HOME  >  聖書のメッセージ

聖書のメッセージ

肖像 姿かたちを映したもの

管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.10.18


マタイによる福音22:15-22

イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:20,21)

 

エルサレムの神殿の境内で人々を教えるイエス。彼を拒み排除しようとする、ファリサイ派やヘロデ党の人々など、当時の宗教的また社会的な指導者たちとのやり取りを通しても、イエスは天の国とその意味を解き明かされました。宗教や政治的な権威や権力や権益を持つ人々にとって、神と人とを結ぶイエスの言説は彼らの在り方への非難として聞こえました。そこで彼らは何とかしてイエスを貶め、排除しようとたくらみを巡らしたのです。

 

皇帝への税金について用意された問答は、ローマ帝国の属州とされ、国家また民族としての主権と文化を保つことが難しいと感じていた人々の心の、社会への不満や政治的な不安に根差しています。皇帝へ税金を差し出すことは是か非か。これを是とすれば、イエスへの人々の新しい指導者としての期待と支持は失われることとなり、もし否とすれば、ローマと皇帝への反逆者として訴えられることになるでしょう。

 

しかし、罠にかけ除くため用意されたこの質問に、イエスはまっすぐには答えません。その代わり「税金に納める硬貨を見せなさい」と言って、かれらが日常生活でも用いている硬貨を持って来させ、「これは誰の肖像と銘か」と質します。そこには、皇帝の所用に属することを示す皇帝の肖像(イメージ)と銘が刻まれていました。

 

旧約聖書にある天地創造の物語は、神は人を神のかたち(イメージ)に創造された(創世記1:27)と伝えています。イエスは、その出来事を踏まえて、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とさらに語られたのです。言い換えれば「あなたは、神に属するものとして生き、神への信頼によって生活しなさい」ということになるでしょう。大量生産されて人々の財布の中にある硬貨に記された肖像と銘に信頼の基を置くのではなく、神によって一人ひとりに刻まれている神の姿を想い起し、神と人々とそれにふさわしい関りの中に生きよと言われているのです。(F) 

天の国は婚礼の祝宴に似て

管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.10.10

マタイによる福音書22:1-14

そこでまた王は、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。』」(マタイ22:4)

 

「二人の息子」「ぶどう園と農夫」、そして「婚礼の祝宴」のたとえ、三つのたとえが並べられています。これらはエルサレムの神殿でイエスが人々に話をされていたとき、そこに立ち入ってきた祭司長たちや民の長老たち、すなわち当時のユダヤの指導者たちを意識しながら、公の場所で語られたことです。またこれらを聞いた祭司長たちは、彼らのことが言われていると気付いた(21:45)とも記されています。

 

どのたとえも、父が、主人が、そして王が呼び掛けるところから始まっています。その呼びかけはいずれも、恵みや収穫の喜びを分かち合うことを願って発せられているように思います。

 

王は、王子の婚礼の喜びを分かち合うために、選ばれ招待されていた名士たちを迎えて宴会をはじめようとします。招待客のところにしもべを遣わして、宴席の始まりを告げますが、招待客たちは動きません。そこで王は再度、牛や肥えた家畜を屠って、最上の宴席が整ったのでと促します。しかし彼らはついに、その招待をないがしろにしてそれぞれの事情や関心を優先し、また拒否しました。

 

そこで、王によって用意されたこの宴席には、招待されていた客、あらかじめ招かれていた王の民である人々やのその指導者たちではなく、四つ辻や通りで見かけた人は誰でも着くことができることとなりました。善人も悪人も、もちろん国籍や資格・身分にも関わりなく誰もがこの祝宴、すなわち天の国に招かれ、最上の恵みを分かち合うことがゆるされたのです。神の招きは世界のすべての人々に開かれることとなったのです。

 

ただし、この席に連なるためには、相応しい礼服を身にまとう必要があります。あらかじめ招かれていた者が失っていたもの、すなわち主宰者への敬意と畏れ、招かれたことの栄誉を知り、神の喜びを喜びをもって素直に受け止めようとする心が、備えられていなければなりませんでした。(F) 

ぶどう園の実り

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.10.03

マタイによる福音書21:33-46

そこで最後に、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、主人は自分の息子を送った。(マタイ21:37)

 

イエスの宣教の働きを遮るように神殿の境内に現れた祭司長たちや民の長老たちへの話が続いています。「二人の息子」のたとえに続いて「ぶどう園と農夫」のたとえが語られます。

 

主人はぶどう園を造り、実りまでに必要なすべての設備を、すなわち害獣や盗賊を避けるための垣、収穫の実りを生かすために必要な絞り場、そして外敵や災害を避けるための見張りやぐらまで用意しました。恐らくこの主人は実りの時までに必要なすべてを備えて、ぶどう園を農夫たちに貸して委ねました。農夫たちを信頼し、彼らの働きによる豊かな実りと収穫の喜びを分かち合うことを期待していたからに違いありません。

 

しかしそれを委ねられた農夫たちの考えは、そんな主人の思いとは離れてゆきます。彼らは委ねられたものを委ねられたものとして管理し、育み、それによって自らをも養ってゆくというあり方に満足できなくなったのでしょう。言い換えれば、委ねられたものの大切さや大きさ、そして全面的にゆだねられたその裁量と自由さのゆえに、ぶどう園はそもそも自分たちのものであるという思いに飲み込まれてしまったのでしょう。主人の存在、その準備と配慮を忘れて、日々の糧が与えられていることも、外的や災いを避けられていることも、ぶどう園が命はぐくむために備えられているという意識も失ってしまっていました。

 

やがて終わりの時が訪れます。収穫を確かめ、ぶどう園の清算をする時です。主人は使いを送って、農夫たちに収穫と取り分を確認しようとします。使いの者たちをないがしろにする農夫たちのところへ、主人はついに、跡取りの息子を遣わします。しかし、彼らは息子をも、園の外に放り出して殺してしまいました。

 

祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、自分たちのことが語られていると気がついて、イエスを捕えようとしたと記されています。神の御子と呼ばれる主イエスが、ゲッセマネの園で捕らえられ、都の外ゴルゴタの丘で十字架にかかって亡くなられたのは、この話より暫く後のことです。(F)

 

後で考え直してよいので

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.9.27


マタイによる福音書21:23-32

なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。(マタイ21:32)

 

神殿の境内で教えているイエスの話を遮るように祭司長たちや民の長老たちが現れます。彼らとの間でイエスは「二人の息子」のたとえを挙げられました。

二人の息子を持つ父親が、先ず兄の方に、「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言います。兄は「いやです」と一旦は拒否しますが、後で考え直して出かけます。父親は、弟にも同様に言いますが、弟は兄と違い「はい。お父さん」と応えながら、ぶどう園にはゆきませんでした。挨拶や言葉を聞こうともせず、遮ったり無視するようなことは論外でしょうが、兄弟二人とも素直に応えています。そしてイエスは、祭司長や民の長老たちに尋ねます。「兄と弟、どちらが父親の望み通りにしたか」と。彼らの答えは当然「兄のほうです」でした。

 

父の望み通りにしたこの兄に、落ち度がなかったわけではありません。彼は父の言葉を聞いても一度はそれに従うことができなかったからです。しかし彼が、父の望みに応えることができたのは、一度は拒否したものの、後で考え直して出かけたからです。

 

「後で考え直して」出かけたという言葉は大切です。この言葉には、考え直すことをできなくするもの、例えば、主張や体面を保つための頑なな態度、その奥に宿る自己中心な心の在り様を、避けようとする思いも含まれています。

 

イエスは、祭司長たちや民の長老たちに向かって宣言されます。「(罪びととみなされ、神から遠く離れていると思われている)徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」と。なぜなら、洗礼者ヨハネやイエスが示した、神の望まれる関係性を、徴税人や娼婦たちはすでに求めている。しかしあなた方は、ヨハネの姿を見ても、回心した徴税人や娼婦たちの姿を見ても、「考え直して」信じようとはしなかったからだと。

 

誤っていたとしても、もし考え直すことができればいつでも、その時からだれもが神の国に入ることができると言われているのです。(F)

公平と平等 1デナリオンの値

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.9.20

マタイによる福音書20:1-16

 

また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、「あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから」と言った。(マタイ20:3‐4)

 

今日の福音書にある「ぶどう園の労働者」のたとえは、公平と平等、誰もが日々に必要なものを受け取ることができ、大きい者も小さい者も同じ恩恵に浴することができることを主題としているとも読めます。イエスは、天の国、すなわち神のみ心は、早朝から夕方まで何度も人手を求めに出かける主人に似ていると言われます。ぶどうの収穫は短い時期に限られ、無駄にしないよう急いで果実を集めます。そこで主人は、夜明けに、そして朝9時、お昼ごろ、午後3時、ついには作業終了までわずか1時間しか働くことのできない午後5時にも広場に行って、その日の仕事がなく立っている人に、ぶどう園で働くようにと声をかけました。やがてその日の作業の終わりに、働いた人は日当の1デナリオン-これは当時の一般的な日当相当。その日家族を養う分の収入-を受け取ります。しかもすべての労働者に、その労働時間に関わらず平等に支払われました。

 

しかし朝から長く働いた労働者はこれを見て不満に思います。どうして1時間しか働かなかった者と日当が同じなのか。公平ではないと言うのです。しかし主人は言います。約束どおりの日当です。私は誰にもその日の分を支払いたいと。

 

イエスは、弟子たちに「日毎の糧を、今日もお与えください」と祈ることを教えられました。その日その日を生かされることの中に永遠の命はあるのです。神の園で働く時間は短くても、人の人生、生涯の日々一日一日すべては、すでにみ手の中に養われてあったということになるのでしょうか。

 

いずれにせよ、雇主を見つけられず、命をつなぐ仕事も見つけられずに時を過ごしている者すべてに、主人は声をかけられました。そこに感情的な好悪や偏狭な仲間意識などを優先する不公正な姿はみられません。自己中心な思いは公正を損ない、議論や判断を阻害し、公平と平等を傷つけます。そしてやがて私たちの共同体、また社会や世界を、平和の神の思いに反して、分裂と争いへと導くからです。(F)

家来を赦す王、赦さない家来

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.9.13


マタイによる福音書18:21-35

家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。(マタイ18:26‐27)

 

弟子のペテロがきょうだい、すなわち仲間が自分に対して罪を犯したら、寛容を示して七回ぐらいはゆるすべきですかと師イエスに問いかけています。今日の福音書で挙げられた「罪」とは、規則違反という過ちに限らず、神に向かう心や信仰者としての神への眼差しを邪魔をし、損なうような罪も含んでいます。そのような罪人に対して、何度寛容を示せばよいのでしょうというのです。

