悲しみも存在しなかったわけ ではない。そんな神に従ったヨハネやその他たくさんの人々の足跡や涙、痛みや苦しみ を踏みつつ、わたしたちもクリスマスを迎えようとしています。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.12.7
マタイによる福音書3:1-12
聖書には、複数のヨハネが登場しますが、その中でも異彩を放っているのが、今日の福音書に登場する「洗礼者ヨハネ」。イエスさまほどではないですが、やはり不思議な出生で、母親は年老いた女性、イエスの母マリアの親戚筋だった、と聖書は伝えます。どういう関係であったのか、詳しくは書かれていませんが、このヨハネもまた、順風満帆の恵まれた生涯ではなかったようです。父親は神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその仕事を継ぐことはなく、成人すると家を出て、荒野で人々に悔い改めを呼びかける運動に身を投じます。ラクダの毛皮を他の動物の皮で身体にくくりつけ、イナゴと野蜜を食べて「悔い改めよ」と叫んで回る。当時の権力者に対しては苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。そして最後は宴会の余興の流れで首を落とされ、その生涯を終える。イエスさまのために「道を備える」という役割だったとしても、かなり厳しく孤独な人生という印象はぬぐえません。
それにしても、ヨハネが説く「悔い改め」とはなんだったのでしょうか。聖餐式の中に「懺悔」という部分があるので、信徒にとっては違和感がなく、特段に「悔い改めリスト」が浮かばなくても、「とりあえず悔い改めておこう」ということで解決するのかもしれませんが、私はこどもの頃、「悔い改めなければならないことなど、特に思い浮かばない。この時間は何をしていればいいのか」などと、牧師に詰め寄ったことがありました。(冷汗)
それはそれで課題満載ですが、一方、他の聖書の訳を見てみると、「悔い改め」という言葉には、なかなかの幅があることがわかります。「あなた自身を考え直せ」「実際の自分を無視せず、神に立ち返らせよ」「底辺からの見直しをせよ」と。こんなふうに言われたら、罪のないヨハネが、わたしたちを見下ろし「悔い改めよ」と叫んでいるのではなく、神があなたを造られた「愛するこども」としてのあなたを取り戻せ、と叫んでいる場面に変わってくるように思います。それは、心の奥深くに潜む叫びや痛みも含めた様々な苦しみを、神の慈しみのまなざしの中でなら、正面から対峙する勇気が与えられる、ということかもしれません。今置かれている状況が、自分を不自由にしていると感じているが、実は不自由にしているのは自分自身だったりする現実。イエスさまをお迎えするこの準備の季節は、まずご自身との対峙から始めるよう、ヨハネは薦めているのかもしれません。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.30
マタイによる福音書24:37-44
教会の暦の新しい一年が今日から始まりました。日本のお正月では、無事に新年を迎えた喜びが中心で、まずお祝いからのスタートですが、ユダヤ教の影響も受けているキリスト教では少し違います。クリスマス前の4週間(アドヴェント)は、1年で夜の時間が最も長く暗い季節。日が暮れてから元気になる人もいますが、夜明けは遅く、午後もすぐ夕闇が迫る、朝方人間にとっては辛い季節です。でもそれは、あたりが燦々と輝き、いろいろなものが目に入ってくる昼間には気がつかなかったことが、闇に包まれると見えてくる、という側面があるのかもしれません。
心につき刺さるような人の言葉、歪んだ社会の構造、といった自分の外側の世界目を向けることに加え、自身の陰に潜む弱さや不完全さについて、心に留めるよう促される季節なのかもしれません。「弱さ不完全さは克服しなければならない」「人に見せてはならない」という圧力が強い社会に住んでいると、辛いことや面倒なことを跳ね返せる自分、克服した成功物語だけを話題にしがち。あたかも自分は、その成功物語の中で一生生きられるような錯覚に陥ります。もっとも、人生が順調に進んでいる時は、弱さは克服された、もうはや気にしないで大丈夫、と考えることができますが、 “逆境”に襲われると、途端に状況が変わります。去ったはずの弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされ、身動きができなくなります。
今日の福音書の「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という言葉の意味は、二人のうち一人しか命が助からない、あなたはどちらに入れるか、という話ではない気がします。一人分の「わたし」という存在なのにもかかわらず、二人分以上の成功物語と重荷を背負いつつ、現実についてはあまり深く考えずに進むしかないという思い込みから解放されよ、というおすすめなのではないかと思うのです。それは、自分の限界を「あきらめて受け入れる」ということではなく、「ひとり分である自分」を認めることへのおすすめであり、それを受けとめることができたとき、憐れみや同情ではなく、周りで戦い傷つき苦しんでいる、多くの人々の存在が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。
権力や経済力や地位で身を守るのではなく、まったく無防備な新生児として、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備のひとつではないでしょうか。思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を、プレゼントとして受けとることではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.23
ルカによる福音書25:35-43
今日の福音書は、地上におけるイエスさまの最後の「居場所」、十字架での話です。そこには、十字架刑によって処刑され、まもなく命を失う3人の人々と、自分の命は危機に瀕していないと思っている人々とが、対比されて描かれます。
十字架刑を見物に来た民衆や議員たち、そして執行人である兵士たちは、揃いも揃って「人を救うと自称するイエスよ、ならば自分を救ってみろ」と、嘲笑います。言葉や行為による暴力をふるっても、仕返しされることはないと確信しているこの人々は、十字架上の3人には人としての尊厳は必要ないと思っているだけではなく、そういう言葉が口から出てくる自身に対しての尊厳も失っています。さらにおそろしいことには、命を与え、また命を取り去る神は、この人々の心の中には不在です。
十字架にかかっている犯罪人のひとりの口からも、「神不在」の発言が続きます。極限に置かれているこの人の気持ちを考えると、極めて人間的な行動なのかもしれませんが、死を免れるためなら何でも利用しよう、としか考えていません。神がおられるかどうか、それはどうでもいいし、イエスがメシアだと信じているわけでもないようです。ダメもとで「救ってみろ」と罵ります。
十字架にかかっているもうひとりの犯罪人は、驚いたことに「この人(イエス)は何も悪いことをしていない」と発言します。これは、ローマ総督の判断も、ユダヤ人議員による裁判も、そして民衆をも、はっきりと敵に回す発言です。しかもこの人は、自分がこれから失う地上の命を奪還しようとはせず、イエスさまのことを(亡くなった後に)「み国」に行く方だと信じて、ただ自分のことを覚えていてくだされば十分ですと告げます。この人は、いったいどんな過酷な人生を過ごしてきた人なのでしょう。そして、どうして人生の最後の瞬間に、こんな人の魂にとって極めて本質的なことに留まることができるのでしょう。しかし、予想に反してイエスさまの口からは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」という言葉がこの人に対して言われます。
教会の暦の最後の日曜日、来週から「新年」が始まる時に、この物語はわたしたちに「救い」の本質を告げます。身体の安全が保証されることが「救い」ではなく、辛さ哀しさが取り去られることも「救い」ではない。またわたしたちの思うように人生が進むことも「救い」ではない。
「救い」とは、イエスさまと一緒にいること。わたしたちの生活の中心に、心のど真ん中にイエスさまをお迎えし、「どうかご一緒にいてください」と、本気で願うこと。イエスさまがおられる「み国」は、死んでから行くところではなく、生きているわたしたちの心のど真ん中にお迎えする「み国」なのではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.16
ルカによる福音書21:5-19
考えも想像もしなかった事件や災害を思い浮かべると、考えるだけで怖くなります。それは、自分の身を守るという観点からだけではなく、大切な人々のいのちが危険にさらされ、それをどうしてあげることもできないという状況です。自らの非力に呆然とし、ただ次の展開を待つ、それはとても辛い状況でしょう。
今日の福音書を読むと、絶対に変わることはないと信じてきた神殿が跡形もなく崩れ、信頼に足りると思ってきた人がいなくなり、安定や平穏といった、わたしたちがぜひ今欲しいと思っている環境が、あれだけ変わることがないと思っていたのに、どこかへ消えてしまう、そんな背景が描かれています。しかしそれは、国や民族間だけのことではなく、信頼してきた家族や友人からも、嘘や裏切りを聞き、どうしたらいいのか途方に暮れる状態。そんなときに限ってイエスさまの名を語り、「こうすれば大丈夫」といった怪しい人々も出現。そんな状況が目に浮かびます。
この聖書がまとめられた時代は、イエスさまが亡くなって数十年、すでにキリスト教徒に対する迫害が始まっていました。いつまで続くともわからない国家を挙げての逮捕や厳罰政策に対して、なんの解決策もなかった人々の気持ちと置かれた立場は、どんなにか辛かったことでしょう。
わたしたちが住む国では今、戦乱や政府による直接の殺戮はないものの、もう止めようのない世の中の動きに押し流されるようにして、さまざまな事柄が変わっていくのを、辛い気持ちで眺めることはあります。中には、変わるべきことも必要かもしれませんが、一方で「失ってはならない、変えてはならない」と心の中で叫んでいてもどうすることもできないまま立ちすくむことがあります。ではそんなとき、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか。
1つは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」とのイエスさまの約束を、真に受けることです。それは、「それが本当なら信じてみよう」といった条件付きの「信じる」ではなく、自分の力だけで窮地を何とかしようとするわたしたちの頑固さから解放されよ、という福音です。それは、騙されても誤解されても失敗しても、イエスさまだけはわかっていてくださる、必ず必要な言葉と知恵を与えてくださるという信頼。保証を求めるのではなく、純粋に心をイエスさまに向けること。それは難しくそして単純なことなのでしょう。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.11.9
ルカによる福音書 20:27, 34-38
今月の終わりにはもう「アドベント」(クリスマスを待つ4週間の季節)が始まります。アドベントは、教会の暦では新しい一年の始まりですが、その直前の11月(つまり一年間の終わり)は、さまざまな意味でいのちと死を考える季節にもなっています。「死んだあと自分はどうなるのか」「残された家族は」そんな疑問は、普段はあまり意識していないかもしれませんが実際は、常にわたしたちの心の中にあるのではないでしょうか。
古代ピラミッドの壁画にも、亡くなったあとに自分はどのように振る舞ったらよいのか「死後の自分のトリセツ」が描かれているということです。
あの世から戻った人の話は聞いたことがないので、死後の世界の恐怖や不安、心配や悲しみといったイメージに圧倒されてしまうことも、時にはあるかもしれません。そしてその力に押し潰されないために、たとえば「死」を人生とは真反対の存在として切り離し、考えないようにしたりもします。急ばしのぎには功を奏するかもしれませんが、一方長く続くと、いのちの輝きやかけがえの無さを、そしてその素晴らしさを、感じるのが難しくなるように思います。
イエスさまの時代の「死」の理解とわたしたちのそれとは、同じではないかもしれませんが、当時の人々も、たくさんの家族の死や親しい友人の死に時には二度と立ち上がれないような喪失感を味わっていたことでしょう。本日の聖書では、サドカイ派と呼ばれる人々からの質問にイエスさまが答えるかたちで話が始まっています。死後も現在のような社会制度が続くのか否かという質問は、一見「死後」の世界の話をしているようですが、しかし主目的はイエスさまとの問答ですから、内容はなんでも良かったのかもしれません。彼らの問いに答えつつも、イエスさまの心の中は、心の闇に支配され、心配や悲しみに圧倒されている人々のことが、頭から離れなかったに違いないのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きているから。」と言われる言葉の真意は、「心配しないで生きなさい。どこにいても、何をしていても、あなたを見守り支え、一緒に最後まで歩き通しますよ」という約束を、すべての人々に、そして漏れなくあなたに対して、伝えてくださっているのではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.11.2
ルカによる福音書19:1-10
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使う言葉かもしれませんが、ではどういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。今日はザアカイという人の話からそのことを考えてみたいと思います。この物語は、「救われた」本質を語るものであり、わたしたちもまた、実は「小さなザアカイ」が存在するのではないか、そんな気持ちになる話です。
ザーカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしをしていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面は職を失う心配のない、ローマ帝国のために「税金を集める」職業です。
しかしザーカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。それは同胞であるにもかかわらず、人々の暮らしを圧迫する「ローマ帝国側の人間」という烙印を押されていたからです。生活は安定し、仕事を失う不安もないけれど、他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいました。
ところがザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけます。胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人か見てみようと思ったザアカイが、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイの名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。
ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでした。自分と口を聞き、泊まりに行き、おそらくご飯まで一緒に食べるようになるなんて、信じられない思いだったのです。
ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、気がついたらスルスルと桑の木を降り、イエスさまとお話ししていました。その一連の出来事を通じてザアカイが知ったことは、「こんな生活をしている自分も、愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、イエスさまとの出逢いにより、自分もまた神さまから愛され、神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。
自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。ザアカイもまた、自分の周りに生きる人々も、神さまが愛されている大切な人であることを認識して行きます。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.26
ルカによる福音書18: 9-14
今日の福音書は、「ファリサイ派の人」と「徴税人」の祈りを比較するような構成ですが、「勧善懲悪」の話というよりは、神の前に立つ際、得点を稼ぐように神に喜んでもらおうとすると、神の恵みに気がつかなくなり、何が大切なのかも見失う、そういう話ではないかと思うのです。
イエスさまの時代は、律法を守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「戒律を守る立派な人」として一目置かれていました。ところが中には、「不正や略奪や不倫もせず、収入の十分の一を献金することができる、断食も規定通り実行できる環境が与えられている」ことへの感謝ではなく、「それを実行できない」徴税人のような者ではないことを感謝するという人々がいて、イエスさまはわざわざそういう人々に向けて、この話をしています。つまり神の助けにより、目指す信仰生活が保たれていることを感謝するのではなく、戒律を守ることのできない人々より自分が「上」であるから感謝する、そんな祈りになってしまっています。他人を見下すのはおやめなさいという話ではなく、立派に見える人たちの生き方や祈りの内容が実は立派ではないことを、たとえでお話しくだ去ったのだと思います。
人を見下して成り立つこのような祈りを聞くと、さすがに自分はこんなひどいお祈りはしない、と思うかもしれません。でもこの人たちにも、素のままでは祈れない思いがあったのかもしれないと思うのです。このままの自分では神さまに喜んでいただけない、何もかも中途半端なままで恐れ多くて神さまの前になど立てない。でも「徴税人より上な私に気がつけば」神は振り向いてくださる、と思いたい心理。つまり何もできない/しない自分は駄目だという決めつけがあるため、掟の実行実績を神さまに「思い出させる」、この人の一番大きなズレは、そこにあったのかもしれないと思います。
徴税人の祈りは言い訳も説明もありません。「見当はずれな生き方の中にいる自分です、でもあなたは愛してくださいます」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、この人の生活が苦渋に満ちていたからではなく、神は、自分を底上げしなくても聞いてくださるという信頼が、根本にあったから、そういう祈りだったから、かもしれません。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.19
ルカによる福音書18:1-8a
今日の福音書に登場する「不正な裁判官」のような人は、現在でも決して珍しくないでしょう。裁判官は不正なことをする人たちだという意味ではなく、自分の役割であっても、一旦相手を見下すと、あれこれ理屈をつけて相手にしない、そんなどんな職種にもいる人間の話です。この裁判官に象徴される存在が、イエスさまの時代の誰を指していたのか、様々な想像ができますが、いずれにせよ、当時の地位という意味では、最下位の一つに相当する「やもめ」が直訴することは、そもそも無理な設定です。女性は、裁判を起こす権利はなく、財産を相続することもできませんでしたから、当時にしてみれば、残念ながら当たり前の対応だったのでしょう。
しかしこの裁判官は、この女性がうるさく付き纏うからという理由で、裁判をしてやろうと重い腰を上げます。この人に付けられた「不正な」という形容詞は、賄賂の要求や虚偽の判決を連発するという意味ではなく、「不正義」を意味する言葉が使われています。つまりこの人の振る舞いは、人々の間では許容範囲かもしれないけれど、神さまの目には不正として映っている、そんなことを表しているのかもしれません。
この人は、法の範囲内では間違いを犯さず、許容範囲の裁判を行ってきたのでしょう。しかし、飢餓に苦しむ家族と、十分に食事を摂れる家族に、同じ量の食料を配布することが「公平」ではないように、社会的な地位のある人と羊飼いのように、力関係が明らかに異なる人々を、同じように処遇することが「公平」とは言えないように、神さまにとっての正義と公平は何か、という視点を持たないこの裁判官が、しぶしぶやもめの裁判を実行したことにより、この人は自分の欠落(常識の範囲内におれば後は何をしても構わないという生き方)に気づいていったのかもしれないと思います。
イエスさまはお弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈る」ように言われましたが、「たくさん立派に祈りなさい」とは言っていません。つまり祈るとは、わたしたちにとっても自分に都合の良い結末を出す目的ではなく、祈り続けた努力に見合うご褒美を期待するものでもなく、どういう状況にあっても、神さまは必ずなんとかしてくださるという信頼から離れないように生きる、そんな自分にしてください、それが真の祈りの内容かもしれません。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.12
ルカによる福音書17:11-19
当時「重い皮膚病」を患うとは、一生消すことのできない烙印を押され、患っていない人々にわかるように、万人に示す責任まで負わされることでした。感染を人々の間に広げることや、うっかり人が近寄るのを避けるため、街を通るときはずっと「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ぶ義務がありました。疾病を負うだけでも大変なのに、人としての尊厳を削がれているのは罪の結果だと、人々が恐ろしく思うように利用されている人々でもありました。生きるとは苦しいだけ、そんな人生だったかもしれません。
このように生きてきた10人が登場します。一生治らないと思っていたでしょうから、今の苦しみが終わるときが来るとは、想像すらしていなかった。そしてイエスさまによって癒やされ、人として生きることがゆるされた人々が、躍り上がって喜びに包まれる姿が目に浮かぶようです。
その10人のうち一人だけが、イエス さまのところに「神を賛美しながら戻って来た」とあります。(しかもこの人は「神を知らない」と認定されているサマリア人でした)この人はまず村に入って家族や友人に病が治ったことを告げ、喜びを分かち合っていたのかもしれません。でもハッと気づき、イエスさまに何かを告げたくて戻り、「神を賛美」した。でもそれは、病気を治すとはすごい神さまだと持ち上げることではなく、もたらされた利益(=病気を治す)を保証するよう圧力を加えることではなく、癒しの見返りとして神に従属します、といった約束でもなく、この人は「正しく」神を賛美したのだと思います。それは、イエスさまがこの人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことからの想像です。
正しい神への賛美とは、自身もまた「神にとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知ること、そして受け入れることではないでしょうか。それこそが「信仰」であり、神を受け入れないと思われているこの人を救ったと言っているのではないでしょうか。厄者扱いされるのではなく、生きていることを嘆くのではなく、すでに神によって愛され大切にされているのは本当なのだと信じること。そのことこそ、神を賛美することであり、神の望みであると知ったからではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.5
ルカによる福音書17:5-10
「わたしたちの信仰を増してください」これは、使徒たちだけではなく、教会の中で良く聞くお祈りの言葉でしょう。そして「自分は信仰が足りない」などとも言いますが、信仰そのものは、量で測れるものなのか、増えたり足りなくなったりするものなのでしょうか、そもそも「信仰」の意味を、わたしたちはどのように捉えているのでしょうか。
少し話が飛びますが、教皇グレゴリウス1世(AD 540〜604)と いう人が『牧会規定』いう本を著しました。これは、聖職者を目指す 人に向けて書かれたものですが、一見指南書のようなタイトルなものの、グレゴリウス自身が、「人の力ではとても実現不可能な、とんでもない事」を神が聖職者の生き方に求められていると知り、聖職按手の前日に怖くなって逃げ出したことに対する、弁解の書なのだそうです。
興味深いのは、この文書は四角四面の綺麗事を語っているのではなく、誰しもが持つ弱さへの向き合い方、また、神に対して真に信頼するとはどういうことなのか、描かれていることです。聖職者になるための、様々な勉強や実際の経験を積むことを通して、「自己実現をしたいという欲求」や「人から認められたいと望む心」という、誰しもが持つ落とし穴が、さらに広くそして深く口を開けて待ち受けている危険に、自覚を持つよう薦めます。聖職者が、人々の魂の渇きに耳を傾けるのは、最も大切な務めの一つではありますが、もし人の思いのみを聴き、神に聴くことを失するなら、何を言ったらその人にもっとも感謝されるか、人々の賞賛を得るか、という全然別の目的へと向かってしまう、という落とし穴について語ります。
「からし種一粒の信仰があれば十分だ」とイエスさまはおっしゃいます。わたしたち全員が聖職者というわけではありませんが、自分の中にある醜さや弱さ、怖れやゆらぎを見なかったことにするのではなく、すべてを受け止めてくださる神様に、全幅の信頼を預けることが、「信仰」の中身なのではないかと思うのです。
ルカによる福音書 第16章19〜31節
イエスさまのたとえ話に登場するラザロは、果たして実在の人物だったかどうかわかりませんが、残飯にありつくことでなんとか命をつないでいる人々がというのは、当時けっして珍しくはなかったのでしょう。行くあてもなく、よその家の門の脇で雨風にさらされながら身を横たえ、全身に広がる皮膚病をどうすることもできないまま、ただ死を待つ。自分が生まれてきた理由、そして苦痛の中で生き続けなければならない理由を、神に問うたかもしれないこの人の名前は、ラザロ「神に助けられた話者」でした。
一方「金持ち」は、そんな悲惨な状態のラザロの存在を認識しており、名前まで知っていましたが、ラザロの存在に心を痛めないまま、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。そして自分が死んでも、ラザロに対する姿勢を変えず、ラザロに使い走りをさせようとします。自分のために水を運ぶよう依頼し、それが駄目ならと身内への特別待遇を求めます。この金持ちは生きている間、感情も考えもある「人間」としてのラザロを認識できず、そして亡くなった後も何も変わらず、自分の都合のためにラザロを利用していいと思っています。
しかしこの話は、施しを促すためのたとえ話ではないでしょう。ラザロのような人がすぐ近くにいるのに、後ろめたさを感じずに、自分の都合や欲望を最優先して生きるのは、実はかなりの無理があるのではないかと思います。この金持ちのような人は、自分の財布で欲望を満たして何が悪い、犯罪は犯していないと言いつつ、ラザロの状況は自業自得、神の罰の結果であり、自分とは無関係だと思わないと、飢えている彼らを毎日見ながら、衣装や遊びへの浪費を正当化するのは難しいでしょう。
ひょっとしたら、もしこの金持ちが、自分の浪費癖に心を痛めながらも、ラザロを対等な人として向き合っていたなら、話の結末はちがっていたのかもしれません。アブラハムは金持ちに対して「子よ」と呼びかけています。つまりこの金持ちを切り捨てる意図はなく、彼を悲しい目で見つめつつも、何が問題だったのか、自身で悟ることを待っている呼びかけに聞こえます。難しいことかもしれませんが、神さまが大切にしている家族の一人として、すべての人々を認識し得るかどうかにかかっているのではないかと思います。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.21
