管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.4.21
イエスさまは、ご自分と人々との関係を、羊飼いと羊に例えました。今日はまず、イエスさまの時代の羊と羊飼いについて思い起こしたいと思います。
羊は反芻動物。草、樹皮、木の芽、花を食べ、聴力に優れ、視力も周辺視野270–320°あり、頭を動かさずに自分の後を見ることができることから、背後の危険も察知します。また、人間や他の羊の顔を何年も記憶でき、顔の表情から、心理状態を識別する知能もあるとのこと。毛の色は、白に始まり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色、斑模様など、さまざまです。ところで、危険察知の能力には長けているのですが、気が動転しやすく、群全体が一気にパニックになることも。そうなってしまうと、初心者の手にはおえず、危険行動を止めることも難しいようです。ひとことで言うなら、臆病で、頑固で、自分勝手。
一方、羊飼いです。聖書の中で、「油注がれる」前のダビデが羊の群れの番をしていた、という記述があるように、こどもや老人など「お留守ばん」的な仕事から、何百という大きな群れを管理する場合までさまざまでしたが、いずれにせよ、古く(紀元前3000年頃〜)からある仕事の一つでした。羊は家畜ですが、小屋の中で飼うことはできず、常に牧草地へと移動するので、羊飼いも常に移動を強いられる宿命。しかしその存在は、人間が生きていくための生命線なのに、「いなくても大丈夫」とみなされ、共同体の中では軽視され、いつ来ていつ去っていくのか誰も関心がない余所者、というポジションです。
今日の福音書では、狼に羊を奪われても他人の財産だから適当にやればよい、個々の羊には関心がないというスタンスの「雇われ羊飼い」と、羊を守るために命まで捨てる「良い羊飼い」との対比が描かれます。通常、羊は自分の羊飼いを選べませんが、良い羊飼いは、個々の羊を熟知し、声を聞き分ける、そして羊も自分の意志でその声に従っていきます。またイエスさまは、「囲いに入っていないほかの羊」のためにも命を投げ出す、と言っておられます。
羊は私有財産であり生活のためには不可欠、だから守らなければならない、という主張ではなく、羊は臆病で、頑固で、自分勝手だが、それを受け止め理解している本物の羊飼いであるイエスさまは、何があっても命がけで羊を守り、そしてイエスさまと羊のつながりは、どんな力でも破壊することができない。そんな神さまの意志を、なんとかして伝えようとされているのではないでしょうか。