 

同じきょうだいの罪の問題が、直前のところ(マタイ18:15~/先週の福音書の箇所)にも取り挙げられ、その具体的な対応についても書かれていました。それとは違う応え、イエスはペテロの先の問いに対して、「七回どころか七の七十倍までも」と、際限のないゆるしについて話されます。そして続けて「仲間を赦さない家来」のたとえを話されています。  

 

王から1万タラントンの借財をしている家来。1万タラントンは、庶民の日当である1デナリオンの6千億倍。国家予算規模の金額になるでしょうか。この家来は王にその返還を求められると、「必ず返す」と王に懇願します。王はこれを見て「憐れに思って」、逮捕することも、命や財産を奪うこともなく、そのまま家来にしておき、さらにこの家来の負債を帳消しにしてやったというのです。

そうまでしてもこの家来をゆるそうとする王と重なる神の姿勢。奪われて、傷付けられてはならない神と人との関わりは、感謝すべきことに、このような神の御心、そのゆるしと受容の中に成り立っているのです。

 

それは、私たちの生存が神の圧倒的な恵みの中にあるということを示しています。ゆるす、ゆるされるという関係ではなく、存在そのものに価値を見出してくださる神への感謝の思いが、問いへの答えの根拠となっています。その圧倒的な恵みの中で、あなたはどのように生き、どのように神に心を向け、み心にかなった生き方をしますか。また、どのように仲間と関わって、神と共に歩む生活を営んでゆきますか。(F)

地上でも天でも

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.9.6

マタイによる福音書18:15-20

 

二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。(マタイ18:20)

  

イエスは、一人の子どもを弟子の真ん中に立たせて、「この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」と言い、「私(イエス)を信じる小さな者の一人をつまずかせる者は…深い海に沈められる方がまし」、さらに「これらの小さな者を一人も軽んじないように」とおっしゃって、“迷い出た一匹の羊”のたとえを用いられました。この世界に生きる、神を頼みとする小さな者の一人も失われないことを願っておられる神の御心を伝えてくださったのです。これに続く、今日の福音書の箇所に聖書協会共同訳聖書では「きょうだいの忠告」と小見出しがつけられています。

 

キリスト教では、罪は単に法律や道徳に違反することではなく、神から離れ、神に背を向けている状態を指しています。そこで、悔い改めや入信を、神の方に向き直る「回心」と書き表しています。そして誘惑とは、神への専心や信頼から人を離反させようとすることを表すこととなります。

 

あなたは教会の大切な仲間の一人です。もしそんなあなたの信仰生活を妨げ、傷付け、誘惑する者が表れたら、そのままにしないで、先ずそっと話しかけて、もう一度、神にしっかり目を向け直して生きてゆこうと励ましましょう、と言うのです。教会の仲間は、たとえ困難や迫害の最中でも、そうして支え励まし合って、神とともに生かされてゆこうと言うのです。でも、もしそれが功奏しなければ、それ以上はひとりで関わるのではなく、教会の仲間に頼って二・三人で話してみましょう。さらに、それでも聞き入れられなければ、それは信仰共同体・教会として、信仰に立って責任ある判断を下すべき時が来たということになるのでしょう。教会共同体は常に神のみ心を映し、また神の民を守り助け合うためにこの世界に存在するからです。と同時に、どんなに小さな共同体であったとしても、それが共同体と呼ぶことができる最低人数二人か三人であっても、神はそれを信仰と文化をはぐくむ神の民として認め、主は必ずその中にいてくださるのです。

 

平和のうちに行きましょう。主を愛し、主に仕えるために。(F)

わたしに従いなさい

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.30

マタイによる福音書16:21-28

 
たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。(マタイ16:26)

 

ガリラヤのさらに北方フィリポ・カイサリアの地で、弟子たちにとってイエスが「メシア」「生ける神の子」であることが明らかにされました。それを境に、イエスは弟子たちにご自身の死と復活を、「ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と予告されました。こうして都エルサレムに向かっての旅が始められました。

 

その旅はこれまで歩み、すなわち出会う人々を教え、いやし、小さくされた人々の祝福を示すことと変わりはありませんでしたが、弟子たちは終着点エルサレムで起こるであろうことを思い巡らしながら従ってゆくことになりました。イエスは弟子たちに「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われています。しかし、イエスが予告された受難するメシアとその復活の姿と、弟子たちが思い描いてきた、ユダヤ国家を回復し新しい秩序をもって治める王のようなメシアの姿には大きな隔たりがあり、ついにそれを受け止め受容することはできませんでした。イエスが示したキリスト、メシアの姿はそれほどに新しく、その解放の業がいかに根本的な転換をもたらすものであったかということに弟子たちが思い至るのは、復活された主イエスに再会することになってからのことでした。

 

イエスのエルサレムへの旅、それに従う弟子たちの心の旅は続きます。私たちのいのち・生活のあり方を問い直す旅でもありました。「人は、たとえ世界ぜんぶを味方に引き入れても(例えば富や権力や名誉や健康や安全を手にしても)自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。」「人には、(神が大切に創造してくださった)自分自身に代わる値打ちのものが、何かあるのか」と問われています。これは世の繁栄を示して「このすべてをあなたに」といったサタンの荒れ野での誘惑の言葉(マタイ4:9)を連想させる言葉でもあります。(F)

わたしを何者だと言うのか

管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.23

マタイによる福音書16:13-20

 

私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。(マタイ16:19)

 

フィリポ・カイサリアはユダヤの最北、ガリラヤ湖の源流近くに位置する町で、その名にカエサルと冠しているとおり、ローマの影響の強い町でした。また岩の多い荒れ地に近く、その地の大規模な洞窟は黄泉の世界へ通じるとも言われていたそうです。深い洞窟にいけにえを投げ入れるような宗教儀式も当時は行われていたようです。

 

そんな場所に赴き、これまで宣教の働き、またその旅空の生活をともにしてきた弟子たちに、イエスはお尋ねになりました。「人々は、人の子(イエス)を何者だと言っているか」と。弟子たちは、メシアの先駆けと言われた「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」、また神から遣わされた「エレミヤ」や他の「預言者」だとも言われていると応答しました。すると、さらにイエスは「それでは、あなたがたは、私を何者だと言うのか」と重ねて問われました。これは巷の人々がどう思っているかということではなく、弟子であるあなたは、あなたがた教会は、イエスを何者だと信じているのかと問われたのです。私たち一人ひとりに応答が求められています。そして、その答えやその後の対応も、その答えの中に示されているように思います。

 

「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言したペテロの答えがそれです。私たちの心は、そして私たち一人ひとり、また私たち教会の歩みは、それをよく理解し、世に示すものとなっているでしょうか。

 

イエスと弟子たちは、岩と洞窟が眼前に並ぶ場所、そびえる岩を目にしつつ、ペテロ(岩)の「信仰の岩」という言葉を、陰府に開くといわれる洞窟の門を見ながら、陰府に打ち勝つ教会と永遠の命につながる「天の国の鍵」について聞きました。大きな岩のような障壁や暗黒が取り巻く世界の中にあったとしてもなお私たちは、それらに飲み込まれることなく、命につながる道筋の門を開き続けてゆくのです。主イエスへの信頼に発する喜びのうちに。(F)

パンではなく、パンくずなら


管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.16

マタイによる福音書15:(10-20)21-28

 

女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(マタイ15:27)

 

故郷での無理解やファリサイ派の人々が抱く反感に触れ、イエスはガリラヤ湖畔を去り、北上して海沿いの異邦の町ティルスとシドンの地方に入られます。

 

福音書にはその地の女性とイエスとの出会いが記されています。彼女の娘は悪霊に憑かれて苦しんでいました。イエスのいやしの業のことを知っていたのでしょう。彼女は、弟子たちと歩まれるイエスの後についてゆき、「主よ、ダビデの子よ、私の苦しみをわかってください」と叫び続けるのでした。ついに弟子たちは、「あの女性を帰らせてください」と訴えることになります。異邦の女性に対するイエスの対応はそっけないものでした。

 

しかしそれにめげることなく、この女性はイエスの前にまわり込み、進路をふさぐようにしてひれ伏し、「助けてください」と訴え、そして、救いは先ず神の民であるユダヤ人に告げられなければならないというイエスに、「でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と続けます。言い換えれば「あなたの神の民、あなたが遣わされた人々の救いが優先されることはわかっています。でもその上で、恵みのパンはいただけなくても、食卓からこぼれるパンくずなら、私たちにも受け取ることができるのではないでしょうか」。こうして、この異邦の女性の上にも、神さまの恵みが注がれることとなりました。主の降誕にマリアの応答が必要であったように、神の救いの業が非ユダヤ人にも啓かれるとき、この女性の願い続ける姿勢、パンくずをさえ恵みのしるしとする心が必要だったのではないでしょうか。

 

この出来事は、実は私たちにとっても身近なものです。聖餐式の中の「近づきの祈り」の「み机から落ちる(パン)くずを拾うにも足りない者ですが」という一節は、カンタベリーの大主教クランマーによってこの物語から採られたものです。(F)

あなたの目、耳、口、そしてあなたの心に

管理牧師 フランシス下条裕章司祭 
26.8.9

マタイによる福音書14:22-33

 

イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。(マタイ14:27)

 

イエスは、湖の対岸・新しい働きの場を目指す舟に弟子たちを乗せ、ご自身は祈るため山に向かわれました。イエスの姿が見えなくなった湖上で、舟は逆風に遭い、往きあぐねます。それは、マタイによる福音書が執筆された時代の雰囲気を彷彿とさせる状況でもあったかもしれません。ユダヤ教徒からの排斥、ローマ帝国による非難がはっきりとし、大小さまざまな迫害事件があちこちで突発的に起こるような状況。天に昇られたキリストの再臨もいまだ実現せず、その時代をどのようにキリスト者として生きてゆくことができるのか、問わずにはいられなかったにちがいありません。一方、ギリシア語を話すユダヤ人や「異邦人」と呼ばれていた人々の入信は後を絶たず、キリスト者の集まりは拡大してゆきました。ローマが支配する異教世界の中、キリストに従う教会の群れは困難と希望が入り混じり、明日を見通すことができない時代にありました。湖上にあって往き悩む弟子たちの姿と重なるものがあるように思います。

 

祈りを終えてイエスは、舟に向かわれます。マタイ福音書は、この時イエスは風立つ湖面を歩んで弟子たちに近づいたと、その様子を奇跡として描いています。弟子たちはその姿を見て「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖に襲われて叫んだと記されています。逆風と疲れと驚きに、弟子たちは冷静さを失ってしまっていました。