今日の聖書は、ごまかしても正しくないことをしても、それに警鐘を鳴らすイエスさまではなく、「いいよ、そのままで」と肯定しておられるようにも読め、何だか複雑な気持ちになります。世の政治家の収賄事件も、選挙の際の公約反故も、経歴の詐称も、それでもいいよと言われているのでしょうか。借金は踏み倒しても責めないよと言われているのでしょうか。
そもそも他者にお金を借りるのは、その人との関係が壊れる覚悟が必要です。大切な友人なら、そんなことは避けようと誰しもするでしょうが、これは一般論として話されているのではなく、「金に執着するファリサイ派」の人々も聞いていた(14節)という場面展開です。聞いた彼らは、不快に思い、せせら笑いますが、「自己保身目的とは言え、不正によって仲間を作るなんてダメに決まっているじゃないか。自分はそんな馬鹿なことはしない」という心中かと思います。
「富」は、土地や畑の作物、家畜や商売の収益を含みます。増し加わることで生活の安定を得て、心の安定も得ます。しかし少しでも減る兆候があるとやはり誰しも穏やかではありません。蓄えがあるのに、さらに資産を増やさないと損をしていると感じてしまう。この話の聞き手の中には「神の前に正しいことをしている自分は、そんな不正とは無縁。律法を守る限り、絶対安全な保証を得ている」と信じ、そうできない人々を見下している、という致命的な背景があるのではないかと思うのです。
わたしたちは、「絶対的正しさ」に生きることは不可能です。たとえつつましい貯金をしていても、誰かの借金の利子がわずかな利息になります。投資をすれば、資金を失い路頭に迷う人がいるから、利潤を受けることができます。こういったいとなみを、罪だと決めつけるのではなく、生きて行くために、家族を守るために、あまり神には誇れない側面も合わせ持ちながら一生懸命生きているわたしたちをも受け止められるのが神であり、余分が生まれたら、それは必要としている人々に届けてほしい、というのが神の望みなのではないでしょうか。その辺りが、小さなことにも忠実であること、そして表面的にはあまり差異はなかったとしても、自分の欲という主人に仕えるのか、神さまに仕えるのか、それが問われているという話なのかもしれません。
管理司祭 上田亜樹子司祭
2025.9.14
ルカによる福音書15:1~10
九十九匹の羊、そしてその群れから離れる1匹。羊飼いは「1匹くらいは仕方がない」とは言わず、九十九匹を野山に放置して、失った1匹を探しに行く。やがて迷い出た羊が発見され、生存確認がなされると、皆で喜んだ。この話は、たとえ多くの羊を野獣の襲撃や気候急変の危機にさらしても、神は小さな一匹をかけがえのないものとして心を砕き探し出そうとされる。だからわたしたちも、自分がとるに足らないちっぽけな存在であると思い知らされても、身勝手な理由で群れから離れたとしても、神は決して諦めることはない。野山を越えて必ず探し出し共にいようとしてくださる、そんなメッセージとして語られることも多い。
このたとえ話が語られた場には、律法学者やファリサイ派の人々がいたようだ。彼らは自分たちこそ、正統的な信仰を守るために不可欠な役割を果たしていると自負していたので、群れの一員として忍耐強く伝統を守り継承している自分たちは九十九匹の側であり、群れを離れた一匹のことを「厄介者」というイメージで聞いていたかもしれない。しかし信仰のために一生懸命努力するのがわるいのではなく、律法を守ることができない人々について、想像力が欠如しているところだったのではないか。つまり「医者はいらない自分」には問題がなく、医者を必要としている問題のある人々を、たとえ言葉にはしなくても、見下していた点ではないかと思う。
理由もないのに故意に群れを離れるのは馬鹿げているが、本当のところは(絵本のように遊びに夢中になっていた子羊が皆とはぐれてしまったという話ではなく)そうしなければ自分が保てないところまで心理的精神的に追い詰められ、それ以外の道では命を護れない、そんな場合もあるのだと思う。一匹を探すために羊飼いが群れを離れて初めて、九十九匹は自分たちの無力さを思い知り、傲慢だったことを知り、生かされていることを知る。聖書によると、迷い出た一匹は元の群れに戻ったとは書かれていない。どこかで、新たな神に仕える道を見出したのかもしれない。さてあなたは、今、どのあたりで、神を望み見ておられるだろうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.7
日本語が第一言語ではないけれど、日本に長く住んでいるある友人が、こんなことを言いました。「日本では、皆があまりにも簡単に『ゆるせない!』と言うので、それを聞くとドキッとする。」それを聞いたわたしたちは、人々は「許す」と「赦す」をごっちゃにしているのかもしれないと話しました。音が同じなので難しいところですが、「許せない」という意味で使っている場合の方が多いかもしれません。「許す」ことは、ある意味具体的な行動を指す言葉であり、「許可する」か「妨げない」ことで、前に進むOKを出すようなイメージでしょうか。
聖書の語るゆるしは、「赦し」の方です。でもそれは「臭いものに蓋をする」勧めではなく、わたしたちの心の中での課題について語っているのだと思います。1つは、「赦してもらえない苦しさ」です。人を傷つけたり信頼を裏切ることになってしまったとき、それだけでも苦しいのに、相手がゆるさない決断をしたときはもっと苦しいものです。謝罪したくても拒絶されるかもしれない場合は「ごめんなさい」では軽すぎて、口にすることもはばかられます。2つ目は「人をゆるせない苦しさ」です。ゆるせないという状態は、心の痛みだけではなく、怒りや不安、そして悲しさもあり、心だけではなく身体も傷つけます。誤解を恐れずに言えば、奪い盗られた自らの力を、「ゆるさない」ことでなんとかして保管しようという欲もあるかもしれませんし、実際、赦したいけど赦せないこともあります。
不正や不平等を「看過できない」という意味で「許さない」ことも大切ですが、どのように闘っていくのかは、大いに智慧を絞る必要があります。ことに権力をもつ相手だったり、皆にとって当たり前だったりする事柄は、本当に簡単ではないでしょう。しかし目指すゴールは、相手に思い知らせることではなく、復讐することでもなく、「あるべき姿の回復」であり、自身の心の解放です。答えは1つではなく、また時間もかかることですが、少なくともわたしたちは、「諦める」ようには言われていないのです。言い方を変えれば、相手と同じ土俵に立つのではなく、一段上から出来事を俯瞰し、神さまと相談しながら解放を探していく作業なのかもしれません。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.31
ルカによる福音書14:1, 7-14
職場などで宴席を囲むような場合、繰り返される「儀式」があります。年功序列が微妙だったり、どこが「上席」なのか、何通りかの解釈が生まれてしまうような場合、人々は際限なく「まあまあまあ」「いやいやいや」と言いながら、他者を上席と思われる位置に座らせようとするような習慣です。多くの場合は、相手を思いやってそうしているわけではなく、自分が恥をかかないための防御でもあるのでしょう。
しかしイエスさまが、「面目をほどこすため」のノウハウを伝授なさっているとは、とても思えません。世渡り上手かどうかは、根源的ないのちとは全く関係がないからです。しかも場面設定がふるっています。他の聖書(マタイ23章)では、「偽善者」「白く塗った墓」と、ふだんからイエスさまから非難されている律法学者、ファリサイ派の議員の家からの招待です。普段の言動の割には違和感のある状況、いったいどんな顔をして、どのような振る舞いをされるのだろう、と様子をうかがっていた人々がその場にいたこともあり、イエスさまは彼らに向かって、「面目をほどこす話」をされています。
続いて、招待側の人に対して、「こうすれば報われる」という話をされます。見返りを期待できない、社会で無視され軽視されている人々を招くことが、逆転が起きる神の国では(今すぐには結果は出ないとしても)、その際に報われるのだという話です。自分が招待され、しかもその招待を受けて食事会にやってきた人が、「どういう人を招くべきなのか」と、招待者に告げるとは、普通に考えたら非常識極まりないですが、イエスさまが本当に伝えたかったことは何だったのでしょうか。
ひとつは、神さまとともにいようとするとき、自分の中にある「見返りを期待できない」弱さや、目を背けたい暗闇を「招待しなさい」ということではないかと思うのです。わたしたちは、うまく取り繕って生きたいし、綺麗事の方がまとまるし、また自分の長所だけの方が、神さまの前に立つには相応しいように思いがちです。でも暗闇や弱さを置き去りにしている限り、自分の短所や心の闇の力は衰えることなく、かえってあなたを支配するようになる。こういう道(生き方)を選ぶより、神さまの前に暗闇を明るみに出し、自分も勇気をもって対面すると、その結果報われる。つまり神の国があなたとともにある、ということではないかと思うのです。
そして、自身の弱さや闇を末席へと押しやるのではなく、それらに「上席」をすすめる方がよい、つまり神さまの前で、一番目立つところに置くようにおっしゃっているのではないでしょうか。ふだん見たくない心の闇を軽視せず、神さまのみ手の中でその先どうなっていくかを委ねつつ、神さまに信頼することに徹底する、ということではないかと思うのです。でしょうか。それはつまり、闇自体が「恥」なのではなく、それらを軽視し隠そうとし、これは自分の一部ではなく本当の自分はもっとちがうはずだと思い込むことこそが、神の国では面目がないことになるのではないでしょうか。弱さや闇は、わたしたちに苦痛を与えますが、その苦痛は、神さまに招かれることを待っている苦痛なのではないでしょうか。
新聞やテレビにもよく登場する「狭き門」ですが、いつのまにか聖書から離れて一人歩きをし、「なかなか入学できない偏差値の高い学校」などのイメージから、人を押し退けてでも前に進む情熱や、場合によっては腕力を持った人だけが突破できる課題、といった意味で使われます。そしてどこかで「門に入れなかったその他大勢ではない」といった視線すら含まれているように感じます。「狭い門」を通過できた人は、いかなる門をも突破でき、人生の選択肢が広がる「選べる側に立つ」という誤解さえ生まれます。でも聖書の中の「狭い戸口」は、他の人と比べて云々という概念はないのです。その「戸口」は、神さまが「わたし」のためにつくってくださった特別の戸口なので、他者と競い合って獲得する必要はなく、じっと静かに通るべき人が発見するまで待っている忍耐強い戸口。「わたし」のために神さまが作ってくださった戸口なので、本人以外は「狭くて」通ることが出来ない、そういうことなのではないかと思うのです。
多くの人は、誰でも入れて行き来しやすい、安全で気楽そうに見える戸口に殺到します。みんなが行くからきっと良い門なのだ、とりあえずここから入っておこうと思うのでしょう。しかし、広々とした門を選ぶ人々の心の根底には、自らが決断した結果ではなく、評判がいいから、みんなが行くから、常識的に考えて間違いないから、という気持ちがあるのかもしれません。
小さなことを人任せにし、自分で判断しない癖がつくと、やがて重要な決断をしなければならない時も、つい周りを見回して「みんなはどうしているのだろう」が先立ち、(もちろん周囲の圧力もあって)気がつくと「広い戸口」の方へと流されている、というのが現実なのかもしれません。
神さまが創った「あなた」のための戸口を探す旅は、容易ではないかもしれません。投げ出したくなる時もあるでしょう。「入れなかった」という体験談を聞くと不安にもなります。でも、わたしたちがこの世に命を受けている以上、必ず「わたしの戸口」が存在し、見つけられるのを待っている。それは「わたし」というかけがえのない存在を認知する人生の入り口でもあるでしょう。「わたしの戸口」を見つけ、そして自ら通って入る決断をすることができた時、もっとも自由で喜びと感謝に満たされた人生へと招かれるにちがいないのです。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.17
ルカによる福音書12:49-56
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」と言われると、破壊や暴力を肯定し、人々を捻じ伏せ従わせる「神」のイメージが浮かび、イエスさまよ、結局あなたも同じか、とガッカリするかもしれません。わたしたちの身近にある「火」は、生活の便利に貢献する文明の利器であると同時に、戦乱や犠牲を生む圧倒的な破壊のイメージもあるからです。しかしこの言葉に続いてイエスさまは、ご自分の「洗礼」のことを語ります。これは、物理的な洗礼の話をしているのではなく、人として生まれて短い生涯を過ごし、最後は裏切られ捨てられ殺害される十字架の出来事のことを言っておられるのではないかと思います。(人々の間に)火を投じ、それが燃えて(広がる)ことは、時には依存で成り立っていた人間関係や、頼りにならない(例えば偶像)ものに縋りつく生き方にひび割れが生じます。すでに形骸化した慣習や、神ではなく支配者が作り出した掟が無力化することを恐れ、これまでの状況を維持したい支配者階級は、なんとかして「愛の神」のことが伝わらないよう抵抗します。イエスさまからの呼びかけに、最初は破壊と喪失への不安を感じたとしても、むしろそれは、どんな人をも見捨てない神さまの愛情なのであり、それが「火が燃えていたら」と願うイエスさまの発言の意図ではないかと思うのです。
それは、体裁を整えることを目的とする、なまぬるい「安心」とはほど遠いもので、神さまの本質について語っているのでしょう。せっかく今、安定してうまくやっているのだから、それをあれこれ言われたくないという気持ちも、正直なところ、わたしたちの中にはあるのだと思います。苦しい目にはなるべく遭いたくないし、損することを避けるため、家族の中で孤立したくない、世間から後ろ指をさされたくない。でもそれを最優先させて生きていると、どんどんイエスさまの十字架から離れていく、神さまの愛からも離れていく、そんなことへの警告でもあるのでしょう。
