管理牧師 司祭フランシス下条裕章
26.7.12
マタイによる福音書13:1-9,18-23
あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。(マタイ13:16)
律法の正しさと神のいつくしみ、安息日をめぐる出来事から、ファリサイ派とイエスとの考え方やあり方の相違が徐々にはっきりとするようになり、当時の宗教的指導者たちとイエスの関係は対立的なものとなってきました。しかし人々は、イエスの言葉と行いを通してなされる御業に触れること、教えと癒しを求めて集まりました。
ある日、家を出て湖のほとりに座っておられるイエスのもとに、人々が押し寄せて来ました。そこで、イエスは舟を出して湖の上から、岸に集まっている人々に譬えを話されました。「『種まく人』のたとえ」(マタイ13:1~9)です。
譬えを聞く人々にとって、種まく人の姿は身近で、それを思い描くことは容易なことだったでしょう。種まく人は、出かけていって土の上に種をまきます。その場所が、柔らかで何も植えられていない土であっても、人々が通り踏み固められたところ、石の多いところや、草や茨が茂っている場所であっても、お構いなしに種は蒔かれてゆきます。なぜなら、当時のやり方では、種を蒔いてから、土地を耕して種を土に漉き込むやり方が一般的だったからです。こうして蒔かれた種は、あるいは鳥に啄まれ、あるいは陽に焼かれ、あるいは茨に阻まれて、実を結ぶことができないものもありました。しかし蒔かれたものは、大きな実りと収穫につながる、命やどる種でした。イエスは譬えで語られます。よい土地に蒔かれたもの、ちゃんと土の中に漉き込まれたものは、30倍、60倍、あるいは100倍にもなると。
たとえ話は、身近な出来事を示して、神の御心を人々の心に伝えるものです。それをどのように受け止めるか、そして受けとめた物事をどのように、それぞれのライフ・命の時間の中に示し、生かそうとするかが問われ、委ねられます。あなたは、あなたのこの種と収穫のたとえ話をどのように受け止めますか。(F)