 

それが主イエスだとわかったとき、弟子のペテロは湖上を歩むことを願い、それに挑戦します。しかし、すぐさま溺れそうになり主に援けられ、不信仰を𠮟られます。この物語は、迫害やさまざまな恐れという逆風を感じ、また希望の主イエスの姿を見失いがちな教会への励ましの物語なのかもしれません。私たち教会は、いつもどこでも、逆風の中にあっても、イエスの御心のままに目指す岸へと向かってゆく小舟なのです。(F)

五つのパンと二匹の魚


管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.8.2


マタイによる福音書14:13-21

 

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」(マタイ14:16)

 

神から遣わされた宣教者としての働きが故郷のナザレで理解されず、またメシアの先駆者である洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されるという出来事が伝えられると、イエスは舟で寂しい所へ退かれたとマタイによる福音書は伝えています。さまざまに思いを巡らし、また神との祈りの時を持つためだったのではないかと思われます。しかし町から離れたその場所にも、大勢の群衆がイエスを尋ねて訪れます。イエスの後を追い、集まってくる人々の様子を見てイエスは、飼い主のない羊のように、飢え渇き、疲れ傷つき、また不安のうちに行くあてを求める羊の群れを連想されたのかもしれません。彼らの思いに深く共感し、病にある者には癒しが示されました。

 

時は過ぎ、その寂しい草地で過ごす人々に夕闇が迫ってきます。人々の疲れと空腹を心配して弟子たちがイエスに進言します。「群衆を解散し、村へ行ってめいめいで食べ物を買うようにさせてください」と。しかしイエスの応答は「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい」というものでした。

 

そこにあったのは五つのパンと二匹の魚。イエスは持って来させ、それを取って、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちはそれを人々に配りました。その結果、5千人以上の人々が分かち合って満腹し、かつ充分に余裕があったと伝えられています。五千人の給食の物語です。

 

私たち教会が折々にささげる聖餐式や、教会内外で行われている現代に生きる人々への奉仕と分かち合いの原型ともなっている出来事です。私たちは、足りないことに嘆くのではなく、与えられたもの見出して感謝し、それを分かち合うことを通して豊かにされ、活かされている神の民なのです。(F)

天の国は、からし種に似ている

管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.26

マタイによる福音書13:31-33,44-52

 

どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:32)

 

マタイによる福音書の13章には、「神の国」について語られるイエスと、それを聞く人々の姿が描かれています。岸辺に立つ群衆に向かって、湖上の舟に腰を下ろして「種を蒔く人」のたとえが語られました。神はあらゆるところに種を蒔き、あらゆるところからの収穫を期待しておられるのです。そして問いかける弟子に「あなた方の目は見ているから幸いだ。あなた方の耳は聞いているから幸いだ」と話を聞いて問い、神意を見出だそうとし、またそれがゆるされている人々、すなわち弟子であろうとする人々へ励ましの言葉が送られます。

 

天の国を「良い種を畑に蒔いた人」に似ていると、収穫の時を優しく忍耐強く待たれる神の姿を彼らに語り、「からし種」「パン種」にたとえて、神の国がどこか違う場所にあるというようなものではなく、人々の中で変化し成長してゆくものであることを示されました。

 

さらにイエスは弟子たちに「畑に隠された宝」「良い真珠を探している商人」「海に降ろして、いろいろな魚を囲み入れる網」に天の国は似ていると語られました。そしてすべての話を聞いた弟子たちにイエスは、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と問います。弟子たちはここで「分かりました」と応えたと記されています。見た、聞いた、尋ねたというところに留まらず、見聞きしたことにどんな神意が隠され、表されているのか聞き分け「分かりました」と応えられるようになる。そのためにイエスとともに歩み、学び、変化し成長し続ける者が弟子であると言われているようです。

 

今できない、知らない、分からない、小さすぎると言ってあきらめることのない者が弟子であり、天の国の現実に相応しく学び成長し続ける者、天の国のことを学んだ学者となるのでしょう。そしてその学者は「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」、温故知新、すなわちどのような時と所にあっても、おのずと神のみ心を世に示し、神の国を導き出すまことの知恵を身につけた者へと成長させられてゆくのです。神の豊かな収穫のしるしとして。 (F)

忍耐して見守るもの


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.19

マタイによる福音書13:24-30,36-43

 

刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。(マタイ13:30)

 

イエスは群衆に向かって多くのたとえを語られました。たとえの話は、聞く人々にとって身近で、語られる情景を思い描くことが容易な話でなければなりません。そこでイエスは、誰もが想像しにくい「天の国」をたとえとして人々に伝えます。

 

「天の国」を、日々の食事に用意されるパン作りのパン種に、身近に植えられているからしの木の小さな種のことに、そして良い種を畑に蒔いた人にたとえて、天の国が語られてゆきます。どれも育ってゆくところが共通しています。変わらないものではなく、私たちが生きる時空の中で、成長し、変化してゆくもののように天の国が表されているのです。言い換えれば、私たちにとって、天の国は変化しないものではなく、成長し変化してゆくかのように感じられるのかもしれません。そして特に、良い種を畑に蒔いたのに毒麦が混ざったという話は、私たちの成長と変化を受け止めて、一人ひとりの存在を大切に見守ってくださる神のまなざしを想い起させているように感じます。この世界を創造された神は、そこに生きる者を、大切に育もうとする麦にたとえて、私たち一人ひとりの成長と、収穫の時、すなわち世界が迎える豊かな実りの時を忍耐して待っておられるというのではないでしょうか。

 

たとえ話は本来、聞き手の想像力に信頼して、自由に聞かれ受けとめられるものです。そしてそこに語られている意図を知ろうとするとき、語り手と聞き手の関係、また語られる出来事と語り手、聞き手の関わりは無関係ではありません。忍耐と愛をもって語られるイエス、神との出来事は、神の愛の心を受け止め、自らの成長と変化を願う一人ひとりに、神の恵みと励ましを伝えるものとなるのでしょう。心ひらいて私たちを待ち受けてくださる神の姿とともに。(F)

見聞きして悟る人に


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.12

マタイによる福音書13:1-9,18-23

 

あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。(マタイ13:16)

 

律法の正しさと神のいつくしみ、安息日をめぐる出来事から、ファリサイ派とイエスとの考え方やあり方の相違が徐々にはっきりとするようになり、当時の宗教的指導者たちとイエスの関係は対立的なものとなってきました。しかし人々は、イエスの言葉と行いを通してなされる御業に触れること、教えと癒しを求めて集まりました。

 

ある日、家を出て湖のほとりに座っておられるイエスのもとに、人々が押し寄せて来ました。そこで、イエスは舟を出して湖の上から、岸に集まっている人々に譬えを話されました。「『種まく人』のたとえ」(マタイ13:1~9)です。

 

譬えを聞く人々にとって、種まく人の姿は身近で、それを思い描くことは容易なことだったでしょう。種まく人は、出かけていって土の上に種をまきます。その場所が、柔らかで何も植えられていない土であっても、人々が通り踏み固められたところ、石の多いところや、草や茨が茂っている場所であっても、お構いなしに種は蒔かれてゆきます。なぜなら、当時のやり方では、種を蒔いてから、土地を耕して種を土に漉き込むやり方が一般的だったからです。こうして蒔かれた種は、あるいは鳥に啄まれ、あるいは陽に焼かれ、あるいは茨に阻まれて、実を結ぶことができないものもありました。しかし蒔かれたものは、大きな実りと収穫につながる、命やどる種でした。イエスは譬えで語られます。よい土地に蒔かれたもの、ちゃんと土の中に漉き込まれたものは、30倍、60倍、あるいは100倍にもなると。

 

たとえ話は、身近な出来事を示して、神の御心を人々の心に伝えるものです。それをどのように受け止めるか、そして受けとめた物事をどのように、それぞれのライフ・命の時間の中に示し、生かそうとするかが問われ、委ねられます。あなたは、あなたのこの種と収穫のたとえ話をどのように受け止めますか。(F)

めげることのないしなやかさ


管理牧師 フランシス下条裕章司祭
26.7.5

マタイによる福音書11:16-19,25-30

私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。(マタイ11:29)

神の働きを知り、また真実の魂の安らぎを得るのは、柔和で心へりくだったイエスの姿に学ぶことができる者だと言われています。そこで、それらは「知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちに」示さたと記されています。イエスが宣教の働きを通して伝える神の真実は、この世の知恵者や賢者、すなわち自ら求めあるいは身に着けた知恵や力に拠って立つ者にではなく、この世をうまく生きることができていないように思われている人々、すなわち神から遣わされた者が示した福音を幼子のように素直に受け入れている人々こそ、真実の安らぎのうちに生きることとなるとイエスは言われます。

 

彼らが宣教の業=主の御言葉と御業を喜んで受け入れ、それを素直に生きることの喜び、糧として表現することができるからでしょう。こうして彼らは、主イエスとともに、喜びの伝達者としての宣教の働きに加えられてゆくのです。また私たちもそれぞれの生き様のうちに、どのようにイエスとの出会いの喜びを示すことができ、ことにこの社会との接点となっている営みのうちに、イエスとともにあることを表すことができるでしょうか。

 

イエスの御言葉と御業を憶え、それに従って生きた幼子のような心を持った人々を思い起こしながら、今日の歩みを祝福のうちに、すなわち私たちの身や心を自ら重く縛りつけるこの世の軛ではなく、イエス様が備えてくださった、癒しと解放を示す軽やかな荷を担い合いながら進んでゆきましょう。

 

主は柔和で心へりくだった者。すなわちどんな困難や苦しみや圧迫にも竹のようにしなやかに身を曲げて忍び、しかし決して折れることなく、そして心底へりくだって、まるで誰よりも弱く貧しくされた者のように小さくなって、そっと私たちの社会に身を寄せて、真実の安らぎを求めるだれとも、ともに歩み続けてくださるのです。(F)

小さくされた者への共感


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.28


マタイによる福音書10:40-42

よく言っておく。私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:42)

 

マタイによる福音書の10章は、イエスが12人の弟子を呼び寄せて、悪霊を追い出し、病をいやす権能を与えて、宣教に派遣するところから始まっています。そしてその派遣は「狼の中に羊を送り込むようなものである」とおっしゃって、弟子たちもまたイエスと同じように迫害の中を進むことになると予告されています。

 