何かを失うことには誰でも恐怖を感じます。変化もまたわたしたちを不安にさせます。でも、その怖さに直面しないで済むために、パリサイ派の人々や律法学者たちは人々をコントロールし、「愛」とはかけ離れた神を提示し、人々を管理しようとした。不安や恐怖に縛られるのではなく、そこから自由になりなさい、とわたしたちを招いてくださるイエスさまです。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.8.10
ルカによる福音書12:32-40
今日の使徒書は、アベルやアブラハムを例にして、「望んでいる事柄」と「見えない事実」とを、正しく識別する必要性について語っています。自分が望む事柄は、それは他でもない神の望みから来ており、しかし容易には受け入れ難い=「見えない」事実でもあります。これは、目を瞑り思考停止し神に従っていればよい、という考え方とは対極をなすテーマで、むしろ神の望みを正しく識別しようとすることこそが信仰であると言っています。それはつまり、神の「望み」とわたしたちが正しく出会ったとき、わたしたちはさらに自由になり喜びと感謝に満たされる、ということを示しているのではないでしょうか。神の望みを主体的に知ろうと決断するまで、わたしたちを忍耐強く待つ神という姿も伝わってきます。
兄に殺害されたアベル(創世記)は、もはやその肉体が存在していないにもかかわらず、神に対する信頼を実直にあらわしてきた彼の生き方が、人々の心に語りかけ、今もなお影響を与え続けている、と聖書は語ります。またアブラハム(出エジプト記)は一家の長として、カルデヤのウルで安定した生活を送っていましたが、行き先すら示さない神の「行きなさい」との言葉に信頼しました。外国人としての不安定な生活や、当時の権力者たちによって命さえ危うい状況も、おそらく想定していたでしょうが、彼はそれを神の望みと識別し、すべてを残して家族と共に出立します。
彼らの物語は数千年前の「ご苦労された人々」という昔話ではなく、わたしたちにかかわっています。神が望んでいる事柄と自分のエゴとをどうやって識別するのか、そしてまだなんともかたちのない神からの招きを、どうやって神の計画と認識するのか、それは実は単純なようでいて、非常に識別の難しい問いです。どうしても最初に「損か得か」と思いがちで、また損得ではなくても「どうしたら、皆に受け入れてもらいやすいか」と考えてしまう。しかし、誰にも理解されなくても、神さまへの信頼=信仰を、心の中心に据えるという魂の決断があるなら、死んでもなお人々に影響を与え続けるという、なんとも壮大な話です。そういう意味でもわたしたちは、変化を恐れるのではなく、識別は誰かがやってくれると思う誘惑を、恐れるべきではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.3
ルカによる福音書12:13-21
人は誰でも物質的な充足だけでは「幸せ」にはなれないようです。でも、物質以外となると、「心豊か」であるとか、「ゆとり」などの言葉が浮かぶかもしれませんが、一体どうしたら、心や魂を充足させることができるのかは悩むところです。時間が出来たら楽しく没頭できると思っていた趣味も、家の片付けも、時間ができた途端にすっかりやる気が失せたという経験は、どなたにもあるかもしれません。ことに目的が「自分のため」に終始してしまうようなとき、なんであんなに楽しみにしていたのか、わけがわからなくなったりします。
ある社会学者が、被験者に「どのように使っても良い」と言って、1000円相当を渡し、一定時間後に再び集合。そしてドーパミン値を測る、という実験をしたそうです。ある人は前から欲しかった本を買い、ある人は大好きなお菓子を買って家族で分けて食べ、ニコニコ顔で戻ってきました。その人々の値もそれなりに立派だったのですが、お腹を空かせたホームレスの男性に食べ物を買って渡した人、親とはぐれて泣いている子どもに寄り添った人など、「何かを必要している他人のために1000円を使い切った人」のドーパミン値が一番高かったそうです。ドーパミンの分泌=「幸せになる」とは言えないかもしれませんが、神さまは人間をそういうふうに創って下さったのかもしれないと思いました。自分の欲を満たすことより、自分の家族や親しい人々を満足させるより、むしろ見返りを受けることのない「他人」の必要を満たした時、わたしたちは根源的な「幸せ」を感じ、そこに真価を見出すのではないでしょうか。そして、それこそが「神の前に豊かになる」ことなのではないでしょうか。
これは、気前の良い人になろうという薦めではなく、もっと空気を読みなさいというお招きでもなく、「私が幸せになる」ことへの真っ直ぐな回答であると思うのです。もっと幸せを感じたい時は、どんな人が周りに居てどのような必要があるのか、見回してみましょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.7.27
ルカによる福音書11:1-13
「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれません。でも、ここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる」神さまを信じなさい、という話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。
少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「希望しているのはこういうことだ」と腹を割って伝えるのは躊躇してしまうものではないでしょうか。つまり、何かを言葉にして相手に伝えようとする時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見込みがあると信じて、思い切って言葉を絞り出している、とも言えるでしょう。
でももし「祈る」ことについても同じようにとらえていたら、神さまを自分の希望を叶えるマスコットのように考えている可能性があります。変えていただくようなことは特にないという前提で、「わたしたちの罪(的外れ)をお赦しください」と唱え、飢えるはずはないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、受けている恵みを、むしろ「当たり前だ」と思っていることを暴露している証拠かもしれないのです。
神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたちは、神さまの考える「最善」が必ずしも見えているとは限らない。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと導かれていくのではないでしょうか。神が聞くなら祈ろう、ではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、とてもシンプルですが、だから難しい。それが祈りではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.7.20
ルカによる福音書 第10章38~42節
マルタとマリア。二人の生き方を、しばしば比較されながら語られる物語です。当時の女性たちに求められていた「甲斐甲斐しく食事や快適さを提供する家事」に生きるマルタと、非生産的な態度をとるマリアとの対決!のように読んできたのかもしれません。
マルタとマリアは姉妹で、イエスさまの友人です。この姉妹にはラザロという兄弟もいて、彼らの住む村に立ち寄る時は、イエスさま一行を自宅に招き、おもてなしをしていた様子でした。マルタはしっかり者で家事を切り盛りし、家族や親戚からも信頼されているお姉さん。この日も、イエスさまとお弟子さんたちが村に来るというので張り切って準備をしています。どんなふうにおもてなししようかとワクワクしていたかもしれません。一方、妹(聖書にはどちらが姉か妹かは書いていません)のマリアは、イエスさまが到着されると、お弟子たちと一緒に座り込み、食事の手伝いもせずに、平然と話を聞いている様子。マルタは「私だけが忙しいのは納得できない、手伝うよう言ってください」と、当時の常識をイエスさまに押し付けます。「おお、これは悪かった。マリアは女性としての役割を忘れていたね」という応答を、マルタは期待していたのかもしれませんが、イエスさまの返事は「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」でした。
時にはこのようなマリアの行動は命懸けだったかもしれません。でもイエスさまはあっさりとその境界線を越えました。社会の風習よりも、マリアが自分で選択したことを尊重すると、イエスさまはマルタに告げます。
わたしたちも生きている以上、社会の常識や掟に従わざるを得ないことは多いでしょう。時には常識の壁が立ちはだかり、行動や言動を制限されることもあり、またその壁を越えようとすると、越えさせまいとする大きな圧力に、押し潰されそうにもなるでしょう。でもマリアは、他の人と比較した上での「良い方」を選んだのではなく、マリアにとって「良い」と信じる道を選んだ。そのことをイエスさまは「良い」と言っておられるのではないでしょうか。わたしたちそれぞれにとって何が「良い」道なのか、見えない時もありますが、人の思いではなく、欲に駆られてでもなく、神さまと相談しながら「私の信じる良い」を選びたいものです。
神学生 アンデレ 川島 創士
2025.7.13
早いもので本日の主日が前期の実習としては最後の主日になりました。あっという間の実習でした。もっともっと皆さんとお話しすることがあるのに残念ですが、とりあえず本日がひとまずの区切りになります。今日は今更ですが、自己紹介をしたいと思います。どんな思いで神学校に行くことになったのか、これまでの自分の歩みを簡単にお話ししてみたいと思います。
私は長野県の岡谷市という諏訪湖のほとりの小さな田舎町で育ちました。高校生までは週5日間の水泳に明け暮れ、将来の夢を競泳の競技者かトレーナーやコーチに定め、専門学校へ入学するためにいち早く専門科目を先取りして自主勉強に必死でした。毎日の忙しい生活の中にも、ヴァイオリンという楽器に出会うことで音楽の癒しがある恵まれた生活であったと思います。
そんな私にとって、人生の転機となり信仰の原体験とも言える出来事になったのは、高校二年生の時の祖父の死の出来事でした。献花の際に弾くヴァイオリンの練習のために何度も教会に通い、その度に信仰者として歩んだ祖父の足跡を証しのように聞きました。しかし、やはり家族との別れは心身ともに疲労困憊をもたらし、しばらく微熱が止まらなかったように思います。その時、私たち家族に救いの言葉をかけてくださり、一緒に涙を流しずっと傍にいたくれたのが、信徒の皆様でした。その時私は、家族のように祖父の死を悼む交わりが教会にはあり、その交わりに私自身が生かされている不思議をみました。どうしようもない辛さや悲しみに、向こう側から近くに来て、「大丈夫」と傍にいてくれた教会の皆さまの背後には主イエスがいてくれたのだと思います。
ここで本日の福音書に目を留めたいと思います。エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える話です。この旅は十字架を経て天に向かう旅であると同時に、神の国を告げる旅でした。イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことでした。たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚れることを避けようとしたのでしょうか。一方で、三番目に登場したサマリア人は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱しました。
よいサマリア人の例えは、「私の隣人とは誰か」という問いを巡る律法学者と主イエスのやりとりを軸に、必ずしも近くにいる人だけが「隣人」なのではないということ、そして、愛について言葉を無意味に費やすのではなく、まず駆け寄る、近づくことが大切だと言われます。
「行ってあなたも同じようにしなさい」。とても印象的な言葉です。心身ともに、あるいは物理的な距離が近い隣人さえ愛せない私たちですが、その私たちに向こう側から近づいて抱きしめ、あなたのままで良いと言ってくださる主イエスがいる。葬儀の経験から以上のようなことを抱きしめ、感謝のうちに聖職への志願を自然のうちに決断したように思います。皆様の出会えたこと心から感謝申し上げます。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.7.6
マタイによる福音書5:6-9
今日は「ウェルカムサンデー」の第2回目、「心の平和」をテーマに礼拝をお捧げします。「平和」という単語を口にするなら、戦争や戦乱のない世界を求めて祈り、行動を起こすべき、と思われるかもしれません。「平和」が、もし個々人の心の平穏に留まることに終始してしまうなら、それは問題ですが、その一方、ご自分の心を「平和」に治めることのできない人が、政治的な「平和」に乗り出すことは、かえって「平和」を遠ざけてしまう危険があると思うのです。世界の平和を求めつつ、まずはご自身の中に平和を求める心があるのか、神さまが与えてくださる平安と共に生きようとしているか、むしろその方が先ではないかと思うのです。
「キリスト教用語」を振り回さずに、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りますが、0歳からのこどもも一緒の礼拝では、なかなか難しいかもしれません。でも心の平和は理屈ではないし、一緒に「体験する」ということの方が、しっくりくるかもしれません。そんなことも含めて、みんなで試行錯誤すること、そしてご自身の魂にそっと手を添えて対話するという経験の積み重ねが、平和へとつながると思うのです。これは、長い信仰生活を体験する人も、今日初めて教会に来た人も、イエスさまの生き方を目指して走るスタートラインは同じです。
礼拝のお作法を知り、礼拝に慣れていること、またスラスラとお祈りの言葉を唱えられることが、「本当に祈っている」ことでもないでしょう。カタチを踏襲するのではなく、大切なのはその中身です。なんとかして「あなたが大切」であることを伝えようとされている、神さまの働きに参与したいのです。それはたとえ一期一会であってもかまいません。「無条件に愛され」「尊重される世界観」に触れていただくこと。そして、あなたが幸せに生きることを、何より望んでおられる神さまの切実な願いに触れることが、今日の礼拝の目的です。自分のことだけではなく、今、あなたの心の中で覚えている人々、ひっそりと心配している人々のことも含めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