イエスの弟子たちの旅の歩み、そしてキリストに従ってゆこうとする教会の歩みは、この世的にみると、決して穏やかで順調な日々が約束されているものではありませんでした。この世界の、様々な病や痛み、軋轢や亀裂を見逃しにすることなくその中にあって、それらの痛みのいやしを、そして神のみ心、愛と正義の実現、すなわち神が求めておられる神と人と、そして人と人との「正しい」関りを取り戻そうと、弟子たちはゆだねられた働きを進めてゆきます。それは人と人とのかかわり方、社会の有様に変化を求める働きともなります。その言葉と求められる変化を受け入れられない人々、ことにその社会の中で既得権益を持っているような人々には、受け入れにくい働きであったでしょう。

 

そこでイエスは、遣わされる弟子たちに、迫害の予告とともに、彼らに委ねられたみ言葉を宣べ癒しを祈りつつなされる働きを通して約束される報いについて語られました。宣教、それは彼らが出会い受け入れ合うことになる人々とのつながりが、イエスと弟子たちとの喜びと希望の出会いにつらなるものであることを知ること、さらに神との深いつながりへと導かれてゆくことを伝えられました。新しい、永遠の命を受け分かち合う群れが生まれると言われるのです。

 

神は、弟子たちとともにある、小さくされた一人に示された連帯と愛を示した人を、神の預言者、神の前に「正しい者」とされた人々と同じように、尊敬に値する者として扱うとおっしゃるのです。(F)

新しい命に生きる


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.21

マタイによる福音書10:24-39


だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。(マタイ10:32)

1アサリオンは当時の庶民の日当の16分の1、今ならワンコインというところです。雀2羽でワンコイン。誰もが手に入れやすい食材のひとつです。ルカ福音書12章によれば2コインなら5羽と描かれ、まとめればおまけもついたようです。イエスはこの2羽一組で売られている雀を例に挙げて弟子たちを励まされています。別々にしたら売り物にもならない「その1羽でさえ、あなた方の父(神)のお許しがなければ、地に落ちることはない」と。さらに加えて、あなたがた自身がその数を正確に把握することさえできていない「髪の毛までも一本残らず数えられている」と。それほどまでに、神は地上の小さな存在でさえ、そして細部にまで心を配られる。たとえそれが隠れ覆われ埋もれたような状況にあったとしても、決して見捨てることはなく、神の配慮が怠られることはないと言われるのです。まして、人であるあなたを創造主が忘れること、大切に思わないことはないと宣言されています。

 

そのうえで、イエスの言葉を通して示されている、この神の在り方となさり様を認めるなら、「誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める」と、神はその人の側に立っていることを明らかにされると言われているのです。

 

不安や恐れの渦巻くこの世界の中で、また生きることの困難や苦しみに出会い、自分の生き方やあり方に疑問を感じる時こそ、すべてを見通して育もうとされる方の存在に気がつくこと、またそれを知って、神がわたしたちの側に立って私たちを支えようとしてくださっていることに信頼することが大切です。

 

信頼をもって新しく歩みはじめるとき私たちは、「恐れるな」と呼びかけて、人生の時を共に過ごしてくださる神の存在を、喜びととともに知り続けることとなるでしょう。(F)

痛みを知る癒し人


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.14

マタイによる福音書9:35-10:8(9-23)

群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9:36)

イエスの神の国の喜びを伝える働きは、町や村を一つひとつめぐって、会堂で話をして伝え励まし、歩みの途中で出会う病気や患いの人を癒すものだったと聖書は伝えています。その背後には、「羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いた人々の痛みに深く共感するイエスの思いがありました。人々を弱った羊に譬え、羊の命を支え守る羊飼いの働きが必要と言われているのです。人々の生活する町や村には、そこに暮らす一人ひとり、一つひとつの命の営みが支えられるための配慮と保護がなければならないということになるでしょうか。それが今欠けている、そして神はそこに生きる人々を深く憐れまれている。人々の困難と痛みを自分のことのように感じ、イエスはそれに深く共感し、この社会的な欠けが満たされ回復されることを切望しておられます。私たちの困難や痛みを、神は深く知って癒そうとしてくださっておられると。

 

さらにイエスは、話を聞いている弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから働き手を送ってくださるように、祈りなさい」と言われました。そして弟子たちは祈ります。その祈りとイエスからの委託を通して、彼らもまたイエスと同じ働きに向かいます。すなわちイエスとともに働き、神の見守りのうちに生きようとすることを通して、よい羊飼いの群れに加えられて神の養いを知り、この世界に喜びと癒しを宣べ伝える者とされてゆくのです。

 

歴史を振り返り、様々な文化を学ぶと、人々の生活を守り支える働きが期待される役割や組織が備えられていることを知ります。しかしどの時代も、その働きが完全であったことはなかったように思います。だれひとり「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」ことのない社会にする。それが主イエスを通して知らされた神の願い、委託された私たちの使命ということもできるでしょう。(F)

わたしが求めるのは慈しみ


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.6.7

マタイによる福音書9:9-13,18-26

イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。(マタイ9:22)

 

収税所に座っていたマタイはイエスから、「私に従いなさい」と声をかけられ、立ち上がってイエスに従いました。当時の宗教指導者は、どうしてイエスは「徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」とイエスを批判しました。

 

 長らく出血が止まらない女性が歩いているイエスに後ろから触れます。イエスは、病いや汚れの中にある者が人に触れてはいけないと咎めるのではなく、手を触れて癒された女性に「元気を出しなさい」と声をかけて励まされます。

 

さらにイエスは進んで、息を引き取って床に寝かされている少女の家に行きました。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」というイエスを人々は嘲笑します。はたしてイエスがその手を取ると、彼女は息を吹き返し、起き上がったと聖書は伝えています。

 

イエスに触れる者は、立ち上がって歩み始めるのでした。蔑みの中に、罪の中にあるという負い目の中に、そして死に至る弱さの中にある人々に向けられる非難を、愛し合う家族が食事を共にするように受けとめ、勇気づけ、立ち上がらせてくださるのです。ご承知のように「立ち上がる」という言葉は、「よみがえる」という意味にも使われます。人々が元気づけられて立ち上がり、新たな命の輝きの中に歩み始めるためには、イエスの励ましの言葉、彼とのふれあい、すなわち神の慈しみが必要です。

 

神は、医者が癒しを切に求めるような、慈しみあふれる在り方を、神と人、人と人との正しいかかわり方にされることを示されました。イエスは言われます。「労働に疲れ果てた者、重荷を背負う者は、誰でも私のところに来なさい。私が安らぎを与えよう(マタイ11:28/本田哲朗訳)」。私たち一人ひとりが元気を取り戻し、再び立ち上がって人生を歩んでゆくために。(F)

喜びなさい。初心に帰りなさい


管理牧師 フランシス下条裕章
26.5.31

マタイによる福音書28:16-20

 

あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

 

 復活の証人とされた女性たちに、天使やイエスご自身から伝えられた言葉に従って、都エルサレムを離れた弟子たちはガリラヤに向かい、山の上で復活のイエスと再会したと、マタイによる福音書は伝えています。イエスはそこで弟子たちに近寄って来て言われました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

 

これから後、世の終わりまで主がともにいてくださる。私たちは決して、一人ぼっちで放置された存在となることはないと宣言するこの言葉によってマタイによる福音書全編が締めくくられています。ところで、神はいつから私たちを孤立した存在としないようになさってきたのでしょうか。

 

ご承知の通り、旧約聖書は創世記の天地創造の物語から書き始められています。神がその言をもって、この世界のすべてのものを創られたと書かれています。さらに、神に似せて造られた「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われて、助け弁護する者としてパートナーが与えられたと記されています。この助け弁護する者は、新約聖書の聖霊の働きを示す概念と重なりがあります。すなわち「世の終わりまでともに」とおっしゃる方は、「世のはじめからともに」いて、わたしたちを終始支え続けてくださる存在ということになるのではないでしょうか。

 

キリストの死と復活は、人が死んでゆくときにも神はその時を共にしてくださり、またともに永遠の命によみがえる希望を表すしるしでもあります。私たちは誰も、一人で生きてゆくことも、死んでゆくこともできません。神と共に、また人々と共に、主は私たちを導きつなぎ続けてくださっているのです。(F)

あなたがたに平和があるように


管理牧師 司祭
フランシス下条裕章
25.5.24


ヨハネによる福音書20:19-23

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

 

五旬祭(ペンテコステ)の日、キリスト・イエスの昇天から10日目、復活から数えて7日×7週、50日目となる日に、弟子たちの上に聖霊が降りました。彼らは復活の証人となった女性たちやイエスの兄弟たちとともに集まり、心をあわせて、ひたすら祈っていたようです。すると突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響き、そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、様々な言葉で人々に説教したのでした。復活のイエスと聖霊に導かれて進むキリストの教会の誕生、聖霊降臨の日の出来事です。

 

さて、この出来事は、よみがえられたイエスによって弟子たちに託されていた使命を確認するものでした。復活されたイエスは、落胆し、家に鍵をかけて引きこもっていた弟子たちの真ん中に姿を現されました。聖書はその時の様子を「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。』」と記録しています。このイエスの宣言は、弟子たちの裏切りと背信、隠ぺいと逃避に沈んだ心を、その苦悩とわだかまりから解放するものでした。そしてイエスの息・新たな援護者・聖霊とともにある、再出発の希望を伝えるものでした。

 

こうして集められたキリストの弟子たち、私たち教会は、神による派遣と赦しを受け、聖霊の促しによって、平和を伝える神の器として出発し続けるのです。

 

その日から今日まで、そしてこれからも、時と所に限られることなくいつも。

 

この解放と新たな旅立ちをともに祝い、神の愛と赦しの言葉に拠って、人々と共に進んでゆきましょう。(F)

身をもって知ること


管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.5.17

ヨハネによる福音書
17:1-11

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)

 学校や教習所、道場、カルチャースクールなど色々な場で、また人の話を聞きあるいは読書して私たちは学び、様々なことを知ります。さらに日々の生活の中で身をもって、ことに困難や悲しみの体験を通して、私たちはさまざまなことを知ることになります。

 

聖書に「知る」という言葉が用いられているとき、多くは知的に知識や情報として得られたことに留まらず、肉体的な心身の働きをも含んだ理解として「知る」という言葉が用いられているようです。神がわたしたちを創造し、わたしたちを「知る」者であるというとき、それは私たちを知的にも肉体的にも、私たち一人ひとりを抱き包み込むように、深い共感をもって理解してくださっているということを意味しています。そして私たちがそんな神を知ることができるようにと救い主メシアはこの世界に来られました。私たちが、メシア・イエスを通して神を知り、神の愛を通して人と人とが知り合うことを祝福し励ましてくださるためです。

 

十字架の時が近づいたとき、イエスは弟子たちにさまざまに神のみ心を語り、そして言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と。だれもが死または苦難をも経験しなければならないことを予見しつつ語られ、それがイエスの受難と重なる時、私たちがより深く、身をもって神と人々の真実の関りを知ることになる。さらにそれが私たちに平和をもたらすことになると。

 

「勇気を出しなさい」。でも私たちにはそんな力はありません。だからこそイエスは先だって苦難の中にも歩みゆかれるのです。誰のどんな歩みの中にも、神の祝福を知る出来事が待っているのですから、立ち上がって一歩進みましょうと。(F)

イエスはあなたたちのところに帰ってくる


管理牧師 司祭下条裕章
26.5.10

ヨハネによる福音書14:15-21

私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

 

 慣れ親しんできた故郷や職業を離れ、家族・親族を後にしてイエスに従いその生き様に倣って過ごす弟子たちにとって、その頼るべき存在、彼らの信頼のきずなの源となっているのは、師イエス以外には考えられませんでした。そしてそのイエスは間もなく、死によって彼らの前から姿を消すことになります。イエスには、新たな家族また新しい掟に基づく生き様を伝えるものとして成長してきた弟子たちを、世の荒波のうちにそのままに放置し、見捨てておくことなど考えられませんでした。これまで一緒にいたように、そしてこれからもずっと一緒にいられるように、「あなたがたのところに戻ってくる」と約束されたのです。

 

 果たしてこの約束は現実のものとなり、十字架の上に死んで復活されたイエスは弟子たちに現れ、さらに協力者・弁護者である聖霊が弟子たちの上に降ったと聖書は伝えています。イエスと弟子たちとの再会は、ただ再び共にあればよいということではなかったように思います。イエスの死とよみがえりが、彼ら一人ひとりにとって、また彼らが生きるこの世界にとって、どのような意味を持つのかということを伝えようとされているようです。

 

 イエスを敬愛する心に聖霊は宿り、その力によって、イエスの存在が生死を超えて知らされると言われています。そして、弟子たちがイエスに与えられた掟を守ることによって、彼らは互いの存在を大切にする愛の生活を保ち、またイエスが示された生き方を通して、この愛の掟を守ることができるようにされるのです。神から与えられた命を生き、イエスと共に愛の喜びのうちに生き続ける勇気と力、そしてその道筋が示されました。だれもが頼るところのない孤独から解放され、神の家族のひとりとして、新しい掟による愛の交わりに加わるようにと、あなたも招かれているのです。(F)

あなたがたのための場所


管理司祭 下条裕章
26.5.3


ヨハネによる福音書14:1-14

私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。

(ヨハネ14:2)

 

 わたしたちの生活はさまざまな事物に取り囲まれるようにして成り立っています。それを少し意識しながら、またはほとんど意識しないまま、当然のこととして多くの日々を過ごしています。しかし、何か失われるものがあると、失ったものの大切さに忽然と気づかされて、あるいは慌てふためき、涙し、落胆することになるのかもしれません。

 

イエスが、弟子たちとの死別の時が近いと感得したとき、弟子たちが、それまで当り前にあったイエスと共にある生き様から絶たれることになるということを思い、この言葉を口にされたのではないかと考えます。

 

生活し旅をしながら共に過ごす、家族と同じような拠り所となる関わりは、イエスの死によって失われてしまう。そんな彼ら=弟子たち、また従い共に歩む人々=がこれからを生きてゆく力を得られる拠り所となるもの、それが「父の家の住まい」「あなた方のための場所」という言葉の示す、将来の再会の約束なのです。さらに、「行う業」すなわち一人ひとりの生き様が、イエスの心と共にあることを示すのだと言われているようです。愛の交わりは、生死を超え、時を超えて表示されてゆくのです。

 

端的に言えば、イエスが示された愛の思いを、そして生き様を通して表された人を大切にする生き方を求めるなら、いつでもどこでもイエスの存在を身近に感じることができるということでしょう。十字架にかかられ復活されたイエスは、弟子たちの前に立ち現れて、神の風を受けて歩みだせとおっしゃいます。誰もがこの言葉を心にとめて顔を上げ、愛する思いを心に刻んで立ち上がってゆくとき、救い主イエスは生涯の同伴者としてともに歩んでくださいます。(F)

見分ける聞き分ける


管理司祭 下条裕章

26.4.26


ヨハネによる福音書10:1-10


私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。
(ヨハネ10:10b)

 

 古くから牧羊がたいせつな営みであった地域では、羊・山羊、また羊飼いは親しみのあるものでした。それゆえにしばしばその姿は社会や人々の生活の比喩にも用いられました。

 約2600年ほど前、ユダヤという国は滅ぼされ多くの人々が捕囚としてバビロンにひかれてゆくことになりました。その中に祭司であった預言者エゼキエルも含まれていました。そして捕囚となった民に向かって、民の神への回帰、正義と公正の道が、祖国への帰還と復帰の希望へとつながる道であると告げ知らせることとなります。彼もまた民を羊に譬えて、神の御心を伝えました。

「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。あなたがたは良い牧草地で草を食べても、それでは足りないのか。あなたがたは牧草地の残りを足で踏みにじり、澄んだ水を飲みながら、残りを足で濁らせている。私の群れは、あなたがたの足が踏みにじった草を食べ、その足が濁らせた水を飲んでいる」(エゼキエル34:16,18‐19)と。

羊飼いは、羊の命を奪う者ではなく、それを養い育てるもの。羊の囲いの中にも、牧草地や水場にも、そしてこの世界の隅々に、正義と公正が行き渡るように神は願っておられると言われます。そしてみ心を実現するために、良い羊飼いを送ると言われているのです。

羊は、他の者の声に惑わされることなく、また状況におびえすくむことなく、この羊飼いの声を聞き分け、その言葉に従うものとして描かれています。私たちは、祈りを通して、また学びを通して、この声を聞き分ける耳、すなわちセンスを磨いてゆくのです。(F)

話し合い論じ合う者とともに歩まれるイエス

管理司祭 下条裕章
26.4.19


ルカによる福音書24:13-35

   二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカ 24:32)

 イエスを埋葬した墓が空になっていると知らされた日、それを聞いた二人の弟子が、都エルサレムに背を向けてエマオという町に向かって歩んでいます。その距離は約11㎞。上野駅からの直線距離にすると高円寺、大崎、あるいは葛西臨海公園の辺りということになるでしょうか。彼らがその町を目指した理由はよくわかりませんが、道々での話題は、ここ数日間にエルサレムで起こったこと。イエスの死にまつわる出来事でした。過ぎ越しの食事、弟子の裏切りと否認、イエスの逮捕、裁判、十字架の死と埋葬、そして空っぽの墓とそれらにまつわることについてでした。二人の弟子たちは、表情も暗く、落胆し、心は悲しみと将来への不安や恐れに満ちていたことでしょう。彼らがイエスに対して抱いていた「この人こそが主権を脅かされているイスラエルを開放してくださる」という希望も、イエスの死によって打ち砕かれてしまっていました。

 歩きながら話し論じあう二人に、復活されたイエスが近づいて来て、一緒に歩んでくださった、と聖書は伝えています。夕刻となり宿に入り、この同伴者となったイエスが食事の席でパンを取り、祝福を祈ってそれを裂いたとき、弟子たちはこの人がイエスであるとわかり、同時にその姿は目の前からかき消えてしまいました。

   彼らは驚きの中で想い起します。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と。イエスの出来事はすでに終わったものではなく、今も、感謝のうちにパンを裂くときに感知され、イエスの出来事を想い起して語り合うとき、すなわち私たちの祈りと学びを通して、同伴者イエスの言葉は私たちの心を燃やすものだったのです。

   ここから彼らの人生は変貌し、驚きと喜びに満ちたものとされてゆきます。(F)

扉を開かせる者・復活のイエス

管理司祭 下条裕章
26.4.12

ヨハネによる福音書20:19-31


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

 

 イエスが罪人のひとりとして裁かれ、十字架にかけられて殺されようとするとき、イエスに従っていた弟子たちは、自分たちにも害が及ぶことでになるのではと恐れ、逃げ去ってしまいした。人々の目が恐ろしく、恐怖と不安な思いにとらわれ、またこれからどう過ごしてよいかを考えることもできなかったのではなかったかと思います。彼らはなすすべもなく集まり、鍵をかけた部屋に閉じこもって過ごすことになりました。それはとても大きな喪失の体験でした。

 

 そんな弟子たちの集りの真ん中に、扉も鍵も開かれていない部屋の中に復活されたイエスが突然立ち現れてあいさつし、声をかけたと福音書は伝えています。もちろん弟子たちはこの出来事に驚き、そして喜びました。

 

しかしこの再会は、喪失体験の上に、さらにイエスを捨てて逃げ去ったこと、イスカリオテのユダとさして変わらぬ裏切り行為、いくら反省しても取り返すことなどできない深い後悔の思へとつながる自らの有様を心に刻むものでもあったのではないかと思います。

 

 イエスは、そんな彼らにこそなすべきことがある、だから遣わす、出かけてゆけと言われるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22、23)

 

 喪失の体験、裏切りの重さと罪の深さを知ったあなたたちだからこそ、聖霊すなわち神の御力に援けられて、世の罪を除こうとされる神のみ心に感じそれを宣言することができる。そしてイエスの言葉そのものが、裏切った弟子たち、また神のみ心を受け止めきれずにいるすべての人々への赦しと癒しの宣言でもありました。(F)

誰を探しているのか

管理司祭 下条裕章
26.4.5

ヨハネによる福音書20:1-18

天使たちが、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。(ヨハネ20:13-14)

 イエスの亡骸がそこに葬られていたはずなのに、墓の中にその姿かたちを見つけることができず右往左往するマグダラのマリア。常識を超えた復活の出来事に、マリアの理解も、そして弟子たち、私たち誰の理解も追いついてはいません。しかし動転する彼女の姿は、痛々しいほどに主イエスを愛してやまない心を余すところなく示しています。

 墓の傍らで涙するマリアの後に、復活された主イエスが立たれます。彼女は振り返って彼を見ますが、それがイエスだと認知できません。復活の主の容姿が生前と大きく異なっていたというよりは、動転した心が、涙に曇った視界が、そしてあり得ない事実を認知することができない人間としての限界が、奇跡の事実の認知を妨げていたのでしょう。そして、彼女の喪失感は、彼女の耳から、すべての音を奪っていたのではないかとも思えるのです。

 イエスは声をかけ、彼女の名を呼びます。「マリア」その響きは彼女の耳を開き、あふれ出る喜びの音が心に届きます。こうして彼女は、イエスの死に縛り付けられていた自分自身から解放されてゆきました。