たくさんの人と一緒に何かに取り組むとき、相反する意見や立場、感じ方のちがいがあって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じることがあります。その一方で、目的や内容をより良いものにするより、誰と一緒にやるか、誰の味方をするか、そちらを優先する場合があるかもしれません。ケースバイケース、どちらの方法も必要なのだと思いますが、今日の福音書でのお弟子たちの言動は、どちらかというと、後者に偏っている印象を持つのは私だけでしょうか。イエスさまの言っておられる中味を理解しよう、真髄を汲み取ろう、ということではなく、「自分たちはイエスさまの味方だ」という思いに留まることで、むしろ本題から離れていく危うさを感じます。
ご自身の身に起きる出来事にことについて、また福音の中味について、イエスさまは一生懸命語ってきましたが、お弟子たちは理解するより、自分たちが目指していることの方が大事です。それに合っているなら聞き、合わないなら聞き流します。意味が理解できなくてもイエスさまについて行こうとするお弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なので、そこに加わる意思のない人間は排除してもかまわない、と思っていることが暴露されるような言動をしてしまいます。
ここに登場する「サマリア人」は、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになったグループです。ユダヤ人は彼らを見下していたので、付き合いを絶つのがお約束でした。そんな壁を乗り越えてサマリア人の村に寄ったのに、自分たちを歓迎しなかったからには天罰を受けて当然、と弟子たちは憤ります。また、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人もいますが、自分自身の生き方を変えない範囲で付き合いたい、何か有利なことがあるなら取り入れたい、と言っているようにも聞こえます。
こういう態度は、わたしたちにとっても無関係ではないでしょう。礼拝やイエスさまを知っている、だからそうではない人とは違う、という思いがあるなら、また、自分の生き方にとって都合のいいことを「採用」してイエスさまに従っていると思い込むなら、それは本当の意味で、「イエスさまの味方」なのかどうか怪しいものです。本物のイエスさまの味方になるには、簡単ではないけれど、自分の弱さや不完全さから逃げないで、徹底してみ言葉に生きることなのでしょう。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.22
ルカによる福音書9:18-24
お弟子さんたちと一緒に過ごした3年間という限られた期間に、イエスさまにとって様々な苦悩があったことは想像できます。一番伝えたい「愛の神」を語っても「そんな抽象的な話ではなく、さっさと支配者を失脚させてほしい」「民衆の賛同を得るには、もっとわかりやすい奇跡を」「この社会を率いるカリスマになってほしい」など、何もわかっちゃいない弟子たちです。特に今日の福音書は、「五千人の養い」の直後に位置しますから、パンと魚を分かち合った奇跡を体験して、お門違いの方角に走り出しそうな弟子たちに、立ち止まってもらいたかったのかもしれません。イエスさまが地上に来られた目的、それは権力や名声、地位ではないと頭で はわかっていても、心のどこかでは、その存在が万人に理解され、やがて一緒に行動する自分たちもまた、社会の構造や体制をひっくり返すような大改革にたずさわる者として歴史に名を残す。そうなったらいいかもしれない、と考えているような、そしてこの最初の予告を聞いても、何のことやらといったお弟子たちの反応が目に浮かぶようです。
では、聖書からそんなお弟子たちを読み取っているわたしたちはどうでしょうか。粛々とイエスさまが命がけで伝えられた「愛の神」とともに生きるより、イエスさまのご生涯に倣うより、そして不完全ながらも地上に遣わされた尊い時間を感謝して抱き止めるより、別のことを望み見てはいないでしょうか。教会によりたくさんの人が集まり「経営」が安定すること、神さまに信頼するより自分の安心を優先すること、神さまの思いではなく、人としての欲を満たそうとすること。それは一方で、神さまがわたしたちを造られたそのままの姿ではなく、限界と弱さと不完全さを切り捨て、いわば歪んだ姿を描き、その中に自分自身を無理矢理嵌め込んで「安泰だ」と言っている姿のような不自由さを感じるのです。
不都合なことは見たくない聞きたくないというお弟子たちの姿は、裏を返せば、わたしたちの姿でもあるのでしょう。受け入れるのがなかなか辛くて、つい後回しにしそうですが、人としての限界を認め、弱点だらけの自分を否定せず、しかし神さまの愛を心の真ん中に置いて、粛々とそれを伝え続ける人生、それが「自分の十字架を背負う」ことではないでしょうか。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.15
ヨハネによる福音書16:5-15
先週のトピックスであった「聖霊なる神」の次は「三位一体」。難題が続きますが、神さまは私たちを悩ませるために、わざわざむずかしい話をしているわけではないでしょう。
聞いたことがあるかもしれませんが、「弁護者」という言葉は、「援助する人」「人のために語る者」「助け手」などの意味もあります。つまり目に見えず、音波としては耳から聞こえず、手で触ることもできないが、一緒に居てくださり、わたしたちを支えてくださり、そして必要な言葉を与えてくださる存在として、神さまが送ってくださったのが聖霊なる神であり、それは父なる神、子なる神と別人格ではないという話です。しかし、存在証明ができず、客観的な証拠も挙げにくく、手応えも感じにくい存在を、なぜ改めて「造られた」のか、疑問は残ります。
しかしイエスさまは、重要なこともおっしゃっています。ご自分が「去っていくこと」こそが、お弟子たち(そしておそらく全ての人々)のためになる。そして、ご自分が去らないと、聖霊なる神はわたしたちと共にいることができない、と。これは交換条件ではなく、わたしたち人間の性質を、神さまが見抜いておられるからこうなったのではないか。地上に降り立ち、人々と生活を共にされたイエスさまが、もし肉体を持ったまま、数千年も生きながらえて人々の間にいたら、イエスさまを自分だけの味方にしたい人や、神を「所有」したい人々の欲が今よりもっとむき出しになり、争奪戦が始まるかもしれない。また、イエスさまの言質や行動を都合よく解釈する権威や、上手く利用しようとする人々が世の中で幅を利かせ「キリスト教」は愛や慈しみを伝える共同体ではなく、イエスさまの名を利用した支配と依存の組織ということになってしまうかもしれない。そんなわたしたちの「弱さ」を知っておられる神が、最悪の事態を避けるために聖霊なる神を送ってくださったのではないか。もし「神さまなのだから、もっとうまい方法があったはず」だから信じないと言うなら、その声がわたしたちの「都合」から生まれていないことを祈るばかりです。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.8
ヨハネによる福音書20:19-23
私事で恐縮ですが、今年3月から「霊的同伴」について学び始めました。その訓練の一環として、毎月の霊的同伴を受けると同時に、2名以上の方々の霊的な旅路に同伴することが義務付けられています。つまり実習です。そして、その実習体験の中から1つを選び、小グループでプレゼンをして、皆さんから疑問や問題点について指摘いただくのですが、今のところ「これだ!」というような発見には出会えていません。まさに暗中模索です。ZOOMによるディスカッションの難しさに加え、言葉の壁もあります。また、文化が違う人々に、なかなか伝わらないもどかしさもあり、一体どこに聖霊なる神が働いているのか見えていない初心者です。
あるときのプレゼンに、Aさんのケースを選びました。これは霊的同伴というより「牧会カウンセリング」になってしまったなと感じたセッションだったからです。そして、グループのリアクションとしては「この人の抱えている課題ばかりにフォーカスし過ぎる、神はどこにいるのか」という当たり前なものでした。でも、どうしたら牧会カウンセリングではなく、「霊的同伴」へと導けるのか、それがうまくできなかったからプレゼンしたのに、正論だけ言われても、という気分でした。Aさんと共に働かれている神がおられることを信じて、Aさんのストーリーを真摯に聞けば、神さまは何をなさろうとしているのか見えてくるはず、というのが私のスタンスでしたが、神さまに聞いているつもりでも、やはりどこかで、「達成目標」や「ゴール」を勝手に設定し、Aさんの課題を明確化したつもりになって、僭越にも「今回はこれに気づけるようにしてあげよう」といった私の限界や弱さが露呈した出来事だったのです。
三位一体の神のうちのひとつである「聖霊なる神」の存在を受け入れよう、その働きを理解しようとする過程の中で、しばしば自分が持つ限界や弱さに直面することがあります。それは、神の存在や働きをわかったつもりになりたい自分との対決です。長い間苦心して取り組んできたことが実を結べば、自分の能力と努力の結実だと思い込み、一方、自身の価値観の中でもがき、何をやってもうまくいかないと「神さま、どういうおつもりですか」と嘆いてしまう。それはあたかも、自分が神を所有しているかのような心の動きです。天地を創られた父なる神の存在は必要だろう、2千年前に赤ん坊として生まれた子なる神も必要だったのはわかる。では、何だかピンと来ない聖霊なる神の必要性はなんなのだろうか、と。
イエスさまは、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。でも、それまで聖霊が離れていたわけではなく、共におられる聖霊なる神の存在を認識し、その働きに支えられて生きるよう、促して下さったということではないかと思うのです。
「聖霊を受けなさい」と呼びかけたイエスさまは、続けて罪を赦す「権威」の話をします。でもそれは、罪を赦す魔法の力を弟子たちに与えるという意味ではなく(「罪」という言葉には「まとはずれ」の意味があるので)、まとはずれな生き方をしているたくさんの人々の解放のため、手を貸してください、というお招きの言葉なのではないかと思うのです。つい目の前の利潤や好条件に飛びつき、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力み、どんどん自分を不幸にしてしまう「まとはずれ」から自由になれるよう、人々を支えなさいという命令であり、やがてそのお手伝いをするために弟子たちは派遣されていったのでしょう。つまり、罪からの解放は、選ばれた人だけが受ける特権ではなく、解放されて生きる生涯は、すべての人に開かれている、という宣言なのでしょう。
人々の間に愛が広がるためなら、なんでもしようとしてくださる神さまの意思を受け止め、思い込みと偏見を拭いつつ、聖霊の働きを邪魔しないよう生きていきたいと思います。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.1
先週の木曜日は「昇天日」。それは、復活ののちにしばらくの間、お弟子たちと過ごしたイエスさまが天に帰られたことを記念する日でした。それに伴い、復活のろうそくも片付けますが、置いてあった場所が、妙に「空いている」ことを強く感じさせられます。考えてみればわたしたちも、家族や友人と一緒に過ごしたあと、その人が去ってしまうと、妙な空虚感に囚われるときがあります。これは想定内のこともあるし、あるいは「こんなはずではなかった」と思うくらい、心が折れている時もあるでしょう。
イエスさまを十字架上で失い、その死を避けることができず、声を挙げることすらできなかったお弟子たちが、イエスさまが三日後に現れて、それらの苦しみから解放して下さいました。しかしそのままずっと、イエスさまにすがりついて(というか、イエスさまを縛り付けて)過ごし、やがて依存と支配の中で上下関係が作られ、自立できなくなることは、復活の目的ではなかったはずです。神さまが人々を顧みて、イエスさまという人間のかたちをとった方を送り、その口を通して神の意志を語り、人間としての生き方そのものを伝えられた。ご復活は、その生涯が「失敗」でもなければ、伝えられた内容が「虚偽」でもなかった。そのことを伝えるために、わざわざもう一度地上に降りられた、そういうことなのではないかと思います。
イエスさまは丁寧にも、やがてやってくる別離の準備のため、常にわたしたちと一緒にいられるよう、聖霊なる神を送ってくださる約束をしています。それは、肉体を持たない神であり、わかりにくいし、ぴんと来ないと感じるかもしれませんが、それはわたしたちの持つ限界や不完全さと関係しているのかもしれないと思います。
今日の使徒書に「占いをして、主人に多くの利益を得させる」女性が登場しますが、この存在も、人々の間に依存と支配の関係を生み出しています。そして、都合の良いことが目の前にぶら下がっていると、ついそれに飛びついてしまうわたしたちの限界をよく知り、受け止めてくださる神は、昇天日まで用意して下さって、依存でも支配でもない世界に生きよ、とわたしたちに呼びかけておられます。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.5.25
ヨハネによる福音書14:23-29
今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。十字架前はイエスさまの言うことをあまり理解できなかった弟子たちが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、主の平和の意味を知り、イエスさまの愛の深さが心に届くと、恐れを捨てて遠い国々まで福音を伝え始めました。