 神にできないことは何もない。この新しい認知は、すべての後悔と挫折、すべての罪の思いから弟子たちに、そしてそれに続くすべての人びとに、解放の喜びを知らせその道筋をひらく声として響き渡ります。

ハレルヤ。主はよみがえられた。すべてのことを可能とする奇跡の出来事、それは私たちの心と思いを、罪と死と墓から解放します。私たちはこの声に促されて、方向転換して顔を前に向け、新しい命の喜びと勇気をもって新しい宣教の道へ踏みだしてゆくことになります。復活の主とともに。(F)

「都合のいい神」を超えて

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.29

マタイによる福音書第26章36節~27章66節

 「苦難のしもべ」とよばれる、今日の旧約聖書 イザヤ書52〜53章は旧約聖書に描かれた神のイメージです。ユダヤ教の伝統では、男の子が一定の年齢になると旧約聖書を朗読する訓練を始め、そして全部ではなかったにしても重要箇所は暗唱できるようになることが、一人前の成人男性として認められる条件だったようです。おそらくイエスさまも、このイザヤ書を、幼い頃から繰り返し読んでこられたことでしょう。

昨今の物価高に苦しんでいる人はたくさんいますが、当時の社会情勢もローマ帝国の圧政により苦しんでいました。他の国に支配されるとは、自国に対しての決定権がないことであり、搾取されても不正がまかり通っても、それに否を唱える手立てがないという状況です。しかもそれは、今日昨日急に始まったことではなく、人々の記憶や先祖の言い伝えの中からずっと、長年に亘って行われてきた不正でした。

 イザヤ書にこのような「神」が描かれていても、そこを繰り返し読んでも気がつくと即効性のある、「不正を一掃する力ある神」を求めてしまう。そんな期待の中、イエスさまが「救い主」として来られた以上、絶対的な神の力によって社会をひっくり返し、自分の生きているうちに理想郷を実現してほしい、他の宗教を廃して、ユダヤ教が特別に擁護されるようになる、そんな妄想があったかもしれません。人々は、それぞれ自己都合のシナリオを捏造し、自分の期待する「神」をイエスさまに重ね合わせ、そして裏切られたと思う。そんな様子は、エルサレム入城の際に歓呼と共に迎えた民が、数日のうちに「十字架につけろ」と絶叫したと聖書は伝えます。

 イエスさまが提示したのは、民の期待とは対極をなす「苦難のしもべ」の姿でした。「輝かしい風格も好ましい容姿もなく、〜軽蔑され、人々に見捨てられ〜多くの痛みを負い、病を知っている」神。そして社会を変革する前にあっけなく命をとられる神。何故今すぐ社会を変えてくれないのだ、と焦る人々は、怒りや憎しみをイエスさまに向けることになる。でも、イエスさまの使命は、「石をパンに変える」ように、目先の政治体を破壊し、力尽くで支配の座に着くことではなく、満足感を一時的に満たすことでもなく、神の愛を知らせることでした。そしてそれは、2千年を経た今でも、わたしたちに伝わり続け、そしてわたしたちを導き続けています。


 こどもたちにいくら正論を言い続けても、その時が来ないと聞こうとしないように、わたしたち大人も、神さまに対して似たようなところがあるのではないかと思います。わたしたちが聞く耳を持たなくても、聞こえないふりをしても、耳を塞いでいても、それでわたしたちをあきらめたり、見捨てたりするような神ではありません。私たちがハッと気がつくのは、いつでもいいのです。おそすぎることはありません。気がついたときに、大好きな家族に抱きつくように、大きな手を広げて待っていてくださる神さまのふところに飛び込んでいきましょう!

〜〜〜〜〜
お知らせ:
コロナが始まった2020年から6年間、どうもありがとうございました。
今月末をもって定年退職を迎えることとなりましたので、お話掲載は本日が最後です。4月1日から、下条裕章(しもじょう ひろあき)司祭が管理牧師として着任。早速、来週から下条司祭がお話を準備くださいます。皆様と神さまの関係がますます深まり、喜びと感謝を毎日見つけることのできる毎日でありますように、お祈りしております。

司祭 上田 亜樹子

心と身体と魂が生きる

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.22


ヨハネによる福音書11:17-44

  聖書にはたびたび「死んでいた人が生き返る」話が登場しますが、数千年前に起きた「生き返って良かった」話のどこに、福音を見いだせばよいのか、わからない気持ちになります。イエスさまが生きておられた時代は現代医学の考え方とは異なり、説明しにくいことも人々は受け入れていたのかもしれませんが、今生きている私たちの知っている誰かの命を助けることとは、あまり関連がありそうにない話です。旧約聖書(エゼキエル書)でも福音書のラザロの話も、生き返った人々は、あまり遠くない将来にいつか亡くなるわけですから、この「延命」はどういう意味があるのか、さらに不可解です。

   ところで現代では、身体の不健康は分かりやすく、熱が出たり立っているのがしんどかったりすると、自分でもすぐに気がつきます。また、心についても、誰とも会いたくないし、しなくちゃいけないことは山ほどあるのに、何も手に付かない期間が続くと、医者に行ってみようかなと思う人もいるでしょう。しかし魂はどうでしょうか。魂の不健康さは、人に意地悪をしても平気、法律に則れば不正も大丈夫、人を騙し自分にも嘘をつくといった症状として現れます。でも、一般的にはそれを「魂が不健康な兆候」とは認めず、むしろ要領がいいくらいに思う。しかしながら、ユダヤ教の影響を多分に受けているキリスト教なので、人の身体と心と魂は、別々に機能しているのではなく、互いに影響し合っていると理解します。「健康」と「不健康」の境目はそんなはっきりしたものではないにしても、放っておくと気がつかないうちに、「不健康」が定番になってしまう。すると、その方が快適な気すらしてきます。このラザロの話にしても、肉体が死んだら決定的にすべてが「終わり」となるのではなく、まだその続きがあることを、そしてそれはこの世の概念とは異なり、人間には計り知れない世界がある、ということを示しているのかもしれません。

   自分の魂と心が「死にかかっている」ことに気がつかない人は、ひょっとしたら多いのかもしれません。気がつかない人に罰を与える神ではなく絶え間なく常に命へと導き続ける神に信頼し、自分のもそして他人のも、等しく「命」を選ぼうとするわたしたちでありたいと思います。

気がつかない目

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.15

ヨハネによる福音書 9:1〜13、28~38

 エルサレムでの出来事です。イエスさまとお弟子たちは、町の中を歩いているときに、目の見えない人とすれ違います。すかさず彼らは訪ねます,「この人が、生まれつき目が見えないのは、誰の罪のせいですか?」これを聞かずにはいられない情景を想像すると、ちょっと嫌な感じもしますが、お弟子たちの心の中は、結構複雑なものがあったかもしれません。

 

 イエスさまのお弟子さんたちもまた、生まれつき目が見えない人は、罪と関連していると決める律法の中で育ちました。なおのこと、それを見た町の人々は、それまで「罪の子だ」と見下してきた人の目が見えるようになると、急に自分たちと同等に並ばれることに不安を覚えたのでしょう。ファリサイ派の人々のところに連れて行き、律法がどう裁くか、納得のいく答えを求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱している様子が、聖書の中に赤裸々に描かれます。ファリサイ派の混乱は、ユダヤ人の中へと広がり、また本人に聞くことになりますが、その人は最初から一貫して主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちも理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と再び会い、その人の中に信仰が宿ったことを確認します。

 

 この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしてもそして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったかもしれません。理解できないことが起きても、神の恵みの中にいる保証を得ていると信じてきた、そして、その中にいないように見える人々を、上から目線で眺めていたが、立場が逆転してしまう。「罪」の中にある人々を共同体から排除することが正義だと信じてきたのに、イエスさまの言動によって、ひっくりかえされる出来事でした。

 

 わたしたちも「現代の律法」にどこか縛られていませんでしょうか。全く縛られない状態は無理としても、もしその律法を根拠に、誰かをどこかで見下している気持ちがあれば、それはイエスさまが望んでおられることの対極かもしれません。

大切なことを抱きしめる

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.8


ヨハネによる福音書4:5-26,39-42

 ある夜、教区での会議の帰り道、混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも眺めるだけでかかわらない。人々は降りまた乗り込んでくる。拾う人もないままに、やがてわたしは自分の降りる駅を迎えてしまった。しゃがんで財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことであった。人々は、落としものを「自分のものにした」という烙印を押されないために、財布と関わらなかったのだ。「人にどう思われるか」がとにかくお大事という世界観に、少し驚いていた。

 しかしながら、イエスさまの時代は、もっとパワフルな世界観が人々を覆っていた。ユダヤ教文化を守るため、タブーとされる人種は、人として扱わない、助け合わない、かかわらない。今日の福音書に登場するサマリアの女性にとっては、まずその「かかわらない」対象者である自分に、水をくれと話しかけるイエスさま、というシチュエーションが、信じらない行動だったに違いない。つまり、サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が「水を分けてもらえないか」とお願いする。この女性が不審に思っても不思議はない。たとえ親切に水を分けても、別ストーリーが何かあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリア共同体からも非難を受けるのではないか、孤立するのではないかと、一瞬にして不安が彼女を襲ったかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて自分は安全なのだろうかと、この女性は気が気ではなかったかもしれない。しかし、イエスさまとこの女性との会話はさらに深まっていき、人としての生き方や魂の救いへと発展する。

 信じられないことは、まだ続く。その町に住むサマリア人たちが、女性の言葉を聞いて、イエスさまのことに耳を傾けるようになる、神さまの愛を信じるようになる。さらにイエスさまは、ユダヤ人としては近寄ってはいけない人々の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされる。常識や宗教やそれまでの軋轢を越えて、また「人にどう思われるか」を超えて、サマリアの町に神さまの愛が広がっていく。

 わたしたちの日常は、どうだろうか。先々のことが思い浮かび、最も優先すべきことを後回しにしていることはたくさんある。それは経験上、軌道から外れて皆が期待する以外のことへと乗り出した嫌な体験をたくさんしているからだ。でもイエスさまと向き合うことによって、この女性が変えられ、彼女が圧力を感じていた共同体も変えられていく。そんなイエスさまの愛と力は計り知れない。

「あきらめてしまえ」という誘惑とたたかう

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.1

 本日は福音書ではなく、旧約聖書の物語についてのお話をしたいと思います。(創世記第12章)