そしてこのリストラにやってくると、生まれてから一度も歩いたことのない人に会います。「一度も歩いたことのない人生」とはどういうものなのか、想像しかできませんが、さまざまな「不便」と共に生涯を送ってきたことでしょう。また行動上の制限だけではなく、身体や精神に不調をきたすのは、神の恵みから漏れている証拠、見捨てられた男と理解されていた当時の社会では、その人の社会的居場所があったかどうかも疑問です。しかしこの人は、イエスさまの事を知り、話を聞くためにやってきて、パウロ(この人はイエスさまと直接行動を共にしたわけではありませんが)と出会い、尊厳ある人間としてじっと見つられると、歩けなかった人が立ち上がります。それは、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げ、神さまが自分を愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんな心の内部の立ち上がりのようにも見えます。
ところがそれを見ていたリストラの町の人々はこの出来事を見て、弟子たちが信奉する存在を、自分たちの味方にしようと考えます。つまり、自身自身の何も変えないが、でもその力にはあずかりたいという心境です。素朴な信心のようにも聞こえますが、その根底には、都合よく操作できる神という、勘違いの構図が透けて見えます。わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので態度が変わる神さまではありません。わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられ、真の平和を教える神です。
旧約聖書の人々は「律法」と呼ばれる掟を大切に守ってきました。その出発点は人々を縛るためのものではなく、人生を進む上での道しるべであり、神さまが人類に与えて下さった約束であり、神とともに生きる方法を明確に述べた指標のようなものでした。人々はその掟を守り、喜びに包まれ幸福な生涯を送るため、神さまのみ旨に叶うこととして尊重してきました。それは、正しいこと正しくないことが明記されていただけではなく、崇高な助け合いの精神があり、神と人への誠実さでもありました。
ところが時代が進み、世代交代すると、掟の真髄や精神ではなく「かたち」に固執する人々が実権を握るようになっていきます。掟の総論だけでは伝統は守れないと、不必要なまでに掟の細部まで規定し、結果的に「掟を守れる人」は神に愛れる人、「掟を守れない人」は駄目な人、といった「区別」が始まります。さらにこの区別は、指導者たちにとって都合の良いシステムとなり、人々を支配するようになります。
そんな時代にイエスさまが現れ、すべての掟に優先されるのは、「互いに愛し合う」ことだと教えます。この「愛(アガぺ)」は「何かをすれば愛したことになる」といったわかりやすいものではありませんでした。人によく思われようとみんなから見える場所に立って長々と祈る宗教者の姿や、相手に取り入り感謝されるために親切なふりをすることなども、聖書に登場しますが、これらは「愛」ではないので、相手から感謝されないとがっかりしてしまいます。
イエスさまが教えてくださった愛は、無条件で見返りを求めず、人を「お大切」するためのものです。「自分を殺して相手に尽くす」のも違います。自分をお大切にするを知らなければ、決して他者をお大切にすることはできないでしょう。ひたすらイエスさまの愛に倣うことなのでしょう。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.5.11
ヨハネによる福音書10:22-30
教会では、イエスさまを羊飼いに、イエスさまについていくわたしたちを羊にたとえる習慣があります。それは聖書の中で「わたしは良い羊飼い」と、イエス自身が言っておられることもありますが、当時の人々にとって特別感のない、身近でわかりやすい喩えだった、ということなのでしょう。都市に住むわたしたちには、電車や地下鉄を利用するのが当たり前のように、その時代は羊や山羊は人間の生活の一部でした。
10年以上前ですが、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって来ました。思わず身構えましたが、その山羊たちはわたしを歓迎したのではなく、侵入者をチェックしに来たのです。威圧的な態度で私を睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。聞くところによると、山羊はテリトリー意識がとても強く、自分は飼われているという意識もないそうです。一方、羊ときたら正反対で、心身共に非常に脆弱で簡単にパニックに陥る。まわりに知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するかなど、あまり心配しない。それよりも自分の身を外敵から守ってもらい、メンタルの安定のため「群れの一部として過ごす」習性らしいのです。山羊も羊も個体差はあるでしょうが、羊の特徴を聞けば聞くほど、なんだか人間の話をしているような気持ちになってきます。
都合のわるいことを考えるよりも目の前の草を喰み「ああ、今日も良い一日だった」という羊と、わたしたちの少しの違いは、「イエスさまの声を聞き分ける」ことくらいかもしれません。それは、何も考えず従順であれということではなく、イエスさまがわたしたちに伝えようとされている良い知らせを聞き理解し、そして自らの責任において人生を選んでいくことではないかと思うのです。イエスさまからの声、それはわかりにくく、聞きたくない場合もあるでしょう。でも「聞き分ける」ことの力をすでにわたしたちに託して下さっている神に信頼し、人生の目的地に向かう決断ができる羊になりたいと思います。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.5.4
今日は「ウェルカムサンデー」という礼拝を、主日礼拝としてお捧げします。実は、「教会はそのつもりがなくても、十分には門を開いていないのでは」こんな疑問からスタートしたプログラムに、今年は挑戦してみることになりました。教会生活も長く、キリスト教用語に慣れているメンバーも頼りになりますが、その一方で、知っている仲間同志の親交をあたためることで留まっていては「教会」と言えるのかどうか、甚だ疑問だったからです。
そこで、あえて教会暦ではなく、「イエスさま」「心の平和」「ゆるし」「恵みと賜物」「いのち」という5つのテーマを挙げ、奇数月の第一日曜日に、10時から、(こどもフリースペースの礼拝とも合体させた礼拝をお捧げすることにしました。昔の言い方だと「伝道集会」かもしれません。
「キリスト教用語」を振り回さず、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りました。礼拝はハツ体験、という方にどのくらい近づけるか、それは早急に判断できないことですが、その一方、わたしたち教会の内側にいる者にとって、みんなで試行錯誤することによって、自分自身が問われるという経験にもつながると思うのです。それは、「三代目のクリスチャン」であろうと、年齢=信仰歴のベテランであろうと、「初めての方」と一緒に礼拝する、という準備を通じて、自身の信仰生活をさらに深くふりかえり、神さまにより近づき、そして霊的生活がさらに成熟していく体験にも繋がると思うからです。
礼拝を通じて「礼拝のお作法」を押し付けたいのではなく、なんとかして「あなたが大切」と伝えようとされる神さまの働きに参与したいのです。それは、たとえ一期一会であっても、この世の価値観とは異なる「無条件に愛され」「尊重される世界観」への招きであり、万人が幸せに生きることを望んでおられる神さまの切実な願いの共有です。今、あなたの心の中に浮かぶ人、心配だけれどそっと遠くから見守っている人も覚え、その方々の幸せを心からご一緒に祈りたいと思います。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.4.27
ヨハネによる福音書20:19-31
イースターを迎えた教会は、まるでいのちを吹き返したようでした。礼拝堂が人でいっぱいになる恵み、みんなで一緒に歌うイースターの聖歌の恵み、そして3名の方が洗礼を受けられた恵み。喜びと感謝が溢れました。そのイースターの次の日曜日は、毎年同じ聖書が読まれます。(教会の暦は、A年B年C 年という呼び方で3年一周期となっており、それぞれ読むべき聖書箇所が指定されています。今年はちなみにC年です)そのようなわけで、通常は4年目にやっと同じ聖書箇所を読むことになりますが、イースター後の日曜日は、このトマスの物語を読みます。毎年読むほど、何がそんなに重要なのでしょうか。
ところで、十字架上で亡くなり三日目によみかえったイエスさまを、最初に発見したのはトマスではなく女性たちでした。他の人々が恐怖で震えて何もできないでいる中、彼女たちは現実的でした。行動を起こす元気があったからではなく、もう居ても立ってもいられなかったのでしょう。夜が明けるのを待ち、申し合わせて香油を携えて墓に行き、そこで何かが起きたことを知ります。そして「イエスさまは居なくなったのではない、私たちと共に今もおられる」と言い広めはじめます。一方、いわゆる十二弟子と呼ばれる中心人物たちは、次は自分が逮捕され殺されるのではと、息を潜め引きこもっていました。当時の支配者による処罰も恐怖でしたが、なんと言ってもイエスさまが殺された、精神的なショックは何よりも大きかったでしょう。この先どうしたらいいのかわからない、神さまの計画について相談することもできない、ないない尽くしの中、たとえ命があったとしても、一体何になるというのだという気持ちだったと思います。
イエスさまは、そんな弟子たちを気にかけられたのでしょう。彼らが鍵をかけて籠る家にイエスさまは現れたけれど、その時なぜかトマスは不在でした。後にイエスさまの訪問を聞いたトマスは、喜びモード溢れる弟子たちを前に「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。素直に喜べばいいのに、一番聞きたかったニュースのはずなのに、トマスは簡単には受け入れません。自分以外のお弟子が「イエスさまは生きてここに来た」と口を揃えて言っても、「わたしは信じられない」と返すのは、なかなか勇気のいることです。「追い詰められた末の集団幻覚」と解釈し、こっそり心の距離を置く方が安全だったかもしれません。ところが、このようなトマスのために、イエスさまは再び現れてくださいました。そして信じられないトマスを叱るのではなく、直接「さあ、この傷に触りなさい」と語ります。それは、うわべを取り繕うのではなく、信じたつもりになるのでもなく、正直に自分の「信じられない」限界を認めるトマスの謙遜さに、そっと触れてくださるイエスさまのやさしさです。
わたしたちも、「信じたつもり」になっていないかどうか、時々 自分に問うことが必要かもしれません。神さまを全面的に信じているときも、信じたつもりになっているときも、そして信じられないという気持ちでいるときも、変わりなく愛で包んでださる神さまが共におられる。そのことを忘れないで、勇気を持って自分の弱さをも受け入れていきたいと思います。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.4.20
ルカによる福音書24:1-10
復活の物語は、女性たちが助け合いながら、勇気をふるってお墓に行くシーンから始まります。イエスさまは、大勢が見守る中で十字架にかかって亡くなった、それはもう動かし難い事実です。人生をかけて数年間、関わってきた人々にとっては、すべての希望が消え生きていく原動力も失い、漆黒の闇に突き落とされた気持ちだったのにちがいない。眠れぬ夜を過ごした女性たちは、それでも勇気をふるい夜が明けるとお墓に走ります。お墓は空っぽでしたが、狼狽えていると、見たことのない2人からこう告げられます。(イエスがガリラヤで言っていた事を)「思い出しなさい」。
わたしたちも大切な方が亡くなったとき、神さまにその方を守ってくださるよう平安を祈り、そして残された方々の寂しさや悲しさを担い合うことに努めます。でも「思い出しなさい」というこの投げかけによって、女性たちは、さらにプラスのミッションがあったことを思い出しました。それは、「 大切な方を通じて受けた恵みを、あなたはどのように生かしますか」ということです。イエスさまに縋りついているだけではなく、悲しみや喪失感に浸っているだけではなく、こうなることは告げてあったのに、それまでにいただいた恵みや新たに拓けてきた世界のことを、どう他の人々に語り継げるのか、ということをスッカリ忘れていたわけです。でもそれは、「その人がどんなに偉かったか」を話題にするということではなく、自分自身が受けた恵みについて、神がどのように働かれていると見るのか、何を伝えていただいたか、そして現在の生活の中で、何をどう実践していくのか、と聞かれているのではないでしょうか。
一方のイエスさまも「生き返って元に戻った」のではないと思います。諸説あるでしょうが、100%神で、100%人間だったイエスさまは人々と共に生き、その使命を十字架という出来事によって完結した。どこからどこまでが神でどこからが人間か、という区分は難しいにせよ、人間の部分のイエスさまは終了し、神の側のイエスさまが戻っていらした、そんなイメージではないかと思うのです。日本語の「復活」は、どうしても「過去の姿に戻った」印象が強いですが、十字架が敗北ではなかったこと、神は人間を捨てていないことを、お弟子さんたちをはじめ、かかわった人々に、そしてわたしたちに知らせるために、今度は、今まで現れなかった神の子キリストとして、その身を起こしてくださった、それがイースターではないかと思うのです。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.4.13
ルカによる福音書第22章14節~23章56節
いよいよわたしたちは、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の旧約聖書は、キリスト教の教会ではどんな神さまを信じているのか、をよく表している気がします。それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せる「えらい」神ではないのです。
現代社会に生きているわたしたちには「わかりやすい」ことが求められるので、わかりやすい説明やアプローチ、人に理解される行動を探し求めます。「私を納得させろ」という圧が当然のように存在し、納得させてもらえないなら無視するのも正義、そんな風潮さえ感じます。