 アブラム(のちのアブラハム)一家は代々、ウルという肥沃な土地に住んでいました。現在のクウェートから少し北側になりますが、当時はペルシャ湾にも面しており、作物がよく実り、商業的にも栄えた町だったと言われています。そんな便利で安定した都市生活を捨て、アブラムの父であるテラは一族を率い家畜も連れて、ウルを出発します。アラビア半島の付け根をはるばる500キロ余北西へ旅先のハランで、テラは突然亡くなってしまいます。どこへ行く予定だったのか聞いていないし、これからどうしたらいいのか、誰を頼ったらいいのか、長男のアブラムは茫然とします。

すると、そんなアブラムに神の声が響きます「おまえの国、故郷、父の家から出て、私が見せる土地へ行け」(直訳)。そこでアブラムはまた旅支度を整え、今度は南下してカナンという土地に入っていきますが、そこでも安住はなかなか得られません。飢饉によるエジプト退避、家族間の対立の苦しみ、生存のため近隣の王との政治的な駆け引き、家族内の問題、息子イサクの件。さらには、アブラムの孫に当たる世代から、再びエジプトに住むことになりその苦難は400年間続くという予告など、安心平穏とはほど遠い人生が続きます。

 こんなことなら、ウルを出なければよかったと、アブラムは何度も思ったにちがいありません。しかも自分一人ではなく家族(というか民族全体)の先頭に立たされ、財産(家畜や財宝)の責任を負わされ、不幸の連鎖をうむきっかけを作ってしまい、うまく治めたつもりがドロドロの収拾不能な人間関係を作る。あまりの不安定さと先の見えなさに、「いったい自分は何をしているのか間違えたのか」と、辞めてしまいたくなる衝動もあったことでしょう。

 私たちの日常生活もそうです。たとえ、人に良く思われようという動機ではなく、誰かがやらねばならないと信じてはいても、何のための苦労なのか遠回りなのか理解できないことも多く、全部無駄に見えてしまうことがあります。でもそこに自らの動機はなく、でもそうすることが正しいと思う時、私たちの理解を超える神の計画が、そこに着々と進んでいるのかもしれません。特祷で「魂を襲う悪念を除き」と祈ります。私たちにとっての悪念は、意味が見えないならやめてしまえ、という悪魔のささやきかもしれないと思うのです。

誘惑とたたかう意味

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.22

 今年は2月18日から大斎節(イースターを迎えるまでの日曜日を除いた40日間)に入りました。イエスさまが荒野で、さまざまな誘惑を退けたことに倣い、日頃は目をそむけている「自分の弱さ」と向き合う期間でもあります。しかし自分の弱さと向き合うのに、自己満足や達成感を目的にしてしまうと、それも違うような気がします。まずは、イエスさまが遭われた誘惑について注目したいと思いますが、3つの福音書:マタイ、マルコ、ルカに登場し、3年ごとに交代で読むことになります。
 
 一つ目の誘惑は「神の子なら、この石にパンに変わるよう命じてみたらどうだ」。村や町を回ると、飢えているこどもや職を失った人の痛みで満ちています。貧しい人々が苦しい労働に耐えても、それで手に入る食糧品はほんのわずか。食べることも大事ですが、それだけではなく、生きる喜びや意義についても飢えているのかもしれません。その場限りの充足を与えることも、イエスさまにはおできになったと思いますが、そうはされませんでした。
 
 二つ目の誘惑は、「飛び降りたらどうだ。あなたの神は信じるのに足りるのか、ちょっと試してみてはどうか」という誘惑です。神を試したその瞬間は結果を得られるでしょうが、それでも1秒先は暗闇です。神を試せば試すほど、その暗闇は濃くなっていき、試したとたんに更に深い不安に囚われていくことになるでしょう。
 
 三つ目は「世界中の権力と繁栄を与えよう、もし私を拝むなら」です。権力と繁栄を手に入れたら、人類全体に「神の愛」を広げることも、人々を苦しめる愛のない行動を排除することもできるはず。人の道に外れた政治を行う皇帝たちを、権力の座から追い出すこともできたのでしょう。しかし、肉体を持ったイエスさまが、人々を護るために永遠に「悪者」を追放し続けることは不可能です。「誰かが何かをしてくれるのを待つ」だけの人々を作ってしまうのかもしれません。
 
イエスさまは何の迷いもなく、神さまの計画通りに淡々と、十字架への道を歩まれたようなイメージがあるかも知れませんが、神ではなく完全な「人として」生涯を送られた意味は、心の中の確信も、目に見える証拠も、また整った環境も最初からあったわけではない、孤独と不安と、時には恐怖と対峙しながら、一歩ずつ進むイエスさまだったに違いないと思うのです。私たちも、いざ自分の弱さと対峙すると、ゾッとするような思いに駆られることがありますが、それはじゃあどうしたらいいのか、といった先が見えず、頑張ったご褒美も見えないからです。でもそれが現実を見つめるということなのかもしれません。イエスさまはこの誘惑を通して、十字架への備えをなさいました。わたしたちはどのような準備が必要でしょうか。

あなたはわたしの愛する子

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.15


マタイによる福音書17:1-9

   今日の福音書もまた難解です。光のように白く輝く衣、イエスさまと語り合うモーセとエリヤ、この光景を見ていた弟子たち。いったいの誰のための何のお話なのか必要性が見えない気がします。もちろん様々な「解釈」はできますが、それが即「今日」を生きる力になるかというと、ピンと来ないのが正直なところです。

 今日の特祷でわたしたちは「自分の十字架を負う力を強められ、〜主と同じ姿に変えられますように」と祈ります。「主と同じ姿」になるとは、十字架上で苦痛を味わうことではないとは思いますが、では何をもって「主と同じ姿」になるのかと考えると、1つは「わたしの愛する子」と呼びかける神さまの声を、イエスさまのようにわたしたちも聞けるようになることが「主と同じ姿」なのかもしれないと思うのです。それは、簡単なようでいて、しかしなかなか難しいことかもしれません。

 「わたしの愛する子」とイエスさまが告げられるのは、いわゆる「親子関係」だからではなく、神の愛を信じている「わたしの子」とも聞こえます。つまり、「わたしの愛する子」という呼びかけは、イエスさまに限定されているのではなく、わたしたち個人に対して、わたしたちのいかなる状況に対しても告げられている言葉であり、しかも「人類」というグループ全体に向かって「わたしの愛する子たちよ」と言っておられるのではない。むしろ他でもない「わたし」という存在に向けて、聞いてほしいという切なる願いとともに、心を込めて渡された言葉ではないかと思うのです。

でもわたしたちは聞けないことも多い。辛い目に遭っているとき、「ほかの人は愛されているが、わたしはいらない人間なのかもしれない」と感じる。「こんなに孤独でいることを誰も知らないし、神にとってもどうでもいいのかもしれない」と思う。そんなふうに否定的になってしまうのは、再び自分にガッカリするのも怖いし、神を信頼することはとても勇気のいることだからです。負いたくない十字架、人々からの愛のない言葉、親しい人々の無理解の中で生きなければならないとき、「神さまは、本当にわたしを愛されているのだろうか」と、神への信頼はぐらぐらします。

 でもわたしたちは、「神さまの心にかなって」造られました。目に見えない神さまは、わたしたちを、目に見えるいのちとして造り、それぞれ個性溢れる人間として創られました。自分で自分の「個性」が気に入らないときもあります。でもそれは神さまの目には尊いもの。「自分がなんとかしなければ」と力んでいるときには感じにくいですが溢れるばかりの愛と慈しみ、そして必要な勇気が与えられていくと、心の底から信頼するとき、わたしたちは主と同じ姿に変えられていくのではないでしょうか。
 

「人」を変える変革

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.8

マタイによる福音書5:13-20

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)

今日は、なかなかキケンとも思える、この聖句に注目したいと思います。なぜならわたしたちが持つイエスさまのイメージは、「人から評価を得ることは期待せず、ひたすら善い行いをしなさい。人に知られなくてもいい、神さまはわかっていてくださる」というのが定番だからです。しかもこの聖書箇所は、「ひっそりとではなく、見えるように頑張りなさい」とも聞こえるフレーズ。こういう態度は、他人の評価を気にするファリサイ派の人々と同じではないか、果たしてイエスさまは、こんなことを本当におっしゃったのだろうか、と少し疑問に思います。

話は逸れますが、あるシェフが書いた本の話をしたいと思います。その中の一節に、コックとしての長い下積み時代、ひたすら鍋を磨く仕事を言いつけられた話が出てきます。彼がどんなに心を込めてピカピカになるまで鍋を磨いても、料理をつくる調理方は、ただ単に「洗ってあるから使える」としか思わない。もちろん感謝なんてされないし、多少手を抜いたって誰も気がつかない。そんな無味乾燥とも言える作業を「しかたがない」と自分に言い聞かせ、一定期間耐えれば終わるだろう、そんなふうに感じていたそうです。ところが、鍋を丁寧に洗い磨き続けていると、何がどうとは言葉にできないが、自身の視点が変わっていくのを感じるようになっていった。つまり、さっさと終わらせたい義務ではなく、向かい合っているのは鍋だけれども、そこには他でもない自分がいて、自分と対峙しているような感覚に入っていく。そして「鍋を磨く」ことは「(精神的に)自分を磨く」作業へと変わっていき、自らの内面が変化していくだけではなく、周りの空気や同僚たちの言動も少しずつ変化していった。いったい何が起きたのか、うまく説明はできないけれど、目の前の課題は、鍋を綺麗にすることに留まるのではなく、何百回何千回繰り返した後にならないと体験できない「変貌」がおきた。そんな話だったと思います。

鍋を洗う事とイエスさまのおっしゃる「立派な行い」を一緒くたにするのは少し気が引けますが、本当の意味で自分の声を聞こうとするとき、今まで気がつかなかった自身を発見し、それが周囲の空気を変え、周りの人々にも影響を及ぼしていく、という話なのではないかと思うのです。つまり、人にわかるような印象的なパフォーマンスの話ではなく、「これをする」と決めた覚悟の先には、それを何百回繰り返したあとでないと、到達することができない変貌が待っている、そういう話なのではないでしょうか。

今年の堅信受領者総会でわたしたちは、大切な議案を皆で討議します。考え方によっては、そんな余計なことより、もっと即効性のある具体的行動に、すぐ取り組むべきというご意見もあるでしょう。しかし、人々の前に「神さまの光を輝かせる」には、まずわたしたち自身が変わらせていただく必要があります。それは苦行と犠牲の上に成り立つ退屈な作業ではなく、神さまに信頼し、一旦「こうしよう」と決めたことに、心から取り組む旅路です。それは「あと何回成功したら次のステージへ行ける」というゲーム感覚ではなく、「まずあの人が変わらなければ」という手法でもなく、神さまの時間の中でしか進まない変化です。ノウハウは通用せず、わたしたち自身が「神さまの光を輝かす」媒体として、さらに成熟へ向かう信仰生活への旅路を、一緒に歩み出すことを意味します。基礎は「神さまへの信頼」です。わたしたちはお互いを支え合いながら、神さまへの信頼を深めていきましょう。