そんな空気に慣れてしまっているので、人のために尽くしても対効果は見えにくい、人から尊敬されることもないという、イザヤ書に描かれた神は、「神々しい」どころか説得力もなく、“仕事のできない駄目印”(『大切なきみ』)をつけられてしまいそうなイメージすらあります。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかもその神は、病いや痛みを代わりに負った挙句、それらを他人事として見下していた人々に、怒りや天罰を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と、呆れるばかりの人のよさ。「キリスト教の神は何故そこまで卑屈なのか」と言われるかもしれません。
しかし神の目的は一つです。人々が誤解しようと見下そうと、「あなたが大切だ」というメッセージを、すべての人に届けたい。わたしたちの存在を愛したい神は、誰にも理解されない苦しみを、報われない惨めさを、孤独の中で見捨てられている辛さを、分かち合おうとする。そして上昇気流に乗っている時ではなく、わたしたちが「どん底」に居ると感じる時に、自ら暗闇に降りてきて、一緒に歩きたいと思っていることを伝えたいと思う神。それのために、イエスさまはわざわざ十字架にかかられた。このイザヤ書を繰り返し咀嚼しつつ、ご自分の役割をそこに投影されたのではないかと思うのです。そして短い生涯の最後に、与えられた使命を全うするために、十字架へと向かわれたのではないでしょうか。
電気のつけっぱなしなど、もったいないエネルギー消費や飢餓や温暖化も他人事、自分さえ良ければいいという思想は、明らかに間違っているでしょうが、残念ながら、他者の見当違いはすぐに目に止まるのに、自分がしているもったいないことには、なかなか気がつきません。世界でも珍しい「水道の蛇口から出る飲料水」を垂れ流しにしていても、心を込めて調理された料理をさっさと捨てている現場を目にすると、「もったいない」 と、ひっそり心が痛むことがあります。でもその深層には「心が痛む」 だけではなくて、無駄にしている事実を指摘し非難したい、という衝動が潜 んでいるかもしれません。
神さまは私たちに、「愛に生きてほしい」というメッセージを、無条件に無尽蔵に、諦めることなく送ってくださいました。それは、ある時は「律法」であったり「預言者」であったり、時代を越えてあの手この手を尽くされたのですが、人々は、苦しみや悲しみが喉元を過ぎればなんとやら。神さまの愛を軽視し、現実はそれよりも大きいと言ったりします。挙句の果ては、神さまの愛は何処 にあるのかわからないし、恵みや慈しみなんて見えないと、言い出す始末です。
今日の物語に登場する「しもべを虐待し、跡取り息子を殺害して財産を奪う農夫」とは、まさに神の恵みを無駄にする人々のことではないか と思うのです。もっともこれらの人は、神さまの思いを台無しにしよう と意図的に行動しているわけではなく、彼らの考える生活に必要な正義を貫いている思いなのかもしれません。しかし、目先の利益に固執するとき、わたしたちもまた、この農夫たちのように、神さまの愛や恵みを受けることなく、排水溝へと流してしまっているのかもしれません。
来週はもう棕櫚の日曜日。イエスさまは、まっすぐ十字架に向かって進んでおられます。十字架にかかってまでしてわたしたちに伝えたいこと。そ れは律法によるものではなく、預言者によるものでもなく、単純だけれどむずかしい「神と人を愛する生き方」なのでしょ う。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.3.30
ルカによる福音書15:11-32
レンブラントの「放蕩息子」の絵を見たことがある方も多いと思う。散々好き勝手をした挙句に財産を喰い潰して帰ってきた息子を、父親は肩を抱きかかえて迎える。本人の服はボロボロで足は怪我をしているのか汚れているのかよくわからない。光が当たっている父親の脇で、彼らを見下ろす兄と思われる背の高い男性は、冷たい視線の横顔だ。正面奥にいる人々は、そのあたりの闇に溶け込んでおり、心理的な距離さえ感じる。
この物語は、「ゆるし」をテーマとしてはいるが、「ゆるし」は、過去の痛みと怒りの体験にフタをすることではないし、怒らなくなれば「ゆるした」ことになるのか、という問題もある。また、ゆるせないのは、他人に対してだけではなく、自分にも向く。さらに他者を「赦したくない」という現実もある。そんな中で、「父親」はすべてを越えて、「いのちが回復されること」のみ喜ぶが、わたしたちがこの父親と同じことができるとは到底思えない。
実際、この物語は人間の「ゆるす/ゆるさない」の話ではなく、神はどんなときもわたしたちをすでに「ゆるし」てくださっていて、恵みによって自分自身に立ち返ろうと決心した場合、いつでも受け入れてくださる、という話なのではないかと思う。人間の側が「こんな自分では恥ずかしくて神の前に立てない」と勝手に決めても、神はそんなことより、「いのち」を選ぶ本当の意味で、その人が幸せに生きる道を見つけ出すことのみを願っておられる。
「いのち」は、その人にとっての生きる道。その人のこの世でのお役目を見つけ出すこと。それはそのまま愛に生きることでもあり、たとえ道に迷い、行き先がわからなくなっても、散々道草を喰っても、大きな手を広げて迎え入れてくれる神の存在がなければできないことかもしれない。
管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.3.23
ルカによる福音書13:1-9
痛みの事件からスタートの福音書です。みんなが礼拝をする神殿の内部で暴力がふるわれ、その人々が神さまのために捧げた動物と共に血が流されました。シロアムの給水塔が崩れ落ちる事故があり、たくさんの人が犠牲になりました。このような痛ましい事件や事故の記述は、飛行機事故や、つい先日のガザの空爆を思い起こします。それらをどうすることもできない無力感に打ちひしがれますが、同時に「自分たちでなくて良かった」という思いがあるとしたら、被害に及ぶ罪を犯したから彼らは被害に遭ったのに違いない、というロジックになってしまいます。そのことをイエスさまは、はっきり否定されたのでしょう。しかしながら、「悔い改める」というアクションが、悲劇を遠ざけるということではなくて、悔い改めのない人は、結局最初から空虚なものに縋りついているのだ、と語っているのではないかと思うのです。
後半に続くいちじくの木の話も最初は不可解です。1つ目の犠牲の話となぜセットになっているのか意図が見えにくい。ある本に書かれていたことですが、ぶどう園には当時、いちじくの木を植えるのが常識だったそうです。その目的は、ぶどうの木/つるをいちじくの木に這わせるためですが、同時に滋養のある実も収穫できるし、聖書の中ではいちじくは、よく登場する果実です。ところが、後半の「主人と園丁」の会話では、実がならないなら無駄だから切り倒せというやりとりになっています。実を収穫するいちじく畑ではなく、ぶどうの生育のために植えたはずなのに、なんだか目的が食い違っています。
わたしたちは毎年大斎節という機会が与えられています。それは我慢大会をする季節なのではなく、一番大切なことを取り違えていないかどうか、目的と取り組みが錯誤してしまっていないどうか、ご自分の生活を改めて確かめる、恵みの時なのではないかと思うのです。
聖公会信徒 グレース神志那愛恵
2025.3.16
ルカによる福音書13:22~27, 29, 30
「狭い戸口から入るように努めなさい」この言葉に触れる時、これまでずっと、狭い戸口から入ることのできる自分へと変わらなければダメだ!と言われているような、厳しさを感じていました。けれども今回改めて読んだ時に、イエスさまは「変わらなければダメだ、狭い戸口から入ることが出来ないとダメだ」と否定するようなことは一切仰っていなかったことに気付かされました。
狭い戸口から入りたくても、そのために自分自身を変えたくても、変わりたくても、言葉で言うほど現実は簡単ではありません。認めたくない/ありのままの自分を認めて受け入れるのも、とてもハードなことです。頑張りたくても、心が追いつかなかったり、めげてしまったりすることも沢山あります。イエスさまはその困難さをご存知だからこそ、「狭い戸口から入るように努めなさい」と勧めたうえで、「入ろうとしても入れない人が多い」と理解して下さっているように感じます。そもそも、「狭い戸口から入るために綺麗さっぱり変わり切った完璧なわたし達」を、神さまは望んでいらっしゃらないのでは?とすら思うのです。
わたし達が「狭い戸口から入るために変わりたい/変わろう」と心に決めたら、無理矢理ドアを開けようとしなくても、きっと神さまは内側からドアを開けて、食卓に招いてくださるのではないでしょうか。今日は良かった!と満足できるような日は一緒に喜んでくださるでしょうし、今日はダメだった…という日にはギュッと抱きしめて下さると思うのです。そして神さまの元で心と身体にエネルギーをチャージしたら、一緒に歩んでくださると信じています。不完全なわたし達のことを、決して神さまは否定しないでしょう。
そして、神さまと共に食卓を囲むよろこびを知ったら、「次に狭い戸口を入ろうとする人を、あたたかく迎えられるようになりたい」と思います。それぞれに狭い戸口を持つわたし達が、みんなで食卓を囲めた時、きっと神さまは心からよろこんでくださると思うのです。
管理牧師 ロイス上田亜樹子司祭
2025.3.9
ルカによる福音書4:1~13
さて、あっという間に大斎節に入りました。こどもの頃は、大斎節になると一体何が「降って」くるのだろうと思っていました。福音書では、イエスさまが遭われた3つの誘惑を語っていますが、断食して身体が弱っておられる中大変でしたね、と納得するためではなく、40日間断食した強い意志とか、誘惑に陥らない信仰に感謝しよう、と言っているのでもないと思います。むしろわたしたちもまた、心惹かれるような誘惑の中で、それが悪魔によるものなのか、天使の声なのか、識別することを常に問われているという現実を、認めることから大斎節が始まることを告げているのではないかと思うのです。
最初の誘惑は、「石をパンに変える」誘惑です。飢えは生命の危機と直結します。石をパンに変えれば、イエスご自身も、たくさんの貧しいこどもや大人も救えるのではないか、また、彼らの必要を満たせば、神の言葉も届きやすくなるのでは、そんな誘惑です。一方で、パンが自動的に手に入るようになれば、それが「当然」となり、結果的には神への信仰ではなく、依存を引き起こすのではないでしょうか。
2つ目は、「地上の権力を全て握る」誘惑です。こんな単純な誘惑に引っかかるはずないとは思いますが、努力しても結果が出ないと、早く、確実に結果を手に入れる方法ばかりが気になるようになります。権力を手に入れれば人々の間違いをただし、悪を行なって憚らない権力を追い散らせる。神の愛を聞かない輩は排除できるし、強く勧めれば洗礼だってホイホイ受けるかもしれない。それの何が間違っているかと、悪魔は囁きます。でもそれは、イエスさまが伝える神の姿とは違います。低みにいるわたしたちと一緒に居ようとする神は、圧力を与えて従わせる存在ではありません。
最後は、「本当に神がいるかどうか確かめる」誘惑です。人生の中には、神さまに賭けて前に踏み出すしかない時もあるでしょう。でも必要がないのに「やってみろ」と勧めるのは悪魔の仕業です。神への信頼ではなく依存を引き出すことが目的だからです。さて、あなたにとっての誘惑はどんなことなのでしょうか。それを踏まえて神さまの前に座りましょう。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.3.2
なんとも不思議な話が、今日の福音書です。イエスさまの服が白く輝く光に包まれたり、いにしえの伝説の人物でもあるモーセとエリヤが出現して何事か一緒に相談していたり、はたまたそこに居たペトロたちは、やたらに眠くなって、分けのわからないことを言ってみたり、と話は続きます。2千年を経た今も「あなたは苦悩するイエスさまの前で、居眠りしてましたね」と言われ続けるペトロさんは、少しお気の毒ですね。
聖書には「夢を見る」話は結構出てきます。しかし「居眠り」の話はそんなに多くない気もしますが、「居眠り」は、その人がそこにいるのだけれど「不在である」という暗号だ、という説もあります。心そこにあらず。つまり聞いて見ているのに何も聞いていない見ていない。ペトロさんも他のお弟子たちも、イエスさまのことを理解したいし理解しようとはしている。でも本当のところはわかっていない。イエスさまが一番伝えたい「神さまの愛に生きる」ことも、また十字架の意味も、本当はわかっておらず、どこかでこの世の成功や達成、そして人々の心に残り、崇拝されるであろうイエスさまと自分とを重ねて観ているようにも見えます。
それでも神さまは、、ペトロやお弟子さんたちに、イエスさまを語り伝える役割を託しました。その後、イエスさまが一番辛いときに自己保身のために逃げ出し、言い逃れのウソもついてしまう彼らについて、わたしたちは聖書を読んで知っています。そういう弱さも醜さも、そして居眠りもする彼らを、神さまは用いられた。
わたしたちもどこかで「もっと清い生活なら」「弱さを乗り越えたら」「ダメじゃない自分になれたら」神さまの前に立てる、と思っていないかどうか、確認する必要があると思うのです。大切なことは「愛すること」を伝える使命です。自分の不十分さを、あれこれ言い訳にしないで、一番大切なことを示してくださっているイエスさまに、ついていきたいものですね。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.23
ルカによる福音書6:27-38
「敵を愛せ」「悪口を言う者に祝福を祈れ」「誰にでも与えよ」
ああ困ったと思うのは、私だけだろうか。祈ること自体は、いくら祈ったところで害にはならず、何も減らないと思う。場合によっては気軽に祈れないときもあるが、とりあえずやってみようとは思える。しかし「誰にでもなんでも与え」たり「敵を大切にする」ことは、実行した側に実害が伴う。やり方によっては、相手のためにならない結果を招くことも。そんなことを、お薦めしてよいのだろうか。