 

「幸い」なのはだれでしょう

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.2.1

マタイによる福音書5:1-12


今日の福音書を読んで、「やがて慰められるのだから、今悲しむ人々は幸せなんだ」と言われても、正直なところ納得はできない。あとで慰められるのならば、なぜ待たせるのか、今すぐに実行していただきたい、と思うのが常です。そして自分のことではなく、悲しみの渦中にある他者に対して、悲しくはなく困ってもいない人が、気休め的に「今はわからないかもしれないが、悲しさの中には幸いもあるのだから、あなたはそこに留まるべき」などと言うなら、それはもうのろいに近いかもしれません。

しかし上記の会話は、なかなか笑えないところがあって、差別を増長したり、支配/被支配の関係を固定化したり、あるいは束縛からの解放を諦めさせるために、この箇所を乱用していた時代もありました。

かつてはもっと酷いかたちで横行していた人種差別や性差別もそうですが、現代でも、倒れそうになりながらも家族の介護を押し付けられていたり、「ご奉仕」の名の下に、教会の中での役割分担も偏ったまま。そんなことが起きる根底には、この聖書の読み間違いもあるのかもしれません。自分の置かれた実情を変えられない苦しみは、精神的肉体的に疲弊するというだけではなく、「あなたはそういう仕打ちに、ふさわしい人間なのだ」というメッセージが本人を傷つけている場合もあります。

旧約聖書の世界では一般的に、律法を守れる人が幸せ、守れない人は不幸せという概念がありました。本人の努力ではどうにもならない貧困や家族関係、障害や怪我、病気も「不幸」の烙印でした。ところがそんな常識を、イエスさまはひっくり返します。貧しさを知っている人、どうにもならない悲しみを抱えている人こそが、神のいつくしみの中にあると。

いったい何を根拠に?とは問いたくなりますが、理屈ではないのでしょう。人々の暮らしの中にある貧困も悲しみも、イエスさまはよく理解され、わたしたちもその状態に追い込まれないうちは、知ることのできない真理が何かそこにあるのかもしれない、そんなふうにも思います。悲しみに遭い、苦しみが去らないことは嫌ですが、そこから脱却できない自分を責めるのはやめ、必要以上に恐れずに、進むよう促してくださっているのではないでしょうか。

「人」として生きる

管理牧師ロイス上田亜樹
2026.1.25

マタイによる福音書4:12-23

「大きくなったら、何になりたい?」こどもの頃、よく大人たち(親戚なども含め)から聞かれた質問です。しかしそれは、一人の女の子の将来を一緒に夢見ようという申し出ではなく、「お嫁さんになりたい」が望まれる正解でした。それ以外の職業(?)を口にすると、「もう少し大きくなったらわかるよ」などと諭される。お嫁さんから生まれた女子は、お嫁さん以外の職業選択の余地はない、という閉塞感が苦手でした。ましてやイエスさまの時代のこどもたちは、女の子も男の子も何かを選ぶ自由はなく、好きじゃなくても疑問があっても、生き方は決まっていた。もし自分が、その時代に生まれていたらと想像すると、絶望的な気分になったことを覚えています。

 

 今日の福音書に登場するペテロとアンデレ、そしてヤコブやヨハネが、「すぐに網を捨てて(イエスさまに)従った」のは、信仰深かったからかもしれませんが、長い間抱えていた「自分の人生これでいいのか」という問いがまずベースにあり、そしてついにイエスさま本人と対面したことで、社会の常識と保護を手放す決心がついたのではないか、そのようにも思います。

 

ところで問題は、「人間をとる漁師にしよう」(19節)というイエスさまの言葉です。読み方によっては、魚を捕まえて食べる目的と同様に自分の腹を満たすために、あるいは商品として利用するために人間を捕獲する、という話に聞こえてしまいます。しかし、この原文を見ると、マタイでは「あなたを人間の漁師にしよう」という言葉が使われ、またルカの並行箇所(同様の内容の別の福音書)では、「生どりにする」という言葉が使われています。漁師は漁師でも、消耗品としての労働力なのではなく、「人」として生きることへの招きの言葉であり、「人」を利用するのではなく、「生」かせるために働いてほしい、それがイエスさまの本意なのではないかと思うのです。重い肉体労働を伴い、人々の暮らしには欠かせない魚を供給する仕事であるにもかかわらず、社会的にはそれほど尊敬もされず、やがて労働ができなくなれば使い捨てのコマとして忘れられる、そうなる人生と諦めていた彼らに対し、神はそのようなことを望んでおられない、「あなたはかけがえのないひとりの人。人生を諦めないでほしい」そんな神さまの望みを受け取った彼らであったのではないかと思うのです。

 

またイエスさまは、まるでバプテスマのヨハネのように、「悔い改めよ、天国は近づいた」と伝えはじめました。人々の目に善いことを行うと天国が近づくのではなく、イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、全ての人に、特に「自分は恵みから漏れている」と感じてきた人々に、「他ならぬあなたのために、すでに神が準備をされている」と、自分のこととして聞いてほしい、それがイエスさまの宣教の始まりでした。イエスさまを通じて、必死に伝えようとされた神の声は、わたしたちにも聞こえますでしょうか。

「ゆるし」の認識

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.18

ヨハネによる福音書1:29-41

先週も「バプテスマのヨハネ」が登場しましたので、顕現節に入り2度目の登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようですが、ヨハネがイエスさまのことを、二度も「神の子羊」「私は知らなかった」とくりかえしていることなど、そう簡単には理解しにくい箇所かもしれません。

 「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が何か罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊を「いけにえ」として捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という慣習は、現代のわたしたちにはとうてい理解し難いものでしょう。

 しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でした。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。

なぜ洗礼なのか

管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.1.13


マタイによる福音書3:13-17

イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者に対して、日頃から「辛口」な意見をおっしゃっていた印象があります。ことに律法で定められた、さまざまな掟「安息日に作業をしてはならない」「異邦人と会話をしてはならない」など〜を重要視するよりは、神が大切にされる事とは何か、それを優先された気がします。ところが、本日の福音書にもあるように、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられました。洗礼を受けたか、受けていないかという「かたち」には、とらわれそうもないイエスさまですが、その真意は、何だったのでしょうか。

 

ひとつの目的は、神と人との関係を公にする制度としての「洗礼」の認知だったかもしれないと思います。この時代、洗礼という儀式は、ユダヤ教の専売特許ではありませんでしたし、いろいろな宗教または地域で、大なり小なり「洗礼ムーブメント」があったようです。また、イエスさまご自身は、誰かに洗礼をほどこしたことはありませんでしたが、復活したのちに会ったお弟子たちに対し、「すべての人に〜洗礼を授けなさい」と告げ(世界中に)派遣しています。

 

洗礼の中心的メッセージは、「罪から浄められる」ことが洗礼の目的であった時代もありましたが、現在は「神の家族の一人になる」ことが強調されます。これは、「罪」そのものが軽視されるようになったからではなく、「罪」の定義が変わってきたことと関係していると思います。犯罪行為や権威への反逆など、かつて教会がその定義をしていましたが、現在は、神の被造物(自分も含め)を傷つけること歪めること、また、不自然な我慢を重ねることや、見当違いの目標へ向かうことなども「罪」(的外れ)という理解の範疇になりました。そういう意味では、罪なのか/罪ではないのか、万人が受け入れやすい事柄と、「神と自分にしかわからない」罪の存在が共存することとなりました。

 

それにしてもイエスさまが洗礼を受けられたのはなぜでしょうか。「わたしたちの模範として」ということもあるのでしょうが、ご自身の受洗によって、神と繋がろうとする人々を支え、「神の家族」としてのかたちを共有しようとされたのかもしれないと思います。洗礼を受ければ完璧な人生が待っているわけではなく、急に都合のいい毎日に変わるわけではありません。目的はとてもシンプル。わたしたちに対して、「私の愛する子」と呼びかけ続ける神の声を、一生聞こうと努力する、そんな約束を交わすことではないでしょうか。 

「神の家族」ということ

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2026.1.4

 暦の上では、今日は3つの福音書から1つを選ぶようになっています。それでも特祷ははっきりと「聖なる家族」という言葉でまとめています。読み方にもよりますが、「ナザレで生活されたイエスさまのご家族にならい、わたしたちも神のもとに連なる兄弟姉妹として教会生活を送ろう」とも聞こえます。でもわたしたちが真似をしたいような、憧れの理想的家庭生活を、イエスさまたちは送られていたのか、というとそれは疑問に思います。

 臨月の妊婦マリアと、一緒に住んだこともないヨセフの家族生活は、まず山や谷を越え100キロ以上に及ぶ旅から始まりました。いざ出産の時が来ても泊まる場所は用意できず、生まれ落ちたのは糞塗れの家畜小屋。助けを求められる人もいない土地で、わざわざ訪ねてきてくれたのは文化も風習も異なる外国人(3名)、そして当時は真っ当な職業とはみなされにくい羊飼い。さらには、王による男乳児殺害命令が下り、急ぎ親子三人は国外へ逃亡。そんないつまで続くのかわからない避難生活が、彼らの「家庭」の始まりでした。

 しかし困難は外からだけとは限りません。いきなり始まったマリアとヨセフの同居生活には、何処から来たのかわからない新生児が最初からいました。また、故郷に戻ったところで、地元民による中傷や陰口もあったことでしょう。マリアとヨセフが一人の人間として出会い、互いの違いを受け入れて家族となっていくその前に、とにかく生き延びていかねばならない現実が目の前にあり、そこには1ミリの綺麗事もなかったのではないかと思うのです。

 この寒い冬を迎えて、諸外国でもそして国内でも、命の危険に晒されている人々がたくさんいることを覚えて祈ります、イエスさま、あなたは生まれたその瞬間から、居場所のないつらさ、雨や風に晒される苦しみ、飢えや乾きによる命の危険の現実へと投げ込まれました。命を守るため、生きるために必死でたたかう人々の痛みを、あなたはよくご存じです。あなたは彼らのまっただ中におられ、その人々を家族と呼ばれます。あなたの家族のひとりに加えていただくために、わたしたちの理解の足りなさに目を開かせてください。またそれらを受け入れる勇気とちからを、どうぞお与えください。わたしたちの全てを受け入れてくださる神の名によって、アーメン

お問い合わせ