マタイによる福音書に、似ている内容の箇所があるが、こちらは、少し実行しやすい。「貸してくれと願う人に背を向けてはならない」とあるので、相談くらいにはのってあげようという気持ちになる。仲間内で親切にし合うなんてことは、最低な輩でもしているのだから、そんな世の中の常識レベルではなく、もっと完全(成熟)な者を目指しなさいという勧め、これも頷ける。普通に考えて、皆が実行したら、世の中がもっと住みやすくなりそうだ。
しかしここでルカに戻るが、神の国と人間的な住みやすさとは、別のものなのかもしれないとも思う。「自分がされて嫌なことは、人にもしてはいけません」「自分がされて嬉しいことを、人にもしてあげましょう」こんなフレーズの範囲内に留まることを、聖書が薦めているようには思えない。
手がかりとなるのは、特祷の「愛はもっともすぐれた賜物」という言葉なのではないか。行動をした結果や効果ではなく、人々にどう喜んでもらえたかではなく、その基に神さまがわたしたちに伝えようとされている「愛」があるかどうか、それがすべてだ、と言っているのではないかと思う。今日の箇所は長いが、日常生活の中で、私たちの行動と言動のすべてが、「愛」から出発しているのかどうか、そんなチェックリストかもしれないと思う。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.16
ルカによる福音書6:17-26
今日の福音書は、「教会とは何か」について、恐ろしいほど端的に伝えているのではないでしょうか。清く正しい生活をしている人が集まる聖所ではなく、本当の神に従う人を増やす養成所ではなく、教会は「神の力によって手当され、いやされ、現場へと送り出される」場所です。また、「癒され」る権利を優先的に享受できるのが信徒なのではなく、手当と癒しと派遣の働きの大切さを認め、それを大切にしていきたいと望む人が信徒です。
ところで、日曜日に行われる礼拝は、教会の働きの集約点かもしれません。でも礼拝に出席してさえいれば、心の中はどんなでも、「神さまに対する義務」を果たしたことになるのでしょうか。プラットホームで電車を待ちながら、料理をしながら、お風呂に浸かりながらでも、生活の中で祈ることはできます。でも「ながら祈り」ではなく、礼拝は「祈ること」に集中できる時間であり、兄弟姉妹の祈りの輪に加わり支えられると、皆の祈りがひとつとなり、一人で祈る時には限界のあるわたしたちも、生きる力をいただく時間へと「礼拝」が変わっていくことが可能になるのだと思います。
毎月第一日曜日に、わたしたちは「月島聖公会の祈り」を唱え、毎月、教会の原点に立ち返ります。「地域に仕える教会の働きを担ってきた」ことのできる恵みを感謝するためです。たとえ人々が気がつかなくても、「仕える」ことに徹底するのが教会だ、神の国の住人だと、この祈りは伝えます。
今日の福音書は、「貧しい人々は幸いである」と語ります。まるで貧しくない人が、もっと大変な人々もいるのだから、あとでちゃんと神さまがご褒美を用意していてくださるのだから文句を言わないように、などと読んでしまうと、これはもう福音ではなくなります。結果がすぐにはわからないときの方が多いけれど、神さまを切に求めようとする人は現状がどうであれ「幸い」であり、今満足している人は「神さまがいなくても大丈夫」と思うことで「不幸である」と言っているのではないでしょうか。神さまの力を受けているにもかかわらず捨ててしまうような自己防衛に陥らず、惜しみなく注がれている愛を分かち合う教会になれるよう、祈り続けたいと思います。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.2
ルカによる福音書 2:22-40
「被献日」は、命名日(割礼を受ける)とは別の目的で、出エジプト記や民数記に根拠を置いた記念日です。わたしたちがこの日に用いる福音書の箇所には、被献日に神殿に詣でた2つの習慣が一緒に描かれています。1つは、出産を終えたマリアのけがれの期間が終わったことを祭司に宣言してもらう習慣です。️男の子は40日間(女児は80日間)と定められていて、その間は、外出したり人に会ったりすることを避けます。おそらく、産後の休息という目的もあったと思いたいですが、女児の場合、2倍も「汚れている」期間があるのが少し謎です。もう一つは、母親の胎から初めて生まれた男の子の命を神に捧げるべきところ、代わりに動物を生贄として捧げて、神の占有を刻印する習慣がありました。起源としては、イスラエルの人々がエジプトを脱出するとき、家々の鴨居に動物の血を塗り、こども(ことに初子)を殺さないように、神に「過ぎ越して」もらった(命を救ってもらった)ことから生まれた習慣であると言われています。
このようなユダヤ教の習慣を聞いても、そこからどんな良い知らせを受けるのか、少し戸惑います。最初に生まれたからと言って、その子だけ「神に捧げる」ということも、まして生贄にするなんて発想はありませんし、神さまはそんなことは望んでおられないはずです。
この福音書の後半では、長い間「救い主」を待ち望んでいた二人の老人が登場し、神への賛美を口にします。長い間待っていて、ああやっとやって来てくださった、会えてうれしい、という気持ちは溢れてきても、そこにはイエスさまを私物化する表現はありません。
世の中は、利己的な執着を愛情と勘違いする人々で溢れています。すがりつかないと「冷たい」とあしらわれたりもします。長い間待っていた挙句、やっとそれが実現すると、あたかも「自分だけ」が待っていたかのように振る舞う人もいるでしょう。しかし、シメオンも、アンナも、あくまでも栄光は神に帰し、神の国の実現だけを喜び、それを人々に伝えます。口当たりのよい慰めではなく、神の正義が行われることを渇望する、神への信頼です。マリアは「心も剣で刺」されるという予告にあるように、それは平坦な道ではないでしょう。膿を最初に出さなければ治癒はないからです。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.26
ルカによる福音書4:14-21
今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられ聖霊に満たされ、そして荒野へ出向かれる、いわゆる「悪魔の3つの誘惑」に遭ったのち、公生涯と呼ばれる最後の3年間を過ごされる物語の冒頭の部分です。
まずガリラヤへ行かれ会堂で話され、人々から「尊敬を受けられた」という話からはじまるのですが、次に故郷のナザレのユダヤ教の会堂に入り、聖書を読み上げると、最初は感激していた人々が「つぶやき」始めます。このつぶやくシーンは、今日の福音書からはカットされていますが、さっきまでイエスさまの話を聞いて感激していた人々は、話の後半では憤慨し、なんと崖から突き落として殺そうとします。
イエスさまがその時に朗読し、解き明かした聖書の箇所は、「貧しい人に福音を告げ知らせ〜圧迫されている人を自由にする」というイザヤ書でした。そこでイエスさまの朗読とお話を聞いていた人々は、皆が敬愛するイザヤ書を、彼らの期待どおりに「これは、あなたたちのために語られた恵みの知らせだ」と受け止めていた間は、喜んで聞いていました。ところが、イエスさまのお話が進んでいくと、実は自分たちに向けられたことではなく、貧しい人々だということがわかってきました。
つまり神さまが心にかけておられるのは「あなたたちではない」と、イエスさまからはっきり言われたので怒ったのでしょう。耳ざわりのよいことをイエスさまが語っている間は感激し、想定外の知らせを聞くと彼を殺そうとする、これはまさにイエスさまの生涯そのものだったかもしれません。
著名人や権力者、また町の有志や人々から尊敬されている人が、神さまの恵みの対象ではなく、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられている人々、病気の人、抑圧されている人こそが、愛を注がれる人であり、神さまが関心を持つ人々であると告げています。それは「かわいそうな」人々に、特別に神さまが豊かに哀れみを下されるということではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを分かち合う神さまであると告げに来られたイエスさまの生涯を表しています。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.19
ヨハネによる福音書2:1-11
聖書の中には、不可解な会話がいっぱいですが、今日の福音書も行き違いの会話に満ちています。母マリアと息子のすれ違いもリアルですが、何がおきたのかその背景を把握しているとは思えない花婿を、これまたよくわかっていない宴会幹事が讃えたり、挙句の果ては、この最初の奇跡を目の当たりにしたお弟子さんたちが、イエスさまを「信じた」というくだりで福音書が締めくくられます。
バプテスマのヨハネとの出会いの後、いよいよ本格的な活動を開始したイエスさまが、水をぶどう酒に変えたからといって、イエスさまが神である証拠なのかどうか、この奇跡をどうとらえたら本当の命の道へ繋がるのか、信仰と救いに至るのか、今ひとつピンと来ないわけです。しかし、このように感じると同時に、表面的に交わされるやりとりとは別に、水面下でもっと重大な真実が語られ、話が進んで行っているようにも感じる不思議な展開です。
当時のユダヤ人にとってのぶどう酒は、現代のようなお洒落なものではなく、貴重な飲料水よりも身近にある存在でした。それはまるで、イエスさまが人としてこの世に生まれ人生を送られたことが、水のように無色透明、多くの人間の生涯の一人のようにも見えます。しかしその実体は、見捨てられ虐げられた人々と共に歩む生涯であり、ご自身も血を流し苦しみ悩む赤いぶどう酒なのだ、と言っているようにも思えます。そして、わたしたちが聖餐式で分かち合うぶどう酒は「イエスさまの血」であり、十字架上の苦しみと痛みは「イエスさまが請け負う担当なので私は痛い思いはしない」ということではなく、わたしたちもまた、この世の「ぶどう酒」に、イエスさまの弟子として共にあずかることを示しているのではないでしょうか。
顕現節は、クリスマスの余韻に浸る季節なのではなく、イエスさまが「何のためにこの世に来られたか」が顕現する(すっかりあらわになる)ことを、教会の暦の中で、繰り返し反芻する季節なのでしょう。そうまでして神さまがわたしたちに伝えようとされ、分かち合おうとされている「愛に生きる道」をかみしめたいと思います。
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.12
わたしたちが洗礼を受けるときのきっかけですが、以下の全部あるいは一部が動機となり、「そうだ!洗礼を受けよう」という道へと入っていくことになるのかもしれないと思います。
⑴ 神さまと共に生きていけることを願い、そのように努めたい
⑵ それまでの自分の弱さやダークサイドをなかったことにしない
⑶ 弱さも何も洗いざらい神さまの光の中で受け止めていただく
⑷ 自分と神さまという関係だけでは、神さまとの関係を保つのは難しいことを認め、神さまのもとにある家族、兄弟姉妹である教会で信仰生活をおくる
⑸ 教会という共同体の中で、神さまとの関係を保てるよう、支えてもらう
⑹ イエスさまの弟子の一人として、福音を伝えるお手伝いをする
⑺ 祈りの底力を知り、同時に心が神さまに向いているかどうかで
皆さんはいかがでしょうか。大切な友人やあるいは先生との出会
今日の聖書の前後を見ると、はっきりしていることが1つあります。その後、イエスさまの生涯の最後の3年間が始まります。信頼していても、やはり心配はあったでしょう。途中で放り出すようなことにならないようお守りください、間違った選択をしないようお導きください、最後の最後どんなことになってもあなたを捨てて逃げ出すことのないように、と祈らずにはいられないのではないでしょうか。今日の福音書の前は、バプテスマのヨハネの物語がありますが、この後は、荒野でのサタンによる試み、そして公生涯へともう止められない最後の3年間へと滑り出します。イエスさまにとって、辛いだけではない喜びのときもあったでしょう。そしてわたしたちにも辛い時も喜びの時も、常に「神さまとご一緒に」留まる信頼がありますように!
管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.5
クリスマス(12月25日)からカウントして12日後に当たる、1月6日が「顕現日」です。今日ではなく明日なのですが、一日早く話題にしています。そもそもどういう意味があったのか、改めておさらいをしておきたいと思いました。
この祝日は、東方教会(現在のギリシア正教など)で、3世紀頃から記念されるようになったそうですが、当時は、「キリストが洗礼を受けたお祝い」というトーンの方が強かったようです。(現在では、イエスさまの洗礼については、顕現後第1主日に記念しています。)
4世紀になって西方教会(現在のカトリックなど)でも顕現日を祝うようになりましたが、次第にキリストの受洗を記念するよりは「外国の博士たちが星に導かれてキリストに出会った」ことを強調するようになりました。つまり、ユダヤ教徒以外にも、イエスさまの福音を聞く道が開かれたことを祝うようになりました。
ところで、クリスマスをいつ記念するかという話も絡んでいます。クリスマスは現在は12月25日ですが、ずっとそうであったわけではないことは、皆さまも聞いたことがあると思います。
3世紀の当初、のちにキリスト教徒になったクレメンスというギリシア人神学者が、「クリスマスは5月20日」と推測しました。その後、変遷を経て、12月25日をクリスマスとして祝うようになったのですが、その最古の記録としては、336年のローマの行事記録に載っているそうです。しかし12月25日となった理由は神学的なものではなく、元々あった「太陽の誕生」という異教の祭りに対抗し、「自分たちは義の太陽(=神)の祭りだ」とローマ在住信徒が言い始め、意図的にその日を選んでぶつけたのが真相のようです。しかも地域によっては、採用された時期にばらつきがあり、地中海沿岸では割と早目に取り入れたものの、肝心のエルサレムでは6世紀以降になってから、12月25日に移動した様子でした。
このような背景もあり、イエスさまの誕生と洗礼とユダヤ人以外への福音の広がりなど、強調点がさまざまあるものが、さらに変遷して現在の形となりました。そんなわけで、ものすごくざっくり、「12月25日から1月6日までをクリスマスとしてお祝いする」ことになった次第